海揺録

自律とか、自由とかが、たぶんテーマです。以前は、精節録というブログ名でした。

自我を切り離す

取り組んでいることに対して、それに愛着を持つほどに、それらがまるで自分の一部かのように錯覚し始めることがある。愛着自体は、非常にいい響きであるし、それがあるからこそ何かを好きになったりできるものだと思う。しかし、自分と同一視してしまう錯覚は、時として悲劇を生む。

順調なときはよいのだ。感情は高揚し、幸福感は増大する。しかし、問題は、順調でないときにある。それらを自我と同一視しているから、まるで自分までも順調ではなくなったかのように思い込んでしまい、本当にそうなっていく。

僕は、オナ禁をしている同士の方々に向けて、この文章を書いているのみならず、他の分野に関しても、こうした自我の錯覚は同じことをもたらしていると思っている。

上手く行かないときは、対象としている物事と自分は同一のものではないことを思い出したい。上手く行っている時に関しては、正直どちらでも構わないだろう。しかし、一貫性を持たなければならないことや、感情の影響が強い事柄に関しては、やはり、取り組んでいることと自我とを切り離してとらえる視点が、非常に重要になるはずだ。

また、そうした視点は、自分の考え方を矯正するというよりかは、むしろ技術的に習慣化してしまうほうが手っ取り早いように思う。たとえば、システムを作って、例外なくそれに則るようにするとかであれば、いつからでも可能だ。考え方を変えていくという方向をとると、毎日の変化の計測は困難だが、システムに従ったか、それとも従わなかったであれば、毎日が改善を果たしているのか、そうでないのか、明瞭化する。

すると、本当に自分が順調なのかどうかが、自分によって客観的に判定できる。そうした客観視が、繰り返されているうちに、「当たり前の事実」を無意識は覚え込んでいく。取り組んでいる物事と、自らの改善度合いは、同一ではないという事実だ。確かに、比例関係にあるときもあれば、反比例関係にあるときもあるだろう。しかし、自分自身ではないことが分かるのだ。

そうなれば、同一性の呪いに縛られていた愛着の姿勢は奇妙な変化をとげる。深く取り組むことに対して、それを、まるで恋人のように愛し始めるのだ。その仲が上手く行かないような日も、とても楽しめた日も、同じくそこには愛情が注がれる。

何かに優しくなり始めると、それは他の方向への拡大し連鎖していく。そうなれば、自我に縛られていた「苦しみの生き方」から、率直で「優しい生き方」に変わっていく。そんな気がしている。

 

 

 

 

 

 

 

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脳の貪欲さ

たとえば、何かしらの問題の解決策を練る。問題が複雑であればあるほど、細分化して、段階を追って、解決の手順を整理していくのが大変になる。あるときは何時間もかかる。当然一日では終わらない。けれど、頭を休めることなくひたすら考え続ける。すると、そのうちに頭が働かなくなってくる。「ああ、そろそろ寝なければいけないのか。」そうして、床に就く。寝る間際まで、頭の中は問題のことで一杯になっているようだが、しかし、同時に意識が遠のいていく。

朝、目が覚める。よくわからないが、問題の解決ができそうな感覚が訪れる。脳が何かを囁いてくる。よく耳を傾けると「お前、簡単な話だ。あれをそうすればいい。」そんな風に、教えてくれる。ひと呼吸おいて考える。ひらめきと似た感覚が到来して、寝起きであったことも忘れて、再び問題と向き合い始める。すると、するすると絡まっていた糸が解け始める。とても面白い。

さて、たとえばプログラミングであれば、問題自体を自らで設定して、その計算の段取りをまた自らで組み立てていく必要があって、そこに変数なり調べたいものを入力して、コンピューターに計算してもらう。しかし、脳は違う。寝る前に、問題を頭の中に放り込んでしまえば、寝ているあいだに、計算の段取りや問題の再定義、そして、最終的な解法と解答まで導き出している。そんなことがあるたびに、まるで神様が身体の中にいるかのようで、不思議な気持ちになる。

一方、起きている間、脳や身体は、快楽を求める。だから、もしかすると、問題の解ける喜びのために、寝ているあいだも休むことなく働いているのかもしれない。そう考え直すと、なんとも貪欲なやつだなあ、と感心させられる。

この神なのか獣なのか分からないような存在と、仲良くやっていくためには、もっと快楽の本質について考える必要があるのだろう。

それは、彼にとって毎日の糧であり、おそらく存在意義そのものなのだろう。だから、できれば、なるべく美味しいものを食べてもらいたい。それは、味だけでなく、手間や、感謝といった総合的な意味での美味しさでありたい。

インスタントラーメンやジャンクフードは確かに手軽で美味しいけれど、心が満たされない。貪欲な彼には、そんな手抜きの食事は通用しない。日々の改善の中で、料理の腕をあげていきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

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不思議な愛おしさ。

ぼーっとしてみると分かりやすいが、焦りや苛立ちの感情が生じているときの心というものは、何かにとらわれていることに気がつく。

それは、実際、他人から見ればありがちなことであり、かつ、自分が感じているよりも本来はたいしたことのない悩みばかりであることが多い。

しかし、たとえば恋に落ちている者は言う。

「この身も心も悶えるような日々が続くようであれば、一体自分はどうなってしまうのだろうか。この状態は、はたして死ぬよりも辛いのではなかろうか。ああ、恋しい。」

それから、1ヶ月が経ち、1年が経ち、3年が経つ。

その者は言う。

「当時は、どうなってしまうのか悩んでいたが、あれから3年が経った今、特にどうにもなってなどいない。いや、恋の温度は変化するものだと頭ではわかっていたはずなのだが、どうやら、当時はそんなことが信じられなくなるほど、全身が焼けるような恋をしていたのだろう。ああ、熱狂の中では、知識や知性、論理や理性は、なんと無力になることであろうか。しかし、熱狂を後悔する気持ちは不思議なことに微塵もない。むしろ、あの辛かったはずの日々が懐かしく、恋しさすら感じるものだ。」

そして、この悲劇なのか喜劇なのか分からない日々は、何度でも繰り返されていく。

さて、死に際に、その者は再びこう呟く。

「ああ、情けない失敗ばかりであった。しかし、なぜだろうか、今も不思議なことにそれらを愛おしく感じている。思い出すと笑みがこぼれずにはいられない。できの悪い子ほど可愛いとは言うものだが、なるほど、自分自身のできの悪さも、今となっては全てがこんなにも大切に思えるとは知らなかった。恥をかいてくれた昔の自分に感謝せねばなるまい。ありがとう。」

 

 

 

 

 

 

 

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ちっぽけな生き物。

自分にとっての自分の存在は、いつだって実物以上に大きく感じてしまう。しかし、ふとした瞬間に、その小ささを実感しては、「ああ、こんなにもちっぽけな生き物。」と、いろんな認識が変わる。

悩んでいるようなことも、それと一緒にちっぽけなものなのだと実感することができる。それは、今かかえている悩みや苦労について、たいしたことなんてないのだと思い込もうとしたり、論理的にそれを片付けてみたり、実質的にはほとんど役に立たないようなこととは根本的に違っている。

成長欲求や向上心は、「上に上に」「大きく、もっと大きく」と、絶え間なく自分に働きかけているが、実際はこんなにも小さい。そうありたいという願いが、実物以上に自分の認識を錯覚させているのかもしれない。そうやって、自分がちっぽけな悪人だということから、目をそらしながら生きているような、そんな感じがする。

「大きなことを成したい」という自然な願いは、たいてい頭の中から出ることはない。たとえ、ちっぽけだとしても、この等身大の自分をめいいっぱいつかって、着実に叶えられる願いを、ひとつひとつ成し遂げていきたい。そして、その小さな誇りを、誰に誇るわけでもなく自分の中で大切に積み重ねていきたい。

たとえば、小さな部屋にいて、部屋から出れば広い世界があると想像してみる。そのとき、部屋というこの空間は、なんだかちっぽけに感じて、そこにいる自分が、とても情けなく感じるが、それは無茶苦茶な話だ。この小さな部屋をめいいっぱいつかえば、どれだけの可能性があるのか、見失っている。

情けなくとも、弱くとも、無能でも、それが現実だ。しかし、だからといって絶望することはない。どんなちっぽけな存在にも、希望はある。希望を叶えるチャンスは、常に与えられている。

どん底にいようとも、どん底にいるという事実を無視しないようにしたい。そこでまず、自分を活かすことを考えたい。

自分の小ささをどんなに強く感じても、だからこそ、毎日希望を持ちたい。そして、そのために、日々の改善を試みていきたい。

 

 

 

 

 

 

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「相手の気持ちを考えろ」という困難を越えていくために。

自分とは異なる視点を相手が持っているかもしれないということが頭で分かっていたとしても、その相手の視点がどのようなものであるかまで分かることはほとんどあり得ない。

だから、自分の主張を伝えるときに、自分にとっては正しいとしても、相手にとっては正しくないかもしれないということを、常に意識しておく必要があるが、それは意外と難しい。なぜなら、相手には正しくないかもしれないという意味において、自らが間違っているかもしれないということを認めるのは、自分の主張の客観性を疑うことであり、まず他者を責める気持ちに考えが向きやすくなる。さもなくば、自己矛盾に苛まれることを避けられないからだ。

そして、そうした自己懐疑心や自分が誤っている可能性について検証を絶やさない姿勢というものを、対峙しているお互いが同時に持っているということが理想ではあるものの、その状況というのは、誤りの可能性を認めるという困難さが単純に二倍に増えるわけだから、より難しいことが分かる。

相手の気持ちを考えた上で、自らの思いを伝えていくということにおける実践的な難しさは、こうしたところに起因しているように思う。

しかし、だからといって、難しいからという理由で、たとえば話し合いにおいて何も判断せずにいるということもできない。

だからそこでは、正しいからという理由で行為を実行するという意味ではなく、誤っているかもしれないが、何かあったときの責任は自らが負うという理由で行為を実行するための強烈な実行力、つまり胆力が求められる。

そうなると、もはや小賢しい論理はむしろ邪魔者となり、また、自分の能力やクオリティーなどはあまり価値を持たなくなる。必要となるのは、その胆力と行為を遂行するにあたって、応援してくれる人々の存在だ。それこそが、上手く進むための確率をあげる力になる。

なぜなら、複数での決定事項というのは、当然独りで行うことではなくて、皆で行うことだからだ。皆で行うことであれば、皆が価値を見出さなければならない。自らは、行為自体に価値があると考えている一方で、他の人が、それを理解してくれないとすれば、それを理解してもらうための最大限の努力が必要になるし、あるいは、行為自体ではなく、自分自身に価値を見出してもらう努力が必要になる。

きっとそれは、長い道のりだが、長い道のりだからこそ、その過程の中に信頼というものが自然とついてくるような気がしている。

 

 

 

 

 

 

 

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「欲の長さ」と歩幅。

外的な競争。

まるで、市場で動き続ける価格のように、あっちへこっちへと変化していく。そのスピードは、競争が苛烈になればなるほどに加速していく。そのスピードについていけなかった者、あるいは、スピードについていくことにうんざりした者は、そこから抜けていく。振り回されているうちの日々は、それに応じてものすごいスピードを要求されるから、自分がとても速く走っているような錯覚に陥るが、実際の姿は、ただ首輪をつけられて、飼い主に振り回されているだけである。その足は地上から浮いている。だから、外的な競争からおりた途端にある事実と向き合うことになる。あんなに必死になっていたのにほとんど成長していないのだ。自分で走ってみようとすると、足の筋肉はむしろ衰えてしまっていたことに気がつく。

 

自然な成長。

まず、自らの足を起点として、日々を何かしらの改善にあてていく。一度に多くを欲することなく、叶えられる願いを叶えていく。欲深さのかわりに、持続的に可能な欲求を軸にしていく。つまり、「欲の長さ」を意識したい。

もし、欲深くなっているとするならば、今手の届かないことについて思いめぐらしているからだろう。だから、視点を取り戻す。自分の足下を見て、手の届く範囲を確かめる。つかみにいけるものをつかみにいっては、それを繰り返す。すると、気がつけば多くの力を得ていることに気がつく。背丈は伸び、歩幅は広がり、一日に成せる事柄は増えていく。歩むスピードは、たいして変化などしてはいない。無理をせず進んでいる。ときには立ち止まって考えることもある。ただ、自然な成長が、自身の歩幅を広げていくから、歩む距離はどんどん長くなっていた。

 

選択。

外的な競争は、いつも参加者を募っている。上手い言葉に誘われそうになる。

自然な成長は、不安定な自由でもあり、ある種の恐怖感がある。

目先の安心感を求めるならば、前者を選ぶだろう。

しかし、「欲の長さ」を意識するならば、後者を選ぶ。

 

競争力。

本質的な競争力は、競争のさなかに出来上がっていくということは稀だ。競争から離れて、実力を蓄えるから、強くなる。力のない者が戦いを挑み続けても死ぬだけだ。力をつけるまでは、潜伏し、鍛えなければならない。

 

歩幅。

歩みの速度は一定でも、歩幅が広がれば、進む距離は長くなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

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オナニーと免疫力

オナ禁という言葉が意味するところは多様で、単純にオナニーだけを禁止する人、あるいは、セックスまで禁止する人、射精だけを禁止する人、その意味は多岐にわたっている。

今の僕はというと、別段それらの行為を禁止しているわけではなくて、射精の間隔をただ単純に記録している。つまり、セックスとオナニーに違いを設けるわけでもなく、射精すれば同じようにカウントしてきた。

ただ、このブログのタイトルであるように、精節ということの重要性を考えているので、行為におよぶにあたっては、記録している日数の平均値を下まわらない間隔であるようにと心がけている。

しかし、その中で、射精の違いについて、段々と確信に変わってきた体感がひとつある。

 

免疫力。

当然目にはみえないのだけれど、その力について、はっきりと体感できる部分は強い。なぜだろうか。理由は分からないが、推測できる説はいくつかある。

その中で一つ、一番シンプルで、自分が気に入っている説について、書き残しておきたい。

 

笑顔。

これが免疫力を高めるということが、さまざまなところで検証されている。その理由も、色々なところで考えられているので、それについて、僕はあえて自分の薄っぺらい知識をここに書こうとは思わない。

さて、笑顔が免疫力と高めるということと、オナニーやセックスとの関連性は、すぐに想起できると思う。パートナーと行為を楽しんでいるときと、1人で行為を楽しんでいるときで、どちらがより長い時間、笑顔でいるだろうか。それはもちろん、人それぞれかもしれないが、相手に対しての好意が強ければ強いほど、充実したセックスと、充実したオナニーとの差は広がるように思う。

つまり、免疫力についてのこの考えの本質は、笑顔や心理的な心地よさに由来しているわけで、オナニーとセックスの違いが直接的にその要因や変数として機能しているわけではないのだが、もう少し深く考えてみると面白い。

 

オナニーを日々繰り返している男がいるとしよう。彼は、毎日毎日、ときには1日2回以上、行為に勤しんでいる。毎日繰り返すうちに、同じようなやりかたに飽きてくる。さまざまに試してみては、もっと刺激的なことをと、行為の内容は激しさを増していく。オナニーをはじめた最初の頃は、少しのエロと、少しの刺激で、楽しさを味わっていたが、今や、過激という言葉がぴったりな行為で、なんとかより強い快楽を得られないものかと必死になっている。しかし必死になって得たはずの快楽は一瞬で抜け落ちていく。しかし、それを得るためにはより長い時間を費やしていく。行為の中で彼が、まだ笑顔を見せる余裕があるとすれば、その一瞬だけだ。

セックスはどうだろうか。確かに、ひどく溺れれば、先の男と同じような状態に陥るということは間違いない。しかし、それはつまりオナニーのようなセックスということで、もしそこに相手への思いやりの一つでもあれば、お互いがお互いの救いに変わることは明白だ。ということは逆に、セックスのようなオナニーだってあるのかもしれない。だから、大切なことは、心の底から楽しめているかという点にあるのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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