精節録 —オナ禁で得た知見—

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。

植物への憧憬。

生物全体において、植物の賢さは比類がないもののように思う。

自らの栄養を全て循環の中で吸収し、そして全体へ貢献する。

人間がどれほど人工知能や機械化、自動化によって、その機能を拡張していったとしても、自然の大きさからすれば、なんとも小さな働きだろう。自然はもともと「自動」だ。

都市に住む人間が増え、畑を耕す人間は減った。生産の仕事から離れ、椅子に座り、誰かに指示を出し、誰かの働きを利用しながら、自らに富を集中させようとして、四苦八苦しているならば、植物をみならいたい。

そこに権力はない。自然な流れの中で、他の存在の力を利用する。利用される側に嫌々従う存在はいない。力の弱い植物たちは、何かを従えることができない。きっと力が強くなろうとも、そんなことはしないだろう。そんな無駄なことに労力を費やすことなく、目的を果たせることを知っているのだから。

彼らは遊ぶし、踊るし、寝る。合理性を持っているし、常に全体への貢献を果たしている。他の存在とつながり、からみあい、とけあう。成長の途中で、土壌の栄養を他の存在と奪い合うこともあるのかもしれない。その戦いは、とてもシンプルだ。生きようとするもの同士が、自らが生きるために戦う。もしかすると、なんらかの複雑さの上にそのシンプルさが見えるだけかもしれないが、僕は、植物たちの「ただ生きるために戦う」というその姿勢に憧憬する。なぜなら、目的観がフェアだからだ。

自分が死ぬ可能性を前提として、他者の命と戦い、自分が生きる可能性を見出そうとしている。安全地帯で自らの命を危険に晒すことなく他者の命を奪うようなことはしない。

人間は、リスクの多くを避けると同時に、本質的平等への公正さを失って行くように見える。リスクは避けるものではなくて、それを了承することで、別の道を見出せるように思う。「ただ生きる」ということが、とても難しく感じるのは、きっとリスクを避けてきた代償に他ならないのかもしれない。

 

 

 

 

 

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