精節録

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。

充足について

ストイックな人々の一派には、

「満足するな」とか

「飢餓感をもて」とか

どうも「不足」を強く感じ込むことで、

自らの行動を推進しようとする趣がある。

 


近頃の偉人の言葉にも、

そんな傾向が見えることがあって、

少し考えさせられた。

 

 

 

僕たちは何のために生きているのだろうか。

 


答えというものは不明であろうとも、

仮定を立てて検証を進めることはできる。

 


不足が行動の動機になるという点から、

充足が行動の意味ではないかと、

仮定してみることは無駄ではないだろう。

 


そして、

そもそもこの仮定の前提には、

答えがあるのかないのかという条件分岐と、

答えがある場合、

単一なのか複数なのかという条件分岐がある。

また、その下には、

全てにとって同一の解であるのか、

あくまでも個別的な解であるのか、

という分岐が続いている。

 


じゃあ、

論理的な話に感情的な話も加えていこう。

 


充足に意味があるのかないのか、

この問いは僕には愚問に思える。

 


少なくとも僕は充足感というものを

欲しているいないに関わらず、

その感覚を好ましいと思っているからだ。

 


つまり、

少なくとも僕にとって意味があるということは、

全体の一部にとって意味があるということで、

全体としての善の希求

という観点においてもまた

これは意味を持つということだ。

 


主観的にも客観的にも意味があると分かる。

 


思いが満たされることは好ましい。

より大きな願いが叶うこともまた好ましい。

 


もちろん、その成就の果てに

悲惨が待ち構えているとしても、

充足そのものはまぎれもなく好ましい。

 

 

 

では、本題に入りたい。

比較の問題に移ろう。

 


より大きな充足を

目指すためのプロセスについてだ。

 


2つのプロセスを比較してみる。

 


ひとつめは、

飢餓感を意識し続けることによって、

行動を推進しようと試みるやり方。

これは「私は欲する」という感じ。

意識は内向きにならざるを得ない。

 


ふたつめは、

充足感を意識し続けることによって、

行動を推進しようと試みるやり方。

こっちは「私は十分」という感じ。

意識は外に向き出す。

自分は充足しているからだ。

「あなたはどう?」という感じになっていく。

 

 

 

世の中が便利になったのは、

現状に満足できない人々が

それを刷新していったことだけに

起因しているわけではない。

 


自らを誠実に愛することができて、

充足的であった人々が

社会に対してそこから溢れた分で、

改善的な貢献をしていったことも、

見逃してはならないし、

明らかにこちらの方が

当人の状態として安定しているように思う。

 

 

 

食事を例にとりたい。

 


飢えていれば確かに、

それに比例した強烈な食欲によって、

自らを食の獲得に駆り立てるだろう。

しかし、腹が減っていては実際、

地に足のついた力は湧いてこないものだ。

 


人間の恐ろしいところは、

ガソリンの入っていない車とは異なり、

自らの心身を削りながら、

それを使って走り続けることができてしまう

という点にもある。

 


さて、腹が満たされていれば、

一息ついてのんびりしたいような

そんな気分にでもなるだろう。

当然、食の獲得に躍起になることはない。

大事なこととして、

それ故に誰かと奪い合うような

そんなことにもならないのだ。

 


満たされた思いは、そのうちにいつか溢れ出す。

すると、自ずと誰かを愛するようになる。

これは、自分を誠実に愛していればこそだ。

 

 

 

せっかく出来上がった美味しい料理を、

しっかり味わうことなく、

その上に覆いを被せて、

またそれよりも美味しい料理を

求め続けるような、

そんな狂行をしていてはいけない気がする。

 


単純にもったいない。

食べずに置かれた料理は、

缶詰とかではない限り、腐敗してしまう。

 

 

 

「いつか満たされる」ために、

今日の充足を見過ごし続けていたら、

きっと箸の持ち方も忘れてしまう。

 


考える方向は、

これはどうしたら

より美味しく食べられるだろうか

という視点に違いない。

 


「将来どう思うか」という視点も

確かに重要には変わりないだろうが、

それは「今の自分がどうしたいか」

という土台の上に立脚しているのだ。

 


人生を問い直すという作業の前に、

今の自分の正直な思いを

問い直す作業が必要だろう。

 

 

 

共感性やコミュニケーションの重要さが

社会に周知されて久しいが、

それは「自分はどうしたいのか」という土台を

試行錯誤して築き上げた後の問題だ。

 

 

 

自分が自分を優先しなかったら、

誰が自分を優先してくれるというのだろうか。

 


もちろん、確かに存在している。

 


それは、既に自分を優先して

誠実な自己愛によって

充足的に生きている人々に違いない。

 


だから君もそうあることが

望ましいではないか。

 

毎回と全体

今日の夕飯の献立を考える。

 

今日、食べたいものを考える。

 

メインが決まったら、

サイドメニューには何が合うか考えたりする。

 

あるいは、誰かと一緒なら、

その人の好きなものだったりを、

飽きがこないような形で調整したりする。

 

献立ができたら、材料や調理器具を用意する。

食べたい時間に合わせて料理を進める。

 

調理が終わったら、お皿に盛り付けて、テーブルに並べる。

そこに人がいて、食卓が出来上がる。

 

それが繰り返される。これが毎日の食事になる。

毎回の食事が美味しいものであれば、毎日の食事も美味しいものになる。

 

美味しい食事は、毎回の積み重ねの中にある。

 

 

 

今日の幸せを考える。

 

今日、やりたいことを考える。

 

一番を決めたら、二番目あたりも決めておく。

あれもこれもは難しいけれど、一つに絞るのもまた難しい。

 

あるいは、誰かと一緒なら、

その人の好きなことだったりを、

飽きがこないような形で調整したりする。

 

やりたいことを決めたら、必要なものや場所を整える。

やりたい時間に合わせて、計画を進めていく。

 

試行錯誤しながら、とにかくやってみる。

そこに人がいて、喜怒哀楽が生まれる。

 

それが繰り返される。これが毎日の感情になる。

毎回の感情が感謝につながるものであれば、毎日もまた感謝につながる。

 

ありがたいと感じたときに幸せを実感するのであれば、

幸せな人生もまた、毎日の積み重ねの中にある。

 

 

おそらく、

料理の腕前が、日々の試行錯誤で練磨されていくように、

感謝の感覚も、日々の試行錯誤で練磨することができるだろう。

 

そうであれば、幸せとは日々の改善の問題となる。

つまり、いずれ辿り着くかもしれないといった妄想の類は阻却され、

今日の感覚という具体的な体感の積み重ねについて、向き合うようになる。

 

日々の思いと改善が、

まるで雪だるまをつくるように、

あらゆる喜びを自分の人生へと巻き込んでいく。

 

そんな気がする。

 

自由の狭窄

得体のしれない不安が顔を出すことがある。

 

それを細分化して根っこまで辿っていくと、

まったく合理的ではない思い込みが種になっていることが多い。

 

思い込みについて記憶を辿ってみると、

善意、悪意を問わず、人からの影響を受けていることに気が付く。

 

他方、自分の内側から出てくる自分の思いから植えた種については、

不安の葉が茂るようなものは見当たらない。

 

 

例えば「あの人が幸せそうだから、こうした方がいいのかもしれない」とか「多くの人が、そうしているから、こうした方がいいのかもしれない」というような感覚から出発する思考や行動。その帰結は、紛れもなく自分を不安の底なし沼へと導いていく。

 

一方「他の人にどう思われようが、自分はこうしたい」とか「これをしていると気分がよくなってくる」とか「これが好きなんだ」というような自分による証明書が発行されている思考や行動。これらは、帰結を問うまでもなく、堆積していく過程や、歩んでいる道のりがそのまま、不安とは逆の性質の「自信」を積み上げていくのだということを教えてくれる。

 

 

前者と後者の違いは明白で、感覚を拠り所を他者にするのか、自分にするのか、というところだ。

 

少し視点が変わるが、

数学の問題を例に出してみると分かりやすいかもしれない。

 

前者は、頭の良いと評判の友達の回答や、周りの人の多くが合致している回答を眺めてみて、とりあえず答えを写す。合っているのかどうか、少しは考えてみるけれど、そもそも少し考えてみたところで答えが分かるようであれば、人の回答を参考にする必要もないのだ。結局は自分の思考を放棄して、評判や多数派にその結果を委ねることになる。そのため、自分の答えが合っているかどうかを確かめる術を当然持たない。仮に前回の問題はこれで正解したことがあっても、今回の問題も正解するかどうかを自分で確かめることができないのだ。当然、彼は常に不安にならざるを得ない。

 

一方で後者は、一つ一つの計算を自分で確かめて回答を進めていく。公式も自らで証明を辿れることを確認してから使用する。検算も行える。だから、繰り返す計算は、自らが導出した答えの確かさを何度も教えてくれる。仮に前回の問題で、計算ミスをしたことがあっても、それが今回の問題では細心の注意を払うことに繋がる。繰り返される問題は、常に彼の知性と能力を向上させていくので、回答への自信をその度に深めていくことになる。

 

 

さて、話を飛躍させよう。

 

自由とは、

他人の人生は思い通りにならないが、

自分の人生は思い通りになるということだ。

 

思い通りになるとは、

自分の可能性に応じて、

自分とその環境を常に創造していくことができるということだ。

 

では、自分の可能性とは?

自分の可能性とは、確かな経験に裏付けされた学習、能力、自信など、

それらが実現していくことのできる全てを指すだろう。

また広義には、未来それが実現できるであろうことも含むだろう。

 

自由を拡大するには、

自らからその機会を奪うような真似は控えねばなるまい。

 

そのためには、

まず、自分の感覚を信じることからはじめて、

そこから辿っていく思考をとめてはならない。

 

自らの思考を放棄するならば、

遅かれ早かれ他者に追従する道に片足を突っ込むことになるだろう。

 

なるほど。

自由の狭窄は、

過去に自分の感覚を信じなかったか、思考を放棄したその結果だ。

ひとつひとつ刷新していかねばなるまい。

 

嫉妬の返却。

縦のつながりが跋扈する社会では、

人々は何かと上下関係を定義したがる。


それは、

目に見えるかたちの爵位であったり、

精神的な優劣感情であったりする。


面白いことに、

精神的な劣等感を抱いた場合、

それをうまく自分で受け入れられない人の中では、その感情が嫉妬に変化していく。


嫉妬は相手を落とそうとするエネルギーを発して、時に攻撃性として現れる。


相手に嫉妬や攻撃が効かない場合、

解決できない劣等感は、さらに肥大を繰り返して、大きな嫉妬を育んでいく。


例えば、そうした人々が相手を落とすための攻撃に時間を浪費しているうちに、実際に優れている特性を持った相手が、さらに能力を向上させていくとしよう。嫉妬の肥大化は止むことなく、実際の優劣感は日に日に事実的にも大きくなっていく。


さて、今まで攻撃を加えていた相手から、まったく無視されるか、相手にされなくなった場合、肥大した嫉妬感情は、行き場を失う。


その醜さで形作られた刃は、自らの懐にしまう必要が出てくる。さもなくば、周囲の無関係な人々を傷つけることにしか使い道はない。


すると、懐に何本も何本も重苦しく醜いものをぶら下げて、日々を過ごすことになる。


剥き出しの刃は、時に自分を傷つけることもあるだろう。


なるほど。嫉妬を向けられ、攻撃された場合、こちらは泰然として、その相手をしないようにするだけでいい。


感情とその棘は、それが刺さる相手が見つからないとき、全て本人に還っていくのだ。


「私は、君のその刺々しい感情を受け取らない。だからこれらは全て君のものだ。どうぞお幸せに!」

なんのために

なんらかの依存症について想定してみたい。

誰しもひとつくらいの経験があるに違いない。

 

「もう辞めよう」という決意が、

節制の始まりにあることは確かだけれど、

それ自体の強弱にほとんど意味がないことは経験的に明白だろう。

 

どれほどに強い決意であっても、

決意は現在の自分に向けられるものであり、

未来を拘束することはない。

 

であれば、未来にも決意を繰り返せば良いと思うだろうか。

その決意の反復という決意もまた、

現在においてしか意味をなさないだろう。

 

では、決意に依存を克服するような力がないことは分かった。

これが第一段階目。

 

第二段階目に我々が行き着くのは、原因的な思考だろう。

 

なぜ、その行為に至るようになったのか。

その行為を誘発してしまう環境的な要因、

あるいは、過去の経験、はたまた、食生活、睡眠時間などなど。

 

結果には原因があると仮定して、

その仮定のもとに原因を探索する行為に至る。

 

原因を一つ一つ改善していく。

生活は確かによくなるだろう。

もしかすると人間性の向上もそこに見込めるかもしれない。

 

さて、そうしたことによって、

依存症自体が緩和されたようにみえたとしても、

根本的な空虚感であったり寂寥感自体がなくならないことがある。

 

さては、こうした依存を誘発するような根源的感情が、

節制の日数に比例して強化されてしまうこともありうるだろう。

 

ここまでが第二段階目だ。

 

そして、人によっては、第三段階目がやってくる。

 

「なんのために」自分はその行為を選択しているのだろうか。

行為に至る自分の目的を辿っていく作業に入るのだ。

 

行為という結果の原因を一つ一つ解決していくという視点を改め、

行為に至る目的について深く深く掘り進めていく。

 

最初こそ、何も思い浮かばない状態にあるかもしれないが、

次第に、あらゆる目的が浮かび上がってくるときもあるだろう。

 

大抵、自分が現実で逃避していることが関係していたりする。

だから、考えるためのヒントとして、

 

今「逃げていること」は何かあるだろうか。

今「恐怖していること」は何かあるだろうか。

今「考えることを避けていること」は何かあるだろうか。

 

そうした、今の自分に対する正直で厳しい視点を用意するといいかもしれない。

 

「やめたくてもやめられない」という自己欺瞞の裏に、

「やりたくてもやれていない」という自分の思いが隠れていることが多い。

 

多くの依存は屈折した欲望なのかもしれない。

 

では、そんな自己欺瞞に気が付いたとしよう。

 

例えば、

どうしてもタバコを辞められなかった中年男性が、

昔ミュージシャンになりかけていた頃の捨てきれない思いが、

今でも自分の心の奥底で燻っていたことに気が付いたとする。

 

依存の下に埋まっていた「目的」らしいひとつを掘り当てることができた。

 

おっと。ここで止まってはいけない。まだ掘り進めてみよう。

 

「なんのために」心の奥底に音楽に対する情熱を燻らせていたのだろうか。

 

沢山の楽曲をつくってはいたものの、

一度もステージで演奏したことのないことに思い至ったとしよう。

 

なるほど。夢を追ってはいたけれど、夢から逃げていたことに気がつく。

表現活動が、自己完結的であることは少ない。

音楽であれば、演者がいて、聴き手がいる。

 

誰かに聴いて欲しかったが、

おそらく評価の恐怖からそれを避けていたのだ。

「やりたくてもやれていない」

 

燻った夢の下に、素直な思いが埋まっていた。

 

ではなぜ、評価の恐怖に怯えていたのだろうか、、、。

自分を知る作業に終わりはなかなか来ないだろう。

 

 

閑話休題

地底探索の旅から戻ってこよう。

 

 

あなたが依存に苦しんでいるとして、

あなたの場合には、

 

どんな「なんのために」が埋まっているのだろうか。

どれほどの「なんのために」が重なっているだろうか。

 

おそらく本心では分かっていたことなのだ。

 

しかし「目的」が眩しければ眩しいほど、直視することを避けてしまう。

避けているうちに自己欺瞞を重ねてしまう。

 

その成れの果てに「依存」が生まれていることがある。

 

 

「やめたくてもやめられない」ことをやめるには

「やりたくてもやれていなかった」ことやろう。

 

その勇気が、きっとよい未来をつくる。

 

原因ではなく目的をみつめてみる。

大きな悲劇が訪れた時、

基本的に、その悲劇の原因について、

考察を繰り返すことになるだろう。

 

しかし、繰り返される考察は大抵堂々巡りであることが多い。

 

であれば、一旦「原因」的な思考をやめてみよう。

 

その悲劇の目的を推理することが面白いはずだ。

 

もっと言えば、それを悲劇として捉えている人間が、

なぜそれを悲劇として認識しているのかという部分について考えてみたい。

 

簡単な例から始めてみる。

 

卵かけご飯を作ろうと卵を割ったところ、

割り方が強過ぎて、ご飯の上ではなく床に飛散してしまった。

小さな悲劇のように見える。

 

さて、養鶏場で働く者が、早朝に卵を集めていたところ、

一つが手から滑り落ちて、地面に飛散してしまった。

こちらは日常的な様子に見える。

 

ふたつの例で生じた出来事は、現象としてはほとんど同じ内容だ。

手に持っていた卵が、下に落ちて割れた。

これだけである。

 

しかし、卵が落ちて割れたことに対する悲しみは違う。

悲しみを原因的に考えてしまえば、

床の汚れを掃除しなければならないといった部分が思いつくが、

一旦棚上げしてみよう。

卵かけご飯は汚れてもいい床の上で食べようとしていたのだ。

 

原因が除外されれば、悲しみは消えるだろうか。

卵が最後の一つだったから悲しいのだとすれば、

無限の卵が冷蔵庫から出てくるものとしてみよう。

 

大切な食べ物を無駄にしてしまったという点であれば、

ふたつの例はその点で同じく機能する。

 

さて、何が悲しいのだろうか。

 

ここで気がつく。

我々は今、悲しみを探す作業をしている。

悲しいという感情を、何かの現象に紐づけて解釈しようと試みてる。

 

今、我々は悲しみの要因として考えられる要素を除外してみた。

だから、取り立てて悲しく感じるような現象が見当たらない。

 

しかし、悲しみを探そうとしている。

 

つまり、「目的」的な思考とは、こういうことだ。

 

この思考パターンは常に多くの人間を無意識に支配している。

 

不幸な人間が不幸な出来事に出会う数が多いのは偶然ではない。

彼が、そもそも不幸な状態であり、

目の前に生じるあらゆる現象にその不幸を紐づけて解釈しているからだ。

 

同様に、幸運な人間がより幸運に恵まれるのも偶然ではない。

彼が、そもそも自分の運の良さを信じており、

目の前に生じるあらゆる現象をその幸運に紐づけて解釈しているからだ。

 

不幸な出来事が、人間を不幸にするのではなく、

不幸な人間が、ひとつの現象について、不幸な解釈を行うのだ。

 

幸運な出来事が、人間を幸せにするのではなく、

自分の幸運を信じている人間が、ひとつの現象について、幸せな解釈を行うのだ。

 

 

次は、少し複雑な例をみてみたい。

失恋について考えてみよう。

振る側。振られる側。両方について考えることができる。

 

あるふたりが付き合っていたが、別れてしまう。

 

振った側は、相手の言動に不快感を抱いて、それが別れの原因だと考えている。

振られた側も、相手に対して不快な言動をしてしまったことを反省している。

 

原因的に考えれば「言動の不快感」がそれにあたるに違いない。

大抵この種の原因的反省は、やはり堂々巡りだし、

謝罪が有効に働くのであれば、そもそも破局はしないだろう。

 

目的的に捉え直してみよう。

振った側は、別れるために、相手の言動に不快感を見出した。

振られた側は、別れに納得するために、自分の言動の不快感を認めた。

 

冷静に考えてみれば、

本当に不快だと感じるであろう言動を、

交際相手にぶつけることなど行わないだろう。

それはただの嫌がらせだ。

 

振った側は、振ったその時に、そのための理由を欲したに過ぎない。

その理由が、不快な言動であるか、相手の癖であるか、価値観の違いであるか、

それはタイミング次第でいかようにでも変化するだろう。

 

つまり、別れるという目的のために、理由が設えられたのだ。

では、なぜ別れるという目的が生じたのだろうか。

 

その行為において、振る側は何らかのもう一段深い目的を有している。

そして目的は常に未来にある。

 

例えば、振ることによって、

さらに相手の気を引くことができると思ったのか。

別の相手がいて、その相手に集中したいと思ったのか。

 

何れにせよ、具体的な自己の願いのために、

相手との今の関係を破壊することを選んだ。

 

だから、破壊された側が何を問いかけたところで、

全ては破壊への道を突き進むことにしかならない。

 

なるほど。

しかし、自己の願いが、常に自己を幸せへと導くものではないことは、

先に示した通りである。

 

そもそも不安に支配されている人間は、

目の前に生じる、稀な幸運ですら、不安の要因としての解釈を試みるのだ。

宝くじが当たった時に、

不安な人間は盗まれるのではないかなどと心配するだろう。

大抵、そうでない人間は、使い道について思慮を巡らせるところをである。

 

 

交際には、前提として、両者の健全な精神が求められる。

然もなくば、非健全さは、ふたりの本質的に幸せな状態すらも、

非健全な解釈のもとに沈めていくからだ。

 

健全な精神は、素直な自己実現性から養われる。

自由の基盤の上に、健全な好意は芽吹く。

 

閑話休題

 

 

したがって、

振られた側は、そのことを解釈する時、悲しみに支配されて、

判断を誤らないようにするといい。

大抵、本当に反省すべき部分などどこにもなかったことに気がつく。

相手の気まぐれに、自らの「反省」を無駄にしないことだ。

そして、

振った側は、自分が設えている理由が、設えられたものであることを、

認識し直しておくのがいい。

もし、それが大したものでないのに、

自己欺瞞によって大したものであるかのように考える癖がついてしまえば、

その後、設える必要のない時にすら、

悲劇の理由が即席されてしまう。

 

 

悲劇のヒロインがいつまでも白馬の王子様に出会うことができない理由は、

白馬の王子様がまだ現れていないからではない。

 

彼女が出会いの全てに悲劇としての解釈を行うからである。

 

 

だから、他人の不幸に惑わされてはいけない。

 

不幸の多い人々を前にして、するべきことは同情ではない。

しかし、幸福な解釈を伝えることでもない。

彼らの目的は、今、紛れもなく不幸に向いているのだから。

 

もし自分が彼であったら、

その出来事にどのような解釈を行うのか、

シミュレートしてみるといいだろう。そして、それだけでいいだろう。

自己を見つめるいい機会になる。

 

できれば相手の解釈について聞き出せていると、比較ができるのでなおいい。

 

それが難しそうであれば、色々な解釈のパターンを考察してみると面白い。

 

できることはそのくらいだ。

 

正解がないのであれば。

何か「行動」を選択したとしよう。

 

「行動」の結果がランダムである場合、

それが善い方向に進む「行動」であったのか、

悪い方向に進む「行動」であったのかは、

「行動」が終わった後でしか、その判定はできない。

 

また「行動」の終了をある地点で測定していたとして、

その地点では悪い結果をもたらしたという判定であっても、

もう少し離れた地点から測定した場合に、

善い結果に結びついていたということもよくあるものだ。逆もまた然り。

 

さらに言えば、

その「行動」を善いものに変えていくことは、

未来の自分の「行動」に託されているといってもいい。

結果の解釈や、学びの活用によってそれは可能になる。

 

どのような「行動」を選択したにせよ、

それを善かったものとして捉えるのか、

悪かったものとして捉えるのかは、

自らの手の内にあるのかもしれない。

 

反省は改善の親であるのだから、

悪かったことを愚直に反省できるのであれば、

それは未来への財産に変わるはずだ。

 

この観点から言えば、反省の多い「行動」ほど価値がある。

 

とすれば、「行動」の選択において、

それをするのか、しないのか、

悩むことはほとんど無駄なのだろう。

 

基本的に反倫理的行動であれば、

そもそも悩むことなどなく、行わないことを決定できる。

それが悪い結果をもたらすことは明白だからである。

 

悩むということは、

その結果が、善い結果をもたらすのか、悪い結果をもたらすのか、

不明瞭であるからという前提があるはずだ。

 

 

では、不明瞭な未来について条件分岐的に考えてみればよい。

 

まず、善い結果がもたらされるのであれば、行わない理由はない。

では、悪い結果がもたらされるのかどうかという点だけが問題になる。

 

仮に悪い結果がもたらされないとすれば、

善い結果がもたらされる可能性に賭けて「行動」しない理由はない。

 

では、一番恐れていた悪い結果がもたらされたとしよう。

その時の後悔が深いほどに、

反省を促し、改善によって未来は今よりも善いものとなるだろう。

 

さて、悪い結果がもたらす影響が甚大な場合はどうだろうか。

未来の改善可能性を信じることができれば、

その甚大さを受けて立つ覚悟があればいいだけであろう。

 

その他には、命を賭けて挑むという場合はどうだろうか。

 

失敗に終わった場合、死によって全ては清算される。

悪がマイナスで善がプラスだとすれば、

死は0の状態へと自己の状態を終焉させる。

自己に範囲が限定されるのであれば、どんなに悪い結果も死と共に消える。

自己の善悪は自己の存在を前提としているのだから。

 

成功した場合、

それがプラスの結果なのであれば、

極論、0になるかプラスになるかということになる。

奇妙な話のようだが、死の恐怖さえ無視できるのであれば、

最も期待値の高いゲームがそこにあるのだろう。

 

 

条件分岐的に考察した結果、

いずれの場合にせよ、

最終的に善くなる可能性が存在していることに気が付く。

行動しない理由など論理的に考えれば、何一つ存在しない。

 

怖気付くとすれば、

自分の中の改善可能性を信じることができない場合に限るだろう。

 

しかし、行動しないことによる結果など、

現状維持か、衰退が自分に訪れることが大半だ。

 

つまるところ、

緩やかに衰退する道を選ぶのか、

ケツに火が付く可能性のある状況に身を投じるのか、

そういった選択になるように思う。

 

 

仮に自然的に現状が改善されたとして、

自分は何もせずに現状の回復を待っているというのは、

そもそも他力本願的であり、自分の能力などには何も関係していない。

 

生まれた時から金持ちであった赤ん坊と同じだ。

それは運であり、いつも両義的な現象だ。

 

したがって、

行動しないということを選択するのであれば、

行動をすることから得られる改善の可能性を上回るだけの何かがなければ、

それは相対的な機会損失と同じであろう。

 

「行動」が種となり「改善」の花が咲く。

種蒔きを躊躇う必要はどこにもない。

実りの多い人生は、種蒔きから始まる。