海揺録

自律とか、自由とかが、たぶんテーマです。以前は、精節録というブログ名でした。

遊ぶように生きる。趣味が世界をつくる。

色々あるけれど、とにかく、遊ぶように生きられたらいいと思っている。

だって、本気で遊んでいるときの集中力に勝るような力は、ほとんどない。寝食を忘れるほど生きることを楽しめているような時間は、大抵そうした集中の中にある。自分の可能性を最大化したいと思うなら、これ以外に選択肢はないように思う。

それでも「言い訳」や「逃げ口上」に苛まれそうになってしまうが、「遊ぶように生きる」以上に自分に正直な生き方があるわけでもなく、妙な縛りを振りほどいては、集中のその中に没頭していく。

誰に何を言われようとも、誰かを故意に傷つけるようなことをしていないのならば、ただただ自分と自分の人生とを楽しんで笑って進み続けるだけだろう。

 

趣味が世界をつくっている。

それは、根本的には誰かとの比較に楽しみがあるわけではなくて、まさにそれ自体を楽しみとして、誰から何かを奪うわけでもなく、何の格差を生むわけでもない。

だから、競争や比較のために生きる人が減り、趣味のために生きる人が増えるほど、世界は善くなる。個人個人が、誰と比べるわけでもなく善くなるのならば、それだけで世界は改善される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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三種類の反応

自分は、計画や目的、あるいは目標、夢を持っている。

何かの拍子に、誰かとそれについて話すこともある。

たとえば、聞かれたり、話の流れであったり。

 

そんなとき、聞いてくれた後の反応が三種類あることに気がついた。

きっと、種類自体は、もっと沢山あるのだろうけど、僕が体験した中では、以下にあげる3つのパターンが顕著だった。

 

ひとつめ。

「理解できない」パターン。「理解できない」というところで話が終わればいいけれども、大抵は批判や非難に繋がる。最悪、人格否定まで進みかねないのが、このパターンの怖いところだ。基本的に、その相手が非常にリスク回避型だったり、あるいは、自信が過小だったりして、僕を責めることを通して、彼や彼女は彼や彼女自身を責めているんじゃないかというように感じる時があった。このパターンは、匿名性の高いインターネットにおいて最もポピュラーな気がする。

ふたつめ。

「面白そう」パターン。これは単純な会話になる。相手自身も何かしら自分の軸を持っていると、面白そうと思ってくれれば、興味を示してくれる。お互いにお互いを尊重し合えるので、変な風に歪んだ解釈が生じにくいのかもしれない。基本姿勢として、距離感をある程度保ち合うことで、お互いにお互いの短所を曇らせることができて、長所に目が向くようになるので、理想的な人間関係のひとつなのかもしれないと思う。

みっつめ。

「協力」パターン。興味を示した上で、自分の活動範囲との接点を見つけてくれて、そこに協力の可能性、あるいは相互に助け合える部分を模索して、提案をしてくれることがある。これは、ふたつめの「面白そう」パターンの延長なのかもしれないが、非常に有難いパターンなので、特筆したいと思った。なぜなら、チャレンジには、常にリスクがあって、リスクへの対応策として、その対処や処理の方法における多様性は無論多い方がいい。多様なリスク対応策があれば、多様な状況変化に対して、より堅固なチャレンジが継続できる可能性が高まる。そういう意味においても、もちろん心理的な心強さ的な意味においても、「協力者」の存在は本当に有難い。それもきっとお互いに助け合うことになるわけだから、その有難さは一方向的なものではなくて、双方向的になっていることが大半で、変な押し付けがましさや、妙な権力とか利権が絡み合うことも少ない。

 

以上。

正当な批判であれば、心の許容量を成長させていけば、受け容れられるようになって、自分自身の改善にしっかりと役立ってくれるので、これは有難いのだけれど、ただの非難(区別はいつも難しいけれど)は、正直、数日の間、心に引っかかりをつくってくる場合もあって、やっかいなことがある。

ただ、そんなときも、視点を変えてみて、「このくらいの心のダメージを悠々とやり過ごしていけるようになったらこの先もっと生きやすくなるな」と思い直せば、心の耐性がついていく自分の様子を喜ばしく思えるようになる。いつもそんな冷静になれるとは限らないけれど。

誰かからどんなに非難や否定をされたとしても(そこまでの否定を受けたことはないような気がするが)、自分の存在と願望について、自分自身がそれを否定することはできない。それは実際と矛盾してしまうのだから。

否定することができないのであれば、肯定するしかない。どんな困難な心理的状況に追い込まれたとしても、それを肯定し続けなければならない。つまり「そうしたらよい」という類いの話ではなくて、「そうせねばならない」という不可避な状態なのだ。

避けることができないのならば、進むしかあるまい。もし、避けきれなかった時は、つまり死ぬだけだ。自己を全うして死ねるならば、死は自己実現の副産物のようなものであると分かる。

やりたいことをやろうが、やりたいことをやらないでいようが、死は平等に訪れる。その選択について、自らで選び取る力が与えられているのだから、自分が望む方を常に選択していたい。すると、自分に軸ができる。軸があれば、誰かと協力し合うことができる。「共感」は生きている意味のひとつであるのだから、あえてそれを味わわないで生きている理由はどこにもない。

もっと、自分という存在が周囲ととけあいながら、いつか、境目を感じなくなるほどに、世界に自分を見出せたら、それはとても望ましい状態なんだろうと、思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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思っていること。

やりたいことのために生きて、

やりたいことのために死にたい。

それを遂げるためならば、

どんな苦しみでも耐え忍ぼうと思える。

もしも、やりたいと思わないことのために生きるなら、

僅かな苦しみでさえ、どうしてあえて耐え忍ぼうとする力が湧いてくるだろうか。

意味のない苦しみを味わうほど、惨めな生き方はないように思う。

しかし、苦しみに意味があるのならば、

立ち塞がっている壁が、いかなる艱難辛苦であろうとも、

それを乗り越える力は、自分の内側から湧いて出てくるものだ。

だから、やりたいことを続けていく途中、

どんな過酷な壁が待っていようとも、

僕は意味のある生き方をしたい。

つまり、自分に正直でありたい。

 

ただ、それだけのことが、以外と難しい。

日々の少しずつの成長が、それを可能にしていく。

自らの意欲や不安とか、批判の声を受け容れる器が

大きくなればなるほどに成長は加速する。

 

それさえ分かっていれば、

焦ることなく器の焼き上がりを待つことができる気がする。

 

創造力は、正直な心の中に湧いてくる。

だから、自分の自然な状態を、変な風にねじ曲げて

心をゆがめてしまわないようにしたい。

 

創造力が、生きる意味をつくり、

苦しみに意味を与える。

 

日々の行動力は、

そうして出来上がっていく意味が

感情を揺さぶるほどに強くなっていく。

 

「もっともっと」と求めるべきは、

贅沢や栄華や単純な快楽ではなくて、

生きる意味の深さや強さなのではないかと、

僕は本心から思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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それでもオナ禁をする理由

前回の記事「オナニー肯定論」の続きを書こうと思ったけれど、そんなことよりも、それでもオナ禁を続ける理由について書く方が、大切なように思って、そうすることにした。

僕は、オナ禁に対して、してもしなくてもどちらだってよいのであろうという考えを持っている。この考え方はオナ禁のみならず、世の中で「したほうがいい」とされていることに対しても、興味が持てない場合は、そんなことまったく無視してしまうように、どうも成長してしまった。

むしろ、「そんなことして何の意味があるのか」と言われるようなことであっても、自らの興味や考えの中に内包できると思ったら、とりあえず手を出してみる。いろんなことに手を出しているから、身内であっても周りからは何をしているか分からないという認識をもたれることが多い。世界の認識が違えば、言葉は通じない場合もあって、理解してもらおうと弁舌を達者にすることは基本的に放棄した。話すことは苦手なのかもしれない。

オナ禁の話に戻る。僕が思うに、オナ禁の素晴らしさは、オナ禁から得られる効果そのものというよりかは、自分自身で自分自身がつくりあげた規則に基づいて自分自身を律していくという、「自由」の体現にあって、そうした「自律」の姿勢が、生活全般に波及していくという点に、いつも可能性を感じている。

あと、他のオナ禁の同志に怒られるかもしれないが、ネーミングが微妙にダサかったり、目標を決めて達成したからと言って公言することにあまり意味がないようなちょっとした恥ずかしさが潜んでいるのが、とても好きだ。

小さな子供が、親に隠れて、自分だけの小さな秘密基地をつくるような感覚と言ったら、この子供の純粋さをけがしてしまうようだけれど、まさに「内緒の喜び」という、誰とも比較し合うことのない、本質的な自分自身の喜びを享受することができて、しかも、これは、誰かを傷つけたり、誰から嫉妬されたりなど、おそらくされようもない楽しみなのだ。これほど素晴らしいこともない。

逆に言えば、オナニーもまったく同じ性質を持っている。しかし、それは自律的な自由ではなくて、どこか奔放な自由になる。僕は、それもまた好きなのだ。だから、ときにはそうした奔放さを実現できるように、規則を構築する。

自分自身で行動を規制しているならば、誰が何と言おうが、僕はそれをオナ禁と呼びたい。なぜなら、オナ禁の本質は、日数よりも、エロ禁よりも、自己における自制心の実現にこそ存していると、考えているからだ。

オナ禁の質問に、「エッヂングや汁遊びは、オナニーに含まれますか?エロ鑑賞は何分までならセーフですか?」などというものを見ることもあるが、僕はそれに対してはっきり言いたい。「自分で決めろ。それがオナ禁だ。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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オナニー肯定論

適切でないオナニーにおいては、確かに害悪が多いということは周知の事実であるように思う。

さらに言うと、僕が述べようと思っている考え方は、おそらく多くの点で間違っているものと思う。

しかし、ある一点においては、多様な生き方や善が共存する現代で、皆が共通に認識しておくとよいであろう問題について、オナ禁という個人的視点のみでは考えることが難しいところを、多少なりとも考察できているのではないかと思って、あえてこのタイトルで文章を書いてみることにする。

オナニーは、自分自身の問題として扱うには、目に付く害悪の部分が非常に多い。例えば、過激なポルノがパートナーとの性生活に支障をきたす可能性については、それがゼロとは言い切れない以上、もしも最悪の場合を想定するのであれば、パートナーのことを考えて避けるべき事柄であるように思う。しかし、こうした問題は、経験を積み、パートナーとのコミュニュケーションが適切に為されていくならば、乗り越えていける話でもある。

思い出すと、今でも可笑しいのだが、僕は、当時処女だった彼女とセックスをしたとき、彼女が気持ちよさで喘いでいるのか、痛くて喘いでいるのか分からなかった。もちろん後日談で、痛くて喘いでいたことが分かって、酷く反省した。それまでにAVは何百本、サンプルを含めれば何千本と見ていたから、そのくらいは当然分かるものと思っていた。けれど、自分が実際には、喘ぎ声と悲鳴の区別すらできないような男であることを思い知って、セックスは「見ている」のと「実際にする」のとは大違いであることを、彼女の苦痛と悲劇を代償に学ぶことになった。

ただ、馬鹿みたいな体位を試してみたりしたときに、相手が「それはいや」とか「いたい」とか「やだ」とか言ってくれたお陰で(相手の微妙な反応からは分からないことが多いということが分かったので言ってくれるように頼んだ)、徐々に「何が良いのか」という基本的な部分が改善されていくと、性生活においてAVも役に立つようになることがあるという可能性を知るようになった。

エロに触れていく中で、古今東西におけるアイデアのすごさ、ジャンルの広さ、その底のなさが、他の分野の事柄にまったく引けを取らないものがあることに気がつくし、更新のスピードも速い。それらを鑑賞するとき、僕ら男は、基本的に情を差し挟む余地なく、好みでないものを切り捨てていく。顔がタイプでなければ、30秒もたたないうちに別を探す。

そうしているうちに、自分が興奮するジャンルを見つけ出していくことになる。数年も立てば、自分がスク水に興奮するのかしないのか、二次元を受け入れるのか受け入れないのか、むしろ二次元しか受け入れないのか、胸の大きさの好みはどれか、ギャルは好きか嫌いか、など、無意識にも選別作業の中で自分を見つけていくことになる。

その興味の幅が、きっと後々のセックスのまんねり、ひいては、関係性全般のまんねりの打開策になったりもする。

いや、きっとそれは他の分野にも共通することだから、もしもパートナーと自分が似たような趣味をもっているならば、そこの幅や深みを増していくことで、いい結果がもたらされるに違いない。けれど、男なら理解してくれる人が多いが、女性のショッピングに6時間も付き合うようなことがあるとすれば、それは楽しみではなく、ほとんどが忍耐になる。きっと女の子も、男たちが血眼になって好みのAVを探索することに時間を費やすことに、ほとんど共感できないはずだし、嫌悪感を抱くこともあるだろう。

つまり、本当に理解し合える個人的感心を共有できるならば、それは非常に有難いことだが、希少性は高いように思う。その希少なものである、共有しうる個人的感心の中にセックスが含まれているならば、もしも2人で探求しないとすれば、それは非常にもったいないことであるように思うのだ。

例えば、ここにコスプレ好きの男がいて、彼女がコスプレをするのが好きだった場合、お互いに恥ずかしがって、打診し合わないとしたら、もっと2人で楽しめた可能性を、どれだけの夜あるいは朝に、見過ごしていることになるだろうか。

さらにいえば、男の側がもしも、自分がコスプレプレイが極度に好きであるということを知らないままでいたとすれば、それは自分自身の探求を怠ったことによる損失にすら見える。けれど、この辺りからは、個人的な自由の問題に関わっているのであまり他人が首を突っ込むものでもない。押し付けがましい意見は止めておく。

色々、話が脱線してしまって、本題に入る前に長文になってしまったので、序文だけれども、一旦この辺で区切ることにしたい。

続きを書く気になれば、また次回にでも書いていきたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

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理解者とは探すものではなくて、自らがなるもの。

「自分のことを理解できる人などいるのだろうか」という問いは、なんとも惨めな問いであろうか。逆に、「自分は誰かを少しでも理解することができているだろうか」という問いは、どれほどの心の優しさを必要とするだろうか。

自らの理解者を欲するのであれば、それに先んじて自らが、誰かの理解者となるべく努めることのみが、その願いを叶えるための術であるように思う。

愛情や優しさは、自然な感情ではあるものの、あまりにもその感情は、繊細で色が透き通っているから、傲慢さや虚栄心といった色の濃い感情に、心の座を占領されてしまう。だから、我が強く色の濃い感情をなるべく心から取り除くことを忘れていると、思考が自己閉塞的になってしまうため、「理解者のいない世界」を自らでつくりあげてしまう。

「我」以外の視点をいくつか持っていれば、その惨めな世界に陥ることを少なからず避けていけるように思う。それは、「自らが誰かの理解者となる世界」を自らでつくりあげることであって、その世界では、奇妙な力が湧いてくることに気がつく。

心の中で孤独に生きていると、自分以外に力の拠り所はない。しかし、誰かの視点を心の中に持って生きていくならば、自分以外の力が、自分の中に存在していることに気がつくのだ。

たとえば、「なんてことのない誰か」を愛すると同時に、「なんてことのない自ら」も愛されてよいのだと、自分の心の中に、大地のような温もりを見つけることができる。何かを大切に見ることができれば、その何かの中に、光る部分があることを発見していく。光る部分をもっと輝かせようとして、それを磨き続ける。この研磨の日々にあっては、我が強く色の濃い感情は出てくる場面がない。その必要がないからだ。心を誤摩化して、何かを頑張る必要はないのだ。疲れたら、自然に休む。無理をしたければ、無理をして、時には身体を壊したりもするかもしれない。しかし、その無理には欺瞞がない。だから、落ち着いていて楽しい。

もしも、世界に惨めさをみつけたら、そのときは、今まさに自らが惨めなのであるという事実に早く気がついた方が良い。もしも、何かや誰かを下に見るときがあるなら、そのときの自分の視野は酷く狭い。なぜなら、存在を構成する最小単位同士の優劣の比較が無意味なように、その寄せ集めであるに過ぎない存在同士の優劣の比較もまた無意味であるからだ。こうした無意味を、皆で楽しめるうちはいいけれども、無意味なことによって、人格などを貶め合うことほど悲しい行為もない。

主観的な考え方に偏り過ぎているから、自らの中だけに、上下が生じる。そして、勝手に世界を惨めなものと解釈して、その世界に生きる自分自身を無益に惨めな存在に貶めていく。

さて、目の前の景色の色合いは、自分で色付けていくことができるのだ。それは、心の状態と創造力によって。ならば、なるべく好きな色をそこに描き上げたい。だから「理解者は探すものではなくて、自らがなるもの」だということを、僕はなるべく忘れないようにしたい。

 

 

 

 

 

 

 

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自律力

生きる意味や価値は、自らで創ることができるのだと気がつけば、その次は、生きる力を手に入れることに意味を見出せるようになるのかもしれない。生きる力と一言にいっても、人間関係、お金、権力、資格、能力、才能、知性、優しさ、愛情と様々にある。
価値を実現するには、その価値の実現を妨げようとする要因に打ち克っていかなければならない。要因は、物理的な障害のみならず、心理的な障害こそ、その大きな割合を占めているように思う。
素晴らしい価値を想像しようとも、それを実現していく力がないとすれば、絵に描いた餅に過ぎない。たとえば、豚が空を飛ぼうと考えたとしても、彼の毎日が与えられた餌を貪り続けるだけでは、彼の夢は夢のままで終わる。もしも、断固とした決意と行動力によって、その餌場から抜け出し、空を目指そうとするならば、飛行機の貨物に紛れ込んでその願いを叶える可能性はあるだろう。
そう考えてみると、創造力の次に重要となるのは、リスクを背負う覚悟のような気がする。それは、自律力と言い換えることができるように思う。
自分が信じる価値において、自分で考えたことを実現する際に、すべての責任を自らに負わせて生きる覚悟を意味する。
自らの人生の中に、他者や周囲の環境といった、自分以外の責任を見出して言い訳をひねり出す様な無様な真似は控えたい。
しかし、とはいっても理不尽なことは少なくない。明らかな外的な悪に対して憤りを感じる場合もある。ただ、そんな時でも、「改善せよ」という意識の矛先は常に自分に向けていなければ、現状を変えていく力を自らの手から手放してしまうことになる。
他者を責めず、自責を徹底する意味は、必ずしも自らが悪いからではなく、「改善の実現」を他人任せにすることなく、自らを起点として自らの手で行い続けるのだという意志を絶やさないためにある。
すると、外的な比較や競争は無意味さを増し、自分が創造する価値の実現に近づいたかどうかに、日々がフォーカスされていく。本質とは無縁の欲望の数々は薄れ、それによって集中力は研ぎ澄まされずにはいられなくなる。
「薄紙を一枚一枚重ねる様な日々」であっても、その一枚一枚は、それ自体が一つの達成と完成であり、故に日々に喜びがもたらされる。
薄紙一枚は、確かに薄いが侮るなかれ。毎日、前日までに積み重なった枚数の二倍の枚数を重ねていくならば、計算上、約40日後には月まで届く高さになる。月までの距離は、約38万kmという。1kmは1000m、1mは100cm、1cmは10mmなので、380000000000mm(3800億mm)である。薄紙を0.1mmとして、2倍にする計算を繰り返すと、10回目で500mmを超え、20回目で500000mmを越え、30回目で5億mmを越え、40回目で6000億mmほどに到達する。(計算が間違っていたら申し訳ない。)
直感的に不可能に捉えてしまうことであっても、日々という積み重ねは、事実としてその直感を覆していくことがあるのかもしれない。奇跡と呼ばれる様なことも、直感と事実の差が生み出した錯覚である場合も少なくない。
自らによって計算し、精査された可能性を信じて進んでいきたい。そうであってこそ、リスクを受け入れることもできるし、日々の一枚一枚を本当に喜べるからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

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