海揺録

自律とか、自由とかが、たぶんテーマです。以前は、精節録というブログ名でした。

オナニーと免疫力

オナ禁という言葉が意味するところは多様で、単純にオナニーだけを禁止する人、あるいは、セックスまで禁止する人、射精だけを禁止する人、その意味は多岐にわたっている。

今の僕はというと、別段それらの行為を禁止しているわけではなくて、射精の間隔をただ単純に記録している。つまり、セックスとオナニーに違いを設けるわけでもなく、射精すれば同じようにカウントしてきた。

ただ、このブログのタイトルであるように、精節ということの重要性を考えているので、行為におよぶにあたっては、記録している日数の平均値を下まわらない間隔であるようにと心がけている。

しかし、その中で、射精の違いについて、段々と確信に変わってきた体感がひとつある。

 

免疫力。

当然目にはみえないのだけれど、その力について、はっきりと体感できる部分は強い。なぜだろうか。理由は分からないが、推測できる説はいくつかある。

その中で一つ、一番シンプルで、自分が気に入っている説について、書き残しておきたい。

 

笑顔。

これが免疫力を高めるということが、さまざまなところで検証されている。その理由も、色々なところで考えられているので、それについて、僕はあえて自分の薄っぺらい知識をここに書こうとは思わない。

さて、笑顔が免疫力と高めるということと、オナニーやセックスとの関連性は、すぐに想起できると思う。パートナーと行為を楽しんでいるときと、1人で行為を楽しんでいるときで、どちらがより長い時間、笑顔でいるだろうか。それはもちろん、人それぞれかもしれないが、相手に対しての好意が強ければ強いほど、充実したセックスと、充実したオナニーとの差は広がるように思う。

つまり、免疫力についてのこの考えの本質は、笑顔や心理的な心地よさに由来しているわけで、オナニーとセックスの違いが直接的にその要因や変数として機能しているわけではないのだが、もう少し深く考えてみると面白い。

 

オナニーを日々繰り返している男がいるとしよう。彼は、毎日毎日、ときには1日2回以上、行為に勤しんでいる。毎日繰り返すうちに、同じようなやりかたに飽きてくる。さまざまに試してみては、もっと刺激的なことをと、行為の内容は激しさを増していく。オナニーをはじめた最初の頃は、少しのエロと、少しの刺激で、楽しさを味わっていたが、今や、過激という言葉がぴったりな行為で、なんとかより強い快楽を得られないものかと必死になっている。しかし必死になって得たはずの快楽は一瞬で抜け落ちていく。しかし、それを得るためにはより長い時間を費やしていく。行為の中で彼が、まだ笑顔を見せる余裕があるとすれば、その一瞬だけだ。

セックスはどうだろうか。確かに、ひどく溺れれば、先の男と同じような状態に陥るということは間違いない。しかし、それはつまりオナニーのようなセックスということで、もしそこに相手への思いやりの一つでもあれば、お互いがお互いの救いに変わることは明白だ。ということは逆に、セックスのようなオナニーだってあるのかもしれない。だから、大切なことは、心の底から楽しめているかという点にあるのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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自らとの向き合い方

さて、慌ただしさや焦りのうちから、ふと抜け出してみる時があって、自らと向き合うことを試みる。

従来の奇妙な方法として、「理想」という名の下で、達したい自己像を掲げて、そのいくつかの目標までの距離を計測して、距離が長いようなら、ひとまず区切りのいいところまで細分化してみて、そこまでの努力なり作業の量を考えてから、ご丁寧に計画をねって、「よし、明日から始めよう!」そんな感じのことが度々あった。

それが自分だけであるならまだしも、むしろこうした方法を善意的に奨励してくる人々は数えきれないほど周囲に居ることが分かった。

 

なぜだろうか。自らと向き合っていたはずが、その欲望を確かめているうちはよかったものの、そこから次第に離れて変なものをつくりだした。もはや、「理想」とは自分ではなくて「自分が目標とする他者」になった。

 

比較する意味を考えたい。彼との一致点を見つけては喜び、相違点を見つけては哀しみ、焦り、戸惑う。すると、今の自分も「現実」から離れていき、「理想化された他者を目指す自分」になった。彼との違いを掲げたリストは、自分の人生に生き甲斐をあたえたかのように最初のうちは思えていたが、気がつけば、再び自分を急かし、焦らせている。すると、「今、全然楽しくない。」そんな風になる。

 

「理想」を掲げてみた理由とは何だったのか。「理想」に近づく過程や達成したときに得たかった感情とはどんなイメージであっただろうか。少なくとも、退屈やつまらなさとは対極にあったことは間違いないのだ。なぜ、矛盾した現象が生じているのだろうか。

 

当然だ。今の自分から離れていては、今の自分は退屈になるに決まっているのだ。

簡単な例をあげるなら、例えば統計のデータなどがある。10年前にはぴったりと未来を予測してみせた統計値があるとしよう。また、その統計値を皆が信じているからという理由で誰も計算をし直すような人はいないとしよう。あの素晴らしい精度を誇っていた統計値は、5年後には的中率が半分以下となり、10年経った今では、役に立たなくなり、誰からも忘れ去られてしまった。

客観的に見れば、なぜ誰も計算し直さないのか疑問に思うのだ。現在のデータに照らして、最初の考案者が用いた式を使えば、現在の統計値が算出される。そうすれば、また精度を取り戻す。簡単なことだ。

 

さて、最初に述べた、「理想」を掲げるという「理想化実験」はどうだろうか。当初、一度立ち止まって、「理想」を掲げるために自分と向き合っていた自分が、はたしてそれからしばらくした今の自分とまったく同じだと言う人がどこにいるだろうか。けれど、今の自分の欲望と向き合うことを忘れて、昔の自分の欲望に執着している人がどれだけいるだろうか。

僕は、たびたびその状態に陥りそうになる。しかし、そんな時は感情が警告音を発してくれて、今やっていることが今の自分にとって不要になったという合図をくれる。それを無視したり、抑圧しない限り、再び自分と向き合うことができる。

ただ、執着が激しいときは、その感情を無視したり、抑圧したりするが、そうするほどに警告音は大きくなっていく。結局、楽しさや喜びのために歩きはじめた道のりは、ただ苦しくて嫌なものになっていくのだ。それでも執着するなら、その先は多くの人が経験するところかもしれない。あるいは、深刻になれば「病気」が待っているのだ。

日々、自分は変化していく。時間が経つならば、季節は変わる。成長するなら、考え方も欲望も、それに応じて変わるのだ。

大切に描き上げた地図の、その目的地に到達していなかったとしても、今は目的地に用が無くなったのであれば、小さく折り畳んで、ポッケにしまっておきたい。

またいつか、その目的地を思い出したときに、ポッケから取り出して、歩み始めればいいのだから。きっとそのときは、大きく世界は変わっていて、当時の道は使えなくなっているかもしれない。そしたらまた、地図を描き直すのだ。

常に最新の自分をもって、最新の欲望を確かめて、歩みを進めよう。欲望という言葉にあまりいい印象を持たないのであれば、「よいもの」と言い換えてしまったら分かりやすいかもしれない。「よいもの」の定義は、自分で行うのだ。そのときにヒントになるのが、直観であったり欲望であったりと、そういうことなのだ。

今手にしている一枚の地図にこだわることなく、昨日までの自分が描き残してくれた、ポッケにしまった地図を上手く使っていきたい。最終的には、そんなものに頼らずに、地図を描く暇を惜しむほど、今に楽しみを見出していきたいものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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不屈の意欲を。

いつから、ゼロからつくることを恐れるようになったのか。

つくることはしても、誰かの前にさらすことを恐れるようになったのか。

誰かの前にさらしたことで、批判や否定をされることを恐れるようになったのか。

この恐怖は、生まれつきではないように思う。何度も何度も植え付けられては、記憶に刻み付けられて来た恐怖である気がする。

新しいことを始めるたびに、それが誰かに知られると必ず批判や否定の声がする。それは気のせいではなくて、間違いなく肉声でやってくる。なぜか分からないが、詮索者がやってくるのだ。きっと、悪気がないだろうことも分かる。もしかしたら、彼らは臆病な挑戦者の恐怖など感じたこともないのだろうから、仕方のないことなのかもしれない。あるいは、それを知っているとしても、嫉妬感情によるのだろうか。羨ましいという気持ちは僕も知っている。理解はできるが、共感はしたくない。感情を表現するにおいても、不要や無駄という場面はあるのだから、そんなときは、とにかく黙っていてほしいと思うのだ。

生きているのだから、創造力だけは、絶対に失いたくない。恐怖につぶされて、自らの創造力を失うくらいなら、恐怖とともに死ぬことを選ぶ。自分の道やレールは自分で敷くのが当たり前になっていって欲しいと思う。

「どうやってつくるのだろう」その疑問は、つくってみたら分かるのだから、つくるしかない。説明書?それも自分で書き上げるのだ。紙とインク?そこになければ、自らで代替物を探してくるのだ。どこにあるか分からない?だったら、記憶力を鍛え上げて、脳みそに地図を描き刻めばいい。どうやって鍛えたらいいのか?・・・もしこれ以上こんな質問が続くとしたら、僕は、もう沈黙するしかない。聞くよりも前に、教えられるよりも前に、僕らには「つくりあげる力」がある。

 

とある講演者が言っていたことを思い出す。それは学校で絵を描いていた少女の話だった。先生は少女に尋ねる。「何の絵を描いてるの?」少女は言った。「神様の絵を描いているの。」先生は言う。「神様なんて誰も見たことないから姿なんて分からないじゃない。」少女は答える。「もうすぐ分かるわ。」

 

 

恐怖に潰されてはならない理由がここにある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
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他責の理由。欺瞞。

暴力。

目に見える暴行や、耳に聞こえる暴言は分かりやすい。

しかし、表立って分かりにくい暴力は、より悲惨な結果をもたらすことがある。

 

殴られた痣や、切り傷は、少しずつ改善に向かうとしても、否定された人格は、死ぬまでに取り戻せるかどうか誰も分からない。ならば、人格否定と闘う術を持たないということは、非常に危険だ。どんな人間と出会うか分からない社会で生きていて、その危険にさらされているということは、どんな生物と遭遇するか分からないジャングルの中を裸で歩いていることに近い。

 

道の選択がまず二つある。リスクを取ってジャングルを進むと決めるか、それとも、他を避けて孤独を愛すると決めるか。どちらも、悪くはないだろう。

 

ただし、ジャングルを進むと決めたならば、リスクを最小限に抑える術を考えることが大切だし、孤独を愛すると決めたならば、寂しさとどのように向き合うかを考えることが大切だろう。あるいは、どちらの道も試みるとすれば、この両方について思慮深くなる必要がある。

 

ジャングルでは、いたずらに他の生物を攻撃しない方が、自らの危険を減らすことができる。その生物の背後には、より強大な猛獣がいるかもしれないし、あるいは、小さな寄生虫が何かの折に、こちらに寄生してこないとも限らないからだ。

けれど、生きるためには、食べる必要がある。だから、必要な分だけ食べる。なるべく他の生物に刺激を与えないようにして、食事を済ませる。それが理にかなっている。

 

人間社会では、いたずらに他者を攻撃している光景がいたるところにある。年齢、役職、立場、そうした何らかの肩書きによって自らが相手よりも優れている、あるいは上であると勘違いした者が、相手を必要以上に攻撃することは稀ではない。または、まったく同じ人間だと無意識に知っているからこそ、自分の優位性を確立しようとして、他者を貶めては傷つけている者も少なくない。そこに大義名分をつくる自己欺瞞者もいる。さらには、群衆がその大義名分に巻き込まれ、被害者は四面楚歌となるかもしれない。

また、一番怖いことが、自らがそうなるかもしれない、そうなっているかもしれないという危険の可能性を避けていられるのかどうかすら怪しいということだ。

 

結局、客観的な優劣関係など存在しない、あるいは存在するにせよ、それが他者を害していい理由には全くならないのに、他者を傷付けている光景は、不合理にもほどがある。自らになんらの優位性を保証するわけでもなく、ただ、標的とされた誰かが悲しむという事実が生まれるだけなのだ。

 

だから、誰かが悲しんでいたら、誰かを悲しませたとしたら、その状態を肯定する意見の浮上に対しては、最大級の懐疑を用いて、欺瞞の用心をまず考えたい。

「彼に非があったのだ。」「これは彼女のためだ。」「彼らにも非があったのだ。」「私の言葉は間違ってなどいない。」「正論を述べたまでだ。」などなど。

そうではないのだ。そんなことは何も一番に大切なことではない。正誤の問題ではなく、不必要や無駄の問題なのだ。本当にその他責が必要であるのか、必要であったのか、もっと思慮深くあらねばなるまい。

 

誰かを傷つけたり、悲しませたり、人格を否定したりしてまで主張する意見や行動に、僕は微塵も価値を感じない。仮にそこに価値があるとしても、ならば、より希求すべき価値について考えるべきだ。反省と自戒をこめて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 
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不当な批判の悲惨

自らに尺度を持たない者が、不完全であって当たり前の他者を不当に批判することによって、無意識に自らの判断の基準を確立しようとするが、そのことで、他者を不当に傷つけたりすることは、紛れもなく暴力の一種である。

そして、なによりも、他者批判によって構築された基準というものは、果てしもなく理想的であり、故にその当人は、自らの基準との自己乖離に苦しめられることになる。

批判、否定、そうしたことを肯定する意見もある。改善への目印というメリットがそこにあることは分かる。しかし、そのメリットのために多くが不当に苦しむことになることを想像するならば、どうしても全肯定することはできない。

改善を他者に望む前に、自分自身を起点として自らを改善することを考えるならば、もっと平和な改善が望めるのだ。

他者に世界を善くしてもらおうなどと、受身な姿勢でいるうちは、皆が傷ついていく。自分が自分に改善を望む主体的な姿勢であることで、世界は善くなる。自分は世界の一部であり、自分の世界が、世界なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
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シンプルな話

オナ禁は、オナニーをしたかどうか、それが問題になる。しかし、その境界線は多岐にわたることに気がつく。

欲望の狭間で自らと自問自答する。

「いや、ここまでならオナニーではない。」

「画像を見ただけでオナニーとは言えない。」

「これは、限りなくオナニーに近い何かであって、オナ禁を破ったことにはならないのだ。」

うんぬん。

さて、限りなくオナニーに近づいていった結果、結局オナニーをすることになるのは、オナ禁者の多くが経験するところだろうと思う。

僕は、ある段階で、この境界線のあいまいさにうんざりして、「射精したかどうか」それだけを問題とするようになった。ゆえに、このブログのタイトルは精節録として題してある。

この境界線をはっきりさせてから、しばらくすると、オナニーに至る要因が明瞭になってきた。

要因は、ひとつではない。生活の中にある様々なことが絡み合って要因が出来上がるし、単純に「依存」だけの問題でもないことが分かった。

性を刺激するもので世界は溢れていると言うが、果たして、同じように世界に生きている5歳児や例えばそのくらいの年の少年達は、毎日のように性的な刺激にさらされているだろうか。潜在的にはそうかもしれないが、実際は、その多くが無知によって守られているし、つまり、刺激自体が存在しないことと同義の状態が彼らにはある。

大人は、どうだろうか。快楽を得ることと引き換えに、無知を失っていくのかもしれない。そして、後戻りはできない。さらに成長することによって、その先に行かなければ克服はないのだろうと思う。

成長を阻害するものを克服するために成長する必要がある。失ったものを埋め合わせるために、さらに多くを得なければならない。まるで、毎日厚化粧をしている女性が、その肌へのダメージを少しでも軽減するために毎日美肌対策として多額のお金を注ぎ込むようなことにも似ているかもしれない。誰かが滑稽だと笑うかもしれないが、僕はそんなことはないと思う。得ることは素晴らしい。ただ、失う何かがあるだけだ。得ることによって失うことがあるからといって、何も挑戦せずに、人の批判に勤しんでいる残念な自慰行為よりは、よっぽど有意義だ。

だから、僕らの問題は克服にある。決して後戻りではないのだ。快楽に対する知識や体験とともに、それと向き合いつつ生きていく道を選ぶしかないのだから。

まず、オナニーに関して、二つに大別できよう。

現実逃避のためのオナニーと、そうではないものがある。

後者については、僕は個人的に、それほど危険視する必要はないと考えている。一番怖く、そして人生を破滅に導きかねないのは前者であるからだ。

これは、オナニーだけに限らないだろう。現実逃避とは、目の前の重要なことから逃げるということだ。重要なことをこなすための時間を、まったく重要ではないはずの快楽のために費やしてしまう状況、これはどうにかしなければならない。

この状況を依存のせいにしているうちは、いつまでたっても、現実逃避をやめることはできないはずだ。なぜなら、原因は依存ではなく、自分自身が逃げているその姿勢自体にあるのだから。

さて、「弱さ」の問題に向き合うことになる。

弱さを改善しようと思うのであれば、強くなる必要がある。いきなり弱さを克服できるような強さを身につけることは、どうやら難しい。しかし、今の自分と比較して、より強くなることならば、今すぐにでもできる。

畢竟、地道に改善を積み重ねていくことが、もっともシンプルで、その着実さが自信をつくっていくようにも思う。

問題の解決は、「驚くべき発見」や「まだ見たこともない方法論」などなど、そんなところを探すよりも、今この瞬間に存在している自らが弱さと向き合い、段階的に成長していく過程を喜びに変えていくような、そんな姿勢の中にこそ見出せるのではないかと、自明なことかもしれないが、そう思う。

誰かの方法論は、その必要時点を過ぎれば、ほとんど効果をもたないことが多いが、自らの段階的成長によって困難を乗り越えた自信は、一つの問題に限られることなく、経験とともに広がっては改善され、自らを形造っていくほどの力を持つ。

何かと向き合うときは、どうか自分の意識に騙されることなく、最も本質的なところから、着実に改善していきたい。そのためには、重要でない部分をいかに削ぎ落としていくか、それがまた課題になる。

 

シンプルに、そして着実に。

 

 

 

 

 

 

 

 
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ないものをつくる

存在。

それほど、不確かなものはない。

現実。

夢との違いはどれほどのものだろうか。

私。

私とは何であるか、どうやって説明する術を持つというのか。

 

いやいや、そうではない。

そんなものがあるにせよ、ないにせよ関係ない。

そうした空想可能性は、一旦思考の外においてしまえ。

 

欲するならば自らによって創り出すのだ。

欲しないならばその想像を破壊すればよい。

 

ただただ、現象を受動していくような生き方であるならば、なぜ生まれてくる意義があろうか。意義も与えられるものではない。自らによって、自らの言葉を用いて、獲得すればよいのだ。

 

その意義への信仰も、自らを疑い抜くことによって、向き合い、そして実際の質的なあらわれによって、それを確信する以外に方法は見つからないことに気がつくのだ。

 

言葉を追っていれば、言葉によって騙されることは多い。

ならば、常に、現実を創り出し、現実を生きることを覚知し、自分自身によって感情の全てを司らなければならない。不幸も幸福も全て自らの手のうちにあるのだとして、取り戻さなければ、言葉と空想の闇の中に引き込まれていく。

 

生も死も、選び取るものだ。永遠に生きたいと願う人間は、自らで死を選び取っているということに気がつかなければならない。

 

大きな動物園。

大いなる大地と、大いなる柵の中で暮らす動物達は、はたしてそこが動物園であることに気がつくであろうか。地平線の向こう側に柵があるとして、そこに向かっていく者に対して、どうして軽蔑しないでいられようか。もしも、この自由だと信じている自由が、まったくつくられたものであったと知ったら、今の幸福感は、すべて嘘に変わるのだから。

しかし、精神が若い者の絶望は、非常に軽度で済むだろう。彼らは、若いのであるから。さて、精神が老いぼれた者に、どうして、今まさに創り出されようとする、より新たな自由について祝福などできようか。自らの愚かな言葉と経験に塗り固められた諦めが嘘に変わるとき、死をもってそれをリセットする以外道は残されていないように感じるに違いない。

 

自由をつくる者でなければ、誰かがつくりだした自由の中で生きる者にならざるをえない。さもなくば死ぬ。これは、逃げようのない事実であろう。与えられる自由、選び取る自由は全て欺瞞的だ。それは、よりよい隷属という名前がふさわしい。

 

自らの意識を根本から変革するとき、それは狂気と呼ばれる。

しかし、狂気は常識に変わり、時として道徳と呼ばれる。

 

自傷行為

身体的な自傷で安心しているとしたら、それは刹那的な快楽と何も変わりない。

意識を破壊して創り直す。そうして、再び自己を肯定せよ。若者はそうして、創造力の芽をつみとろうとする老いぼれを乗り越えなければならない。

世界は階層ではない。この五感の支配が届く認識の範囲が世界だ。植え付けられた想像ほど危険なものもない。懐疑ではなく、排除せねばならない。実際に体験し、認識するまで、その想像を信じていたとしたら、どれだけの誤解によってこの先を過ごすことになるだろうか。

 

報酬。

人が行為をする背景には、報酬が存する。嫌々行う何かですら、それによって何かしらの報酬があるから、彼は自由を代償に行為するのである。さて、嫌々行為をさせている命令の主体はどこにいるのか。その命令の主体に何か名前があったとしても、そいつではない。常に彼自身が彼自身に行為をさせているのだ。ならば、彼は自らの支配を放棄している。報酬によって自己を保つことで生を過ごしているに他ならない。飽きたらやめよ。それは普通のことだ。戯れ言に、変な理由を持ち出して付き合うな。

 

王の嘆き。

「今日は、散歩に行こう。そして、船に乗ろう。さらに、船の上で、劇を見よう。用意しておけ。」

「王よ。劇をする役者はいません。船も、港には一隻もありません。」

「そうか、ならば、まず散歩に行こう。」

「王よ。道は茨だらけ。散歩などできませんよ。」

「そうか、ならば、革手袋と、薙刀を用意せよ。」

「王よ。そんなもの、ここにはありませんよ。」

「そうか、ならば、そこにある剣を持っていこう。これで茨を伐ればよい。」

「王よ。もしその剣によって自らの足を斬ってでもしまったら一大事です。」

「わかった。もうお前には何も話すまい。私は、自らで道を造り、自らで船を拵え、自ら演者となり、今日を楽しむことにする。」

「王よ。孤独な楽しみに意味はありますか。」

「うむ。お前といるよりは何倍もましだ。」

 

 

 

 

 

 

 
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