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精節録 —オナ禁で得た知見—

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。

愚凡でもいいから。愚凡であるからこそ。

同じ歳月を過ごしているのに、同世代の人々の中でこうも能力や知性に差が生まれるのは非常に面白く、そしていつも現実の残酷さを表している。

どんなに人々が皆同じように生活を過ごしていようとも、諸々の条件における分布は広がる。異常値があり、平均があり、エリートが存在し、別の軸に生きる意味を見出す人もいる。

自らを測定する軸は、環境やタイミングによってその測定に用いる条件を変化させては、時には平均よりも上にいることに無駄に喜んだり、どうしたってエリートの範囲に入ることができないことを諦めては、その欲望と決着をつけようとしたりする。

「あの木の上の方についている果実は、全て酸っぱいブドウなのだから、この木にわざわざ登る意味はないのだ」と言うように自分の正当化を行なって生きていくこともあろう。

愚凡であることを諦められない時に、何か理由を探す。何が足りなかったのか、どうしたら遥か先に足を運んでいる人々に追いつけるのか考えてみようとする。客観的に考えれば、まるで、猿が魚を見て「どうしたらあんなに上手に泳げるようになるのだろうか」とでもいうようなことを考える。ヒレの存在を見つけて、無理やり自分の体にくっつけてみようとするが、それはとても不自然で、どうやったって魚のように泳げるようにはなれないことに薄々気がつき始める。

魚は猿に言う。

「何でそんな程度しか泳げねえんだ。俺は生まれからすぐに泳げるようになったし、呼吸するのと同じくらい泳ぐのなんて簡単なことなのに。君は何をそんなに必死になって溺れているんだい。君は木に登るのが得意なのだから、それをしていればいいじゃないか。悔しい思いもせずに済む。」

猿は答える。

「羨ましいんだ。泳ぐことに憧れている。君たちのように海の中で自在に動き回りたい。僕には泳ぐ才能は微塵もないけれど、こうして試行錯誤していれば、いつか君と同じくらいに海の中を自由に泳ぐことができるようになるかもしれない。それに何より、木に登ることよりも、こうやって考え詰めて、想像したことが実現していく過程がとても面白いんだ。」

それから、数千年が過ぎ去った。

あの猿は、その知恵を後世に引き継ぎ続けることにして、それはどうやら上手くいった。

今や、海の中には「潜水艦」と名付けられた大きな機体が深海をも自在に泳ぎまわっている。凶暴な鮫にも喰われることはない。そしてその技術は、誰にでも扱えるような類のものにまで発展し、ライセンスさえあれば誰であれ海を自在に泳ぐことができるようになった。猿の理想は、彼単独の憧れで終わることなく、あらゆる者たちの憧憬を満たすところまで、おそらく彼の予想を超えて実現した。

なぜだろうか。それは彼が泳ぐ才能に微塵も恵まれなかったからこそ、微塵も泳げないことを前提に技術が発展していったからだ。だから、あらゆる人々に応用可能となった。

何よりも、彼は「考えることが面白い」と言った。試行錯誤の中で上手くいかないことに悔しさを感じる以上に、それが面白く、そして好きなことだったのだ。似たような趣向を持つ者たちは、当然彼の意思を引き継いでいった。

愚凡であるからこそ、それを補うために応用度の高い技術を目指さざるを得なかった。そしてその結果として、呼吸をするように泳いでいた魚を驚かすほどの技術となった。

もはや、彼らは生きていないから、まさかここまでになっているとは思ってもいないだろう。それこそが時間というものなのだ。少しずつ積み重なったものが組み合わさると、複利によって資産が増大するように、技術の複合は驚くべき結果をもたらす。

こうなると競争原理は、必ずしも忌避するものではないことにも気がつく。それを無益な嫉妬感情に負けることなく、成長過程を楽しめるならば、自らに備わっている比較感情は、自らが愚凡であるからこそ、そこに大きな意味を持つことになる。

以上、作り話と、それについて考えたこと。おわり。

 

 

 

 

 

 

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広大な情報の海と、それぞれの質の話。

情報の質は、その情報の発信者たちの気質も含めた情報の性格といった部分に大きな影響をうけやすい。

料理の話について、政治の話を語るような仕方で記述されていることはほとんど見たことがない。動植物の情報が、難民の情報と同じような雰囲気で綴られることも少ない。
また、発信主体と受信主体の関係性によっても情報の質は変化する。相互が親しい関係にあれば、より情報の鮮度は高まる傾向にある。利害関係にも左右されやすい。不特定多数を相手にした発信は、プライベートな情報共有の仕方と完全に一緒ではない。
お金にまつわる情報は、顕著に発信主体の傾向を表しやすい。プログラミングについての情報は、精度や丁寧さの差はあれども、情報としての客観性を保ちやすい。客観性が高ければ応用可能性も高くなりやすい。一方、主観性が高ければ、共感や連帯感といった心理的なエネルギーを生み出しやすいのかもしれない。
たくさんの情報に触れていく中で、経験から、自然とその質に合わせたやり方でそれらを享受しているような気もするのだけれど、今一度一歩引いた視点から、情報を扱えるようになりたい。
今や、広告が謳う宣伝文句を真に受けて感心するほど、お人好しではなくなってしまったが、巷に溢れる広告っぽくない広告を見て、その意図をすぐさま見破れるほどの知性はない。
偏向した情報を真に受けて自分の心身を悩ますほど無駄な時間もないように思う。だから、偏向しやすい情報は、それが偏向しやすい性質を持っているのだという前提を忘れることなく扱いたい。

 

 

 

 

 

 

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様々な性質の情報がある以上、それぞれに応じた扱い方をひとつひとつ客観的に検証しては経験に変えて、試行錯誤することの必要性を感じている。
この広大な情報の海から逃げることなく、自分なりの泳ぎ方を身に付けていきたい。

欺瞞的な多様性

基本的に優れていると感じるものに対しては、それが「多様なものだ」という言い方をせずに、自らもそれに近づこうとして、自分の目指す先にそれらを置くということをする。
一方、優れていないと感じるものに対しては、それも一つのあり方なのかもしれないとして、多様性の一部というように言い換えを行う。

それを目指したいとは思わないが「自分にはいらない」ということを口には出さず、多様性の一部としてくくることで、人間関係において波風を立てないようにと、この言葉を用いているのかもしれない。

本来、多様であると認めているならば、そこには尊重があるはずだ。しかし、欺瞞的な多様性には尊重などない。そこにあるのは、自己論駁的な相対主義とか、自己保身に努めようとする肥大した自尊心だ。だから、そんな言葉の用い方を続けているうちに、誰かの足をひっぱるようになっていく。自分が頑張ることを放棄したままで、誰かを貶めたりして自らの自尊心を守ろうとするようになっていく。そんな自尊心には価値などないのになぜ守ろうとするのだろうか。
なるほど。「何も持っていない奴ほど、守ることに必死になる」という言葉を聞いたことがあるが、つまりそういうことなのだろう。

 

 

 

 

 

 

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寝ている恩恵

惰眠への罪悪感をいつのまにか持っていることに気がつくが、それが自らの可能性のいくつかを奪っているのではないかということを考えるようになった。

なんらかの作業中に、解決策の浮かばない課題を見つけて頭を悩ませることがあったとして、その解決は、寝る間際に目をつぶっているときや、起床する前の頭だけ覚めて目をつぶったままのときとかに、ふらふらと解決案が浮かんでくることで前に進むことが多い。

瞑想状態といえば聞こえはいいかもしれないが、実際のところそうした状態の自分を客観視すれば、惰眠というワードがぴったりであることがわかる。浮かんでくる「答え」のいくつかを寝ぼけた頭で整理しながら、根拠のない罪悪感で少しだけ追い立てられる。

周知のことかもしれないが、新しいアイデアや、未解決の課題は、一種の退屈さから生まれる場合が多いのかもしれない。何もしていることがない状態が続くと、脳の働きが活発になるのだろうか。おそらく、白紙に一文字を描くと、その文字に意識が集中するように、何もしていることがない状態では、一旦何も思考しない状態に「クリアー」されることで、意識を集中させるべき対象が明確になるから、その初期段階に近いほど思考がスムーズに行われるのだろうという仮説を持っている。

「いつまで寝てるんだ」という内省的な声が聞こえても、これからは無視するようにしたい。そして、その声を無視することに慣れるようにしていきたい。なぜなら、そうした目だけをつぶっているような状態こそが、自らの願いを前に進めていく重要な鍵の役割を果たしていることが経験からも明確に分かっているからだ。

無論、常識的ではない。しかしシンプルに考えれば、目を開けていて悩むよりも、目をつぶることで前に進むなら、僕は後者を選ぶ。それだけの話だ。

 

 

 

 

 

 

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「大変だよ」のまやかしと、覚悟のふるい落とし

僕の好みの問題として、リスクのあることが好きだから、そういう事柄に挑戦することがある。すると、周囲や関係者の方から、必ず言われる言葉がある。

「大変だよ。」「甘いよ。」

僕は割と、そう言われるたびに、今回こそはやっぱり大変なのだろうかとか、どこか考えが甘いのだろうかとか、考え込んでしまうこともあるのだけれど、いや、これまで、一度たりとも、そうしたことによって死んだ試しはなく(死んでいたらこの文章は書けていない)、周囲が醸し出す深刻さを真に受けたことに何となく滑稽さを感じることの方が多かった。

協力者の存在は嬉しい。しかし、助言だけを行うアドバイザーは、兼協力者でないとしたら、もしかしたら自分の足を引っ張る存在になってしまうんじゃないかという懐疑すら浮かぶほどに、現実や実際の自分の感覚と、アドバイスから受ける想像的な感覚の乖離は激しい。

当然のことだろう。僕は僕で、他人は他人だから。同じ人間はいないだろうし、仮にいたにせよ、その存在は独立していて、関係性を結ぶかどうかはまた別の話になる。つまり、それぞれがそれぞれの感覚を持っていて、そこは自らだけの感覚ということなのだ。

同じ人間である以上は、感覚の類似性は確かにあるだろうけれど、それについて考えれば考えるほどに泥沼に嵌まっていくことに気がつく。人間性は多様だから、何かを大変だと思う人もいれば、何とも思わない人もいて、喜びを感じる人、満ち足りている人もいる。結局、本当にやろうと決断しているのであれば、その実際の感覚は当然ながら、実際にやってみないと分からないのだ。

しかし、問題は決断するかしないか、そこでの迷いにあることは周知だろう。

決断してしまえば、他人の言葉を気にする程度は下がるが、その前であれば他者の言葉から心理的に不安定になってしまうこともある。

ならば、リスクを測定しよう。最悪どうなるだろうか。野垂れ死ぬだけである。それを受け入れられる可能性があるなら、決断することにためらう必要はない。生きることが全てではない。

「大変だよ」とか「甘いよ」とか、そういう言葉を受けて迷っているうちは、つまり死ぬ覚悟がまだできていないということなのかもしれない。ただ、それは当然のことだ。やってもいないことに対して、どうして不変的な決意ができるだろうか。自分の感情は一定ではないし、それを正確に予測することはできない。

だから、結局のところ、迷いながらであっても、するかしないか決断するしかない。僕はきっと、今回の挑戦(詳細は控える)に関しても、やる方を決断すると思う。なぜだろうか。おそらく、リスクや過酷さが好きだからだ。

 

 

 

 

 

 

 

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価値感覚

今、目の前の物事や事物に対して、自分がどのくらいの価値を感じているのかという判断は、感覚のままにそれを知ることができる。つまり、現在とか今という時点における価値感覚は、確かにそれを知ることができる。しかし、裏を返せば、現在から先の価値感覚については、予測することは可能であっても、それが真であるか証明することができない。そして、価値は継続するものだとという前提がどうしてもあるのだが、大抵の事柄は、一瞬先には価値を変えていることに気がつく。

小さな頃に手にした500円玉の重要さは、今手にしている500円玉と同じではない。空腹の時に、茶碗一杯のご飯を喜ぶことはできても、満腹の時に同じように喜ぶことはできない。同じ対象に対して、状況や時点の違いなどによって、価値感覚は常に変化している。

しかし、今目の前の価値感覚は事実であり、それ自体は不変なものであるということもまた事実である。そして一瞬先には多少の差はあれども変化している。

1円の重みは常に同じであり、これからもそうであると錯覚してしまうが、それも実際は変化している。

なぜか知らないが、変化するものにおいて、現時点では不変であるという事実から、それらがこれからも不変であるという前提を引き出して、価値を予測するということが行われる。けれども、実際は変化しているわけだから、そこに齟齬が生じる。これは、明らかに前提がおかしい。

同じ対象に対して抱く価値感覚が、この先どの程度の変化をするのかという判断は、経験や確率的な根拠づけによってある程度可能なように思うが、それは、対象への価値感覚が変化するのだという前提があってこそ可能なことである。もしも、この前提が不変さの継続という錯覚にあるのならば、常に現状は、当然ながら不合理で非論理的なものになる。

これは、現実がおかしいのではなく、自らの前提がおかしいのだ。

事物や事柄自体は仮に不変であったとしても、それに対する価値感覚は常に変動する可能性を有している。大事なものは移り変わる。それを悲しむのは価値感覚への錯覚だ。ただ、そうと文字の上では理解していたにせよ、価値感覚の移り変わりに喜怒哀楽を隠せないのは、何か意味があるようにも思う。

不合理さに意味はなくとも、不合理だと思い込むことには、何かの意味があるのかもしれない。それは精神的な保身という点だけでなく、もっと人間らしい情緒とでもいうべき点で、人生をより味わうためにあるようにも感じる。だから、間違っているとしても、あえてそれを無理に正す必要もなく、そのままでもいいのだ。いや、そのままであるからこそいいのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

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刺激と集中のトレードオフ

オナニーは気持ちがいい。まずその仮定をおく。

そして、ポルノは刺激が多い。それを自覚する。

興奮するということは自分が刺激に反応するということだ。

刺激に反応することにきちんと終わりがあるとすれば、それは人間に備わった非常にありがたい機能だと言っていい。無論、エクスタシーや飽き、そして満足などによって終わりは来る。もしも、刺激に対して永遠に満足することがないとしたら、オナニーに終わりはない。それはもしかすると気持ちがいいのかもしれないが、少し想像してみても割と恐怖を感じる。

刺激への反応の連続性は、少し観察してみると、集中状態と似ていることに気がつく。飯も食わず、眠気も忘れ、一つのことに没頭していく。一見すると、双方の区別は付きにくい。すると、オナニーに熱中するだけの「集中力」があるんだったら、それを別のことに向ければ、何かを成就させることも可能なのではないか、などと錯覚してしまうかもしれない。

しかし、刺激の連続的な追求は、集中力によって継続するものではなく、欲望によって継続するものである、という点できちんと区別しておかなければ、愚かな錯覚について見過ごしてしまうかもしれない。欲望による継続性は、満足によって終わりを迎える。集中力による継続性は、集中力が切れることで終わりを迎える。欲望と集中に関係性はあるかもしれないが、欲望は集中力がなくとも継続するのに対して、集中は集中力がなければ継続し得ない。簡単な違いだ。

欲望に身を委ねることを続けていると、満足の水準がどんどん引き上げられていくことになる。すると満足するまでの時間が引き伸ばされる、あるいは、必要とする刺激の量が増大する。より強い刺激に脳が慣れていくと、弱い刺激に対して、すぐに飽きや倦怠感を生じるようになる。すると、日常生活には、妄想やその類に比べて、基本的にそこまで強い刺激が溢れていることはないから(溢れていたら誰も妄想などせず現実に刺激を求めるだろう)、日常生活自体に欲望は満足を見出せなくなっていく。それは、満足の水準が引き上がるごとに強くなる。

常に倦怠感と共にあるような人間が、物事に集中することができるだろうか。物事への飽きやすさが、集中力を高めることはない。それは相反する関係にあると言っていい。

つまり、刺激の連続的な追及は、集中力を減少させていく傾向を持つ。簡単に言い換えるなら、例えばオナニーのやり過ぎは、日常への倦怠感や飽きっぽさにつながり、自らの集中力を減少させてしまうということが分かる。

さて、ならば全ての刺激の強い欲望は、そうした理由から忌避すべきだとする結論は正しいだろうか。私にはそうは思えない。日常が低刺激的なものだけで満たされ、それで自らが満ち足りるということは非常に好ましい生き方なのかもしれないが、世界は広い。刺激は多様で、仮に集中力を失ってでも、体験してみたい欲望だってあるものだ。生き方には多様性があるからこそ意味がある。刺激的なコンテンツを作りたい人々は、刺激的なコンテンツを享受したいとする人々の需要によって自らの創作を支えていく。なぜかAV業界やアダルト関連の仕事に非難的な意見を持つ人々は多いけれど、もし他人の生き方を侮蔑したりするとすれば、それと同時に自らの生き方の多様性を見失うことを承知しているのだろうか。自分の意見を持つことは、自律的な生き方をするための必須条件ではあるものの、他者を侮蔑する意見は、生き方の多様性を無視している。つまり、自らの生き方についての基盤を自らで破壊していることになる。

本題に戻ると、刺激は忌避することはない。リスクとリターンの関係のように、刺激と集中はトレードオフの関係にある。自らの指針に従って、リスクを定めリターンを得るように、自らの指針に従って刺激を得て、集中力を犠牲にすることがあっても何も間違いではない。逆に、集中力を保持するために、刺激を減らしていく努力を行うことだって同時に正しい。

重要なことは、自らの視点によって指針を定め、それに従って、そうしたトレードオフをコントロールすることであり、結果的に何かを失ったり何かを得たりすることは、あくまで指針に備わった確率的な現象であることを了承していればそれで事足りる。

 

 

 

 

 

 

 

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