海揺録

自律とか、自由とかが、たぶんテーマです。以前は、精節録というブログ名でした。

大切なこと

空気のように
最も大切な人や、ものこそ
意識にのほることが少なくて、

少なくとも僕は
自分の親やパートナーのような
実際のところ最も有難い存在ほど
感謝することが少なくなりがちだ。

なければ困るということと
常に近くにいてくれるということは、表裏一体だろう。

何かのために生まれ、
何かのために生き、
何かのために死んでいく、
その何かを自覚することがなくても、
必ず何かの支えとして存在しているのは、確かなようだ。

意識の中に常にあるものだからといって
それが最重要であるということは
むしろ少ないのかもしれない。

想像力はこんな風にして
時に自分を勘違いさせてしまうこともある。

自分をひとつの家とみるなら
目につく大黒柱より
その土台となる基礎や
その前に描かれた設計図
それを可能とする大地と資源
建てるために働いた人々
その方が実は大切だったりするかもしれない。
土台さえあれば何度でも建て直せるが
なければ、はなから家は建てられはしない。

最重要であるはずの存在こそ
目にはつかない、意識されにくい。
それらは静かに支えてくれている。

何のために生きているのかよりも
どうして生きていられるのか、
それを実感できるときほど、有難いことはない。

どんな家を建てるのかよりも
どうして家を建てれるのか。

いつもそんな心持ちでありたい。

そしたら
支えてくれる存在のためにも
なるべくいい家を建てたいと願い
それによって
感謝を示せるのかもしれない。

何を食うかよりも
どうして食べれるのか。

どこに行くかよりも
どうして歩けるのか。

疑問の前には基礎がある。
そこに深い有り難みを感じるとき
ひとつひとつを大切にしたいと
本当に気がつけるのかもしれない。
疑問の答えは土台に聞いてみるといい。

だから少なくとも僕は
頑張る必要は実はないんだけども
なぜか頑張りたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 
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孤独の味

「幸せと思えることが幸せ。」

誰かが言っていた言葉。

 

孤独な感覚は、寂しいものだ。人恋しくなる。

一方で、寂しさを感じた分だけ分かることもある。

ふと聴いたメロディーに自分の感情は交差する。

そこには、孤独な交わりがある。

そんなとき寂しさが喜びだす。不思議な感覚。

 

一振りの塩が、料理全体をよくもわるくもするように、

独りの時間の過ごし方ひとつで、人生全体の意味や深さは大きく変わる。

 

どうやら近くに居る人との比べっこからは逃れられない以上、

そこから離れているときにしか、自分を見つめ直す時間はとりづらいものだ。

 

まるで夢見るように人と交わり、

目が覚めているかのように独りを慎みたい。

 

環境は変わるが、自らは変わったか。

自らに合わせるように環境をつくっているか。

それを楽しんでいるだろうか。

自分のためが人のためになるようなことはないか。

よけいな気負いを交換してはいないか。

最近興味を持ったことはなんだったか。

この感情に名前をつけるとしたら?

 

自問自答の中に、欲望の基底となるエネルギーの塊の片鱗を探すことができる。

自らの面白い部分に気がつけるかどうか、大切なことだ。

つまらない、があるから、面白いもある。

つまらない部分があるなら、必ず面白い部分がある。

面白いだけではなく、その裏にはつまらなさがある。

 

幸せと思えることが幸せなように、

幸せと思えないときも、その思いを愛おしみたい。

裏があるからこそ、表があるのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 
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多くを欲するならば、味は薄く。

濃い味は、濃くて美味い。しかし、飽きるのが早い。

だから、少ない欲望ならば、味付けを濃くすると良いが、多い欲望ならば、味付けを薄くすると良い。

味付けの薄さは、素材のうまみを活かす。

 

さて、物足りなさは十分の証であることが多い。
ならば、寂しさを受け止めよう。人生は本質的に虚無でもあり、常に寂しさは隣にいるのだから。

それを脳内麻薬による充足感で、なんとかしようとすれば、依存までくっついてきてしまう。そんな充足感はどうやら行き過ぎたものになるらしく、すると感情の平均回帰によって以前より不足感は増してしまうだろう。

過ぎたるは及ばざるが如くの通りである。

物足りなさを感じて、何かをしようと心が動いているとき、だから気をつけなければならない。今から行うことが果たして、何を求め、何を得て、何を失うのか、一度立ち止まって考えなければならない。

実は、ちょっとつまらないくらいが、成長を刺激するスパイスになっていたりして、成長は人生をより有り難いものに変えてくれるときもあるのだろう。なぜなら、つまらないと感じたものの中から、そこにある面白いものに気がつくためには、創造的でなくてはならないから。

生きていることが有り難いなら、寂しさは生きている何よりもの証のはずだ。つまり、感謝と寂寥感は表裏一体のものである。感情を刺激しやすい表だけにとらわれているうちは、実際今がどんなに満足な状態であるか、まだまだ知ることはできないのだろう。

ドーパミンが過剰分泌されると、その受容体は減少する。つまり、過剰を繰り返していると、日常の喜びがどんどんすり減っていくということだ。

逆ならばどうだろうか。ドーパミンの分泌が適量あるいは、腹八分目くらいであるなら
受容体は維持あるいは増加するのでは?

どうもダウンレギュレーションとアップレギュレーションという言葉があるようだ。

そうだとすれば、いずれにせよ全体を俯瞰するならば、幸福感がその人の適正値に対して、平均回帰をするために、体が様々な作用を起こしていることが分かる。

あとは選択の問題だろう。自分がどのような生き方を望むのか次第だ。それはもう、体で味わいながら考えていけばいい。

どうも、生き方というものも、自分の心、その中心に対して離れたり近づいたりしながら、探求していくようなものに思える。

 

 

 

 

 

 

 

 
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やってみれば、できるのだと分かる。

料理。

毎日似たようなものばかり食べていると、どうも舌が飽きてくる。すると気分まで滅入ってしまう。

料理の種類など、人が想像すればした分だけ増えていくような、そんな際限のないものなのに、わざわざ同じような食事をしていることもない。

白米の次は、パン。パンの次は、パスタ。パスタの次はうどん。らーめん、そば、焼きそば、、、。さて、誰かが、選択肢があるのは贅沢だとでも言うだろうか。いやいや、粉をこねる手間を惜しまなければ、そんなにたいそうなものではないだろう。

ならば、飽きがくるのも、気分が倦怠するのも、選択肢を開拓しようとしない自らの責任に他ならない。

 

生活。

毎日似たような生活を送っていると、どうも寂寥とした感覚や、よくわからない焦りの中で追い立てられていく。あるいは、蟻地獄のように、飽きる感覚に慣れ親しんでいく。

人の生き方など、想像しうるだけ多様に広がるものなのに、なぜ妙なループに迷い込む必要があろう。これだけ可能性に満ち溢れた世の中で、わざわざ飽きるために生きる必要がどこにあるだろうか。

しかし、生活の糧のためには、、、と誰かが決まって呟くが、生活の糧を得る手段もまた、多様で無限の拡がりがあるのを忘れてはいないか。

ならば、倦怠や焦燥、諦めなど、そういった感覚は、どうやら、可能性への挑戦や開拓を怠った自らに責任があるに違いない。

 

やってみれば、どうとでも始まるのだ。始まれば、やめない限り終わらない。自らを信じるなら、たいていの困難は、ある日振り返ると、足跡の中に踏まれて消えている。

 

 

 

 

 

 

 
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「淫欲の虫」

芋虫をみた。

 

透明な円筒形の連なりに、

ところどころ桃色がかった姿をしている。

肢体は、波打つようにくねらせている。

疣足と口は、常に何かを喰らおうとして、絶えず動いている。

 

どうやら、身体と精神の全てに巣喰っており、

それを喰らい蔓延っているようだ。

 

さて、淫欲の水が、私の心身の器に注がれると、

奴は、その水を、体皮の全体で吸い込むようにして肥大していく。

 

まるで満足など永遠に知らないかのようなこの生物に、

喰われ続ける恐怖で、目が醒めた。

 

 

 

 

 

 

 
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生活のリズム感

一夜漬けなどであれば、徹夜の必要は分かる。一生に何度もないお祝い事が朝まで続くことも、また生きている楽しみの一つに違いない。

ただし、普段の生活、仕事においては、どうもリズム感がないと、どこかで無理が出たりすることがある。

無理が出ると、そのバランスを埋めるためには、無理によって手にした恩恵以上の代償が生じることが多い。さらに言えば、無理してもしなくても、実際はほとんど変わらないか、無理しないほうがよかった場合などはざらにある。

代償はいつも大きい。そのストレスを埋め合わせるために、本来はいらない快楽に身を堕すことなどもあるだろう。すると、代償はさらに高くつく。その支払いのために、また無理をするようなことがあれば、間違いなく悪循環に陥ったと判断できよう。

 

ならば、生活のリズム感とはどこに宿るのだろうか。

十分な睡眠、適切な食事、意欲的な労働、適度な休息、不要の省事、清掃や整理整頓、貪欲な勤勉、謙虚な社交。

たいてい、自らが望ましいと思っていることは、やるか、やらないか、やれないか、いずれかだろう。やれないならば、やれるように努めるか、諦めるか、決断すればいい。

放って置いた食べ物が腐るように、意志も、宙に浮いたままであれば腐ってしまう。いつか、その腐臭は、自らに襲いかかり、自らを焦らせるのだ。

 

仕事は、終わりがないから仕事なのだ。今日片付く仕事もあるが、それは「今日の仕事」と言う名前だ。日々、皆、腹が減るのだから、日々、少なくともそのために働く必要がある。つまり、腹が減る限り、仕事は続く。今日で全ての用意をするには、バランスが悪すぎるのだ。だから、勤勉でありたい。

 

リズムがあれば、困難も乗り越えやすい。スキップは歩くよりも大きく体を動かすから、よく前に進む、ただ歩くよりも楽しいものだ。

 

話は飛躍するが、映画の台詞を思い出す。

 

「音楽は決して人から奪えない。」

 

 

 

 

 

 
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心地よさは限りなく存在する

「何事においても、連続は、嫌気を起こさせる。」

 

自慰が手頃で、かつ、ときに楽しく、多幸感を覚えるからといって、それひとつだけに(あるいはそれに類似した性事だけに)、自らの快感の根を伸ばすことは虚しい。

おそらく、もっと手頃で、快楽量の多い事柄など、探し試していれば見つかるに違いない。それは個々人における適性の問題がほとんどだから。

禁欲は確かに望ましいことのひとつだ。ただし、それもまた快楽の本質である喜びを共通の基底として有している。

禁欲主義は、快楽主義の対となるものではなく、本質的な部分では仲間である。どちらも、それぞれのアプローチによって、生に喜びを見出そうとしているから。

生に喜びなどないのだと、絶望する者たちもいよう。しかし、彼らもまた、生に落ち着きをもとめているのだ。でなければ、明日にでも死んでいるに違いない。

立場やアプローチは違えども、求めようとしているものの本質は、ほとんど同じなのだ。

ならば、立場やアプローチに縛られることなく、自由に、その本質を希求しよう。そのほうが、自分の適性を探求するには理にかなっている。

だから逆に、ひとつの立場や主義において、生きづらさ感じる場合は、その他に枠組みだけ移行しようとも、本質は変わらないために、生きづらさを引きずることになる。結果、生に絶望していくかもしれない。

 

求めるべきを求め、不要な要素は棄却できるようにありたい。

 

 

 

 

 

 

 
 
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