精節録

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。

集団訓練

僕たちは、

報酬系にひたすら無意識の「承認欲求」を埋め込む「訓練」に加えて、

集団心理によって「休息」に「罪悪感」を関連付ける「訓練」も行なっている。

 

個別的な「休息」が本当に「悪いもの」だと仮定してみよう。

そもそも、このように書き出すだけで奇妙に思えるが。日本語の背理法

 

自分が属している集団において、

自分だけが休む状況(理由は不問)を考えてみる。

 

ここでは、休むことに理由付けがないのだから、

単に休息中に遊んでいてもいいし、寝ていてもいい。

 

さて、この「理由のない休息」に憤りを感じる人々の存在について、

僕は沢山の思い当たりがある。

 

集団の性質で場合分けができるだろう。

 

一つ目の集団は、集団で実施している活動が、

集団に属しているいずれかの人において「休息よりも重要ではない」対象となっているようなケース。

 

2つ目の集団は、集団で実施している活動が、

集団に属している全ての人にとって「休息よりも重要」となっているケース。

 

僕が思うに、

多くの「学校」や「会社」は前者になっているような気がする。

また「社会人サークル」や「起業の創業メンバー」などは後者が多いのだろう。

いずれにせよ。0 or 1ではなく、複雑に人々の感情は入り組んでいるはずだ。

 

離脱の自由があるのであれば、

「他者の休息に憤るような人々」は集団から離脱すればいいだけのような気がするが、

重要な部分は「『離脱の自由』における制約の有無」が発生していることだ。

 

特に「学校」や「会社」については、

基本的に「離脱の自由」が認められてはいるけれども、

明らかにそれを行使することにおいて「制約」が存在している。

 

制約として、経済的な部分など物理的な部分は分かりやすいけれど、

問題の大部分は「見えない恐怖」が集団性そのものによって、

無意識に刷り込まれていることに起因しているのだと思う。

 

そしてその「見えない恐怖」の大部分の正体は、

訓練によって無意識に植え付けられた「肥大した承認欲求」に他ならないだろう。

 

集団から抜ければ、

その集団から受けていた「承認」が喪失するという不安が生じるように

これもまた「訓練」されているのだ。

 

自分が数年間属していた集団を抜けることを何と言うだろうか。

つまり「卒業」のことだ。

 

「卒業」は繰り返されては、それが「承認の喪失」と言う無意識の感情と紐付くのだ。

 

大抵、集団に属していて、その人に一般的な能力値があれば、

3年もすれば集団の中では平均的なレベルに達しない方が難しい。

自然は正規分布的なのだから。

 

さて、卒業後、忙しさに追われていく中で

「過去の承認」よりも「未来の承認」を得るように人々は躍起になる。

それは「過去の承認」が消えて不安になるからだろう。

また、それに拍車をかけるのは「新しい環境」というハードルが存在することも大きい。

 

きっと僕たちは「新しい集団」の中で、

以前に属していた集団と同程度かそれ以上の承認を得ようとする。

それは多くの場合「0」から積み上げていく作業に等しい。

 

「0」から積み上げようとしているのは、

自分が前の集団に属していた年数をかけて築き上げた「信頼」や「承認」だ。

どれほど困難な作業であろうか。

 

きっとその人が優秀であればあるほど、その人は焦り、それを築き上げようとする。

すると、もしも集団の性質が悪質なものであれば、

「不安」によって精神が壊れない方が難しい。

 

話を本題に戻そう。

集団の性質が「休息」に対して非許容的になっていく理由がこれで揃った。

 

集団内に属している「不安な肥大した承認欲求」を保持している人の割合に比例して、

休息に対する非許容度は上昇する。

 

皮肉なことに、この割合は、上述した理由もあいまって、

エリートたちが多いと言われる集団の方が高いのではないだろうか。

 

社会の構造は皮肉で悲惨だ。

けれど、自らの属する集団を変えることはできる。

 

「変える」ということには2パターンあるだろう。

 

集団自体の空気を入れ替えるか。

自らが新しい空気を吸えるように移動するかだ。

 

だから僕は、

全ての人に「自分の好きな仕事や活動」を心からして欲しいと願う。

そんな人々の「集団」であれば、

休息中の人に対して可哀想という感情は抱きさえすれ、

なぜ、憤る必要があるだろうか。

 

好きなことというのは大抵「単なる休息よりも重要」なことなのだ。

 

「嫌なことをみんなで我慢する訓練」をすればするほど、

僕たちの状況は悪化していく。

 

ならば、これで得をしているのは誰だ?

 

僕たちが「嫌なことを我慢して働く」ことを社会が望んでいる。

お金で人の「人生」を買おうとする社会そのものだ。

 

得をしているのは「金持ち」に他ならない。

資本主義社会は、資本家が作った社会だ。

 

嫌なことには全力で抵抗するのだ。

さもなければ「訓練」が君を資本家の奴隷として強化していく。

 

資本家のために苦しむ必要はない。

そして戦う必要もない。

ただ、好きなことを仕事にすればいいだけだ。

 

幸いなことに、現代では、「訓練」を止めることで殺されることはない。

実態は殺されるよりも悪どい状況かもしれないが。

 

嫌なことには全力で抵抗し、好きなことに命をかけるべきだ。

「訓練」から抜けるには、自らの「肥大した承認欲求」を黙らせるほど、

自己実現的な生き方をする必要がある。

 

 

神は君が何をしていようとも、何をしていなくとも、

ここにいることを認めてくれているのだ。

でなければ君はどうして生まれてこれただろうか。

 

親や社会、君の属している集団の君への承認に関わらず、

神は君をありのままに今この瞬間も認めてくれている。

それを心から感じておこう。

 

君がここに存在していてもいい理由は、

君がここに存在しているという事実そのものだ。

 

ならば「訓練」は終わりにしようではないか。

好きなことをしよう。そのために生きよう。

 

 

訓練

産まれてから、

言葉を喋れるようになり、

それを見て周りが喜ぶ。

 

歩けるようになり、また周りが喜ぶ。

 

何らかの施設で午前中を過ごすようになると、

毎日のように「今日やること」が決められていて、

それをうまくやると、また周りが喜ぶ。

 

しばらくすると、施設を卒業して、

次の施設へと向かうようになる。

 

今度は午前中だけでなく、

午後もそこで過ごすようになる。

時間が増えた分、「今日やること」だけでなく、

「明日までにやること」も決められていて、

毎日毎日はそれに追われて過ごす。

うまくやると、周りは喜ぶ。

 

また、卒業して、次の施設へと向かう。

「やること」は全て決められているわけではなく、

ある程度自分で選択できる余地がある。

しかし「やりかた」は誰かに従いながら、

それを行なっていく。うまくやると、周りは喜ぶ。

 

また、卒業して、次の施設へと向かう。

「やりかた」にもある程度の裁量が与えられつつ、

「やること」のレベルが少しづつ上がっていく。

うまくやることに必死になることを覚えていく。

うまくやれば、周りは喜ぶ。

 

また、卒業して、次の施設へと向かう。

うまくやること、うまいやりかた、

それを身につけては、実践していく。

うまくやれば周りは喜ぶ。

しかし、日々の「やること」に終わりはない。

 

「やること」に終わりはないが、また卒業がくる。

 

親の子供への「やること」は、

だいたいこの辺で落ち着く。

 

子供は、大人として次の場所へ向かう。

この大人は、完全に無意識的に訓練されている。

 

この大人は、自分に関わる子供達に、

同じ訓練を行うようになる。

 

また、自分自身が、

この行動規範と承認欲求に縛られる。

 

日々与えられる「やること」を

うまくやると、周りが喜ぶのだ。

 

しかし、うまくできなければ、

周りは落胆し、君を変えようとしてくる。

 

うまくやり続ける限り、

「やること」は増え続けるだけでなく、

そのレベルは上がり、負担は増加していく。

 

うまくできなければ?

「周りは落胆し、君を変えようとしてくる」だろう。

なぜ「周りは落胆し、君を変えようとしてくる」のだろうか。

 

周りとは、

君と同じ「訓練」を受け続けた大人たちだからだ。

 

彼らの行動規範や常識は、

「与えられた『やること』をうまくやらなければならない。」

というものだ。

 

幼い頃から数十年反復され、

身に染み付いた行動規範を

見直すこと自体、とても難しいだろう。

 

見直してみよう。

なぜ「与えられた『やること』をうまくやらなければならない」のだろうか。

 

例えば、誰かが困るから、だとして、

逆に、君自身は「やること」に追われる日々に困ってはいないだろうか。

 

例えば、それがルールや契約、だとして、

逆に、なぜそれに縛られる必要があるのだろうか。

自らが疑念を抱くルールや契約があって、

それを破棄する自由が認められないとすれば、

そのこと自体がそもそも

ルールや契約の欠陥を示しているとも言える。

 

例えば、「罪悪感」があるから、だとして、

逆に、なぜ自分へ苦しい思いを与えている元凶は、

「罪悪感」を持たないのだろうか。

それ自体が関係性の不均等や欠陥を

示しているとも言える。

 

 

そもそも「与えられる日々の『やること』」は、

誰がそれを与えているのだろうか。

元を辿れば、それは、

「最も誰かに何かを依頼する力をもった人」

になるのではないだろうか。

つまり王様であり、最高権力者だろう。

 

この「訓練」の構図は、

言うまでもなく、最高権力者のための構図になる。

 

この「訓練」を続けている限り、

どんなに頑張っても、頑張っても、

 

頑張った分だけ、

君は卓越した「訓練生」になるだけだ。

真面目は報われない。悲惨かなあ。自縄自縛。

 

 

この構図は間違いなく胸糞悪い。

それをひっくり返すことはできるだろうか。

 

少なくとも、自分1人だけは助かる道がある。

今すぐに「訓練」をやめることだ。

 

「訓練」をやめて悲惨が待っているとしても、

やめなければ必ず悲惨がやってくる。

 

ならば、やめる選択肢を選ばないと言う

合理的な理由はない。

 

いずれにせよ悲惨なのであれば、

自由な方を選びたいではないか。

 

それで死ぬなら、まさに本望だろう。

 

趣向への囚われ。

「好きなことをしたい」

「好きなことをしよう」

ここまではいい。

ここまではいいのだ。

 

これが価値観となり、

視野の狭い状況になることはまずい。

 

自らの趣向以外を拒絶し始めた時、

苦しみが同時にやってくる。

 

魚は、水の中でしか生きられない。

そこまではいいのだ。

 

「僕は川がいいのだ。今、海で泳いでいるが、僕は川がいいのだ。」

そうなるとまずい。

 

価値観への固執が始まると、

「海」の良さを考えられなくなる。

「川」の良さを神聖視し始める。

 

趣向は、それに囚われるべきものではなく、

ただ自らの喜びを高めるものであったはずだ。

 

君は「地上」でも十分に喜びをもって生きられたかもしれないのに、

「川」を好み、それに執着し過ぎた故に、

自らの首を絞めることになった。

 

呪うべきは、「川」を泳げない現状ではなく、

自らの価値観、視野の狭さに他ならない。

 

精神的な不満や苦しみは、

大抵が自らの「価値観の歪みを是正する」ものだという。

 

だからこの虚しさは気付きになった。

 

 

一番身近な例えを考えれば、異性への好み。

 

「彼女のあの感じ、とても好きだ。」

 

「彼女以外に、あの感じを持っている人はいない。」

 

「彼女が良いのだ。彼女以外は石ころだ。」

 

「彼女でなければならない。」

 

「彼女がいなければ、生きている意味がない。」

 

エスカレート。強迫観念。

 

本当にそうだろうか。

であれば、君もまた石ころ。

蔑みは自らに反射して、自縄自縛。

 

「蔑み」は価値観と視野の狭さそのもの。

 

人を蔑むとき「蔑む自ら」こそ是正しなければならない。

でなければ、君は苦しみ続けることになる。

蔑みが長ければ長いほど、

強ければ強いほど、

それは自らに跳ね返る。

 

植え付けられた価値観に

もう一度問い直そう。

「私は本当に水の中でしか生きられないのだろうか。」

「私は、何によって『魚』として定義され、この生き方をしているのだろうか。」

 

自らの趣向によって苦しんでいるならば、

本末転倒もいいところだ。

 

「歳」は尊ぶべきものであったか。

尊ぶべきは「歳」ではなく「経験」では?

「生きること」はそれのみで尊ぶべきものだろうか。

尊ぶべきは「生きること」ではなく「何に生きているか」では?

 

人間が「不幸」に陥りやすい理由は、

僕たちが、自らの生き方を是正する力を生まれながらに持っているからだ。

ならば、どうして「不幸」を蔑むことがあろうか。

 

この能力、「正しさ」を生まれながらに導く潜在哲理は、

僕が、喉から手が出るほどに欲していたものに違いない。

 

すでに持っていた。そんな話。おわり。

刺激、まずは足下より。

刺激というものは、
外部的なものと内部的なものに分けることができる。

内部的な刺激というものは、
何をするでもなく、内側から湧き出ててくる、
内発的欲求と結びついていて、
これは自らの天性と行動が一致した時や、
自らの思想と世界の摂理が一致した時など、
偶然がもたらす瞬間によって誘発されることもあれば、
ひたすら求道していく中で、
辿り着くということもあるだろう。


さて、外部的な刺激というものは、
それに比べて、現代では非常に簡単に手に入れることができる。

誰かが作った創作物たちは、
現代の平均寿命である80年程度では
全てに触れることは間違いなく不可能な数が点在している。

そして、これは人対物の対話による刺激である。

もう1つが、
人対人の対話による刺激であり、
こちらは通信技術が発達してからは、
その形式を大きく変えているのかもしれない。
形式は、より簡易的で刺激的な方向に進んでいる。


すると、油断していると、
現代人における刺激というのは、
外部的なものだけで飽和状態をもたらしてしまう。

理由は、内部的な刺激が非常に確率的なものであり、
体得に時間を費やすことでより拡大していくのに対して、
外部的な刺激は、簡易的でかつ、
刹那的には非常に大きな刺激をもたらすことができるからであろう。

問題は、外部的な刺激というものは、内部的な刺激に比べて、
継続的な欲求によって高次な状態へと進んでいく情熱と大抵結びつかないため、
快楽を満たすことは十分に可能であっても、
根本的な欲求としての達成感であったり、
生の充実感、そして、生きている意味を感じることが難しいという点にある。

そして何よりも、快楽というトリガーを引いてしまえば、
欲求は減退し、行動への原動力は沈静化してしまう。

言い換えると、
外部的な刺激を用いて簡単に快楽を満たすということは、
自らの生の充実感や意義を失ってしまうことと同義だ。

現代では、孤独や退屈を恐れている人が多いように思う。
しかし、孤独や退屈というのは外的な刺激から無刺激な状態であり、
内的な欲求と向き合うためには絶好の状態であろう。

自分の内的な欲求に従って、
それを行い、そして、それによって誰かの役に立つとすれば、
生きるとはそれだけで素晴らしいはずであり、
それだけで、全体の幸福の総量は改善され続ける。

しかし現実はそんなに簡単ではなくて、
内的な欲求に少しだけ近くことができて、
その理想へと足を進めている最中、
再び外的な刺激は我々を何度でも翻弄するだろう。

僕が今わかっていて、
気をつけなければならないと思っていることは以下の3点だ。

まずは、外的な刺激を極力減らすこと。
そして、それを継続すること。
そのためには、他人の恐怖に惑わされないこと。


僕たちは、
僕たちのために、
僕たちの社会のために、
それぞれがそれぞれの生を見出すために、
必要な孤独と向き合う必要がある。

そして、そこで見つけた小さな火をを守り育てるために、
周囲の炎に飲み込まれて消えてしまわないように、
自分の火がそれらを超えて大きく育つまでは、
周囲の炎を避けて、孤独と向き合い続ける必要がある。

もしも、それを許さない社会だとすれば、
自分がその構造を変化させればよい。
まずは足下より。

だましだまされ

僕は多分馬鹿なのだと思う。

ただ、それは、もう仕方ないことだとも思う。

 

そもそも人を騙すつもりもなければ、

人を騙しているつもりもなく、

自分が騙されていることにも気が付けない。

 

愚かとは、誰からの視点であろうか。

 

自分で自分のことを愚かだと思うこともあれば、

頭が冴えていると思うこともあり、

それは気分に似ている。

 

測定値があるとしたら、

それは一定値ではなく、

分布になるだろう。

 

分布はきっと平面でなく立体だと思う。

 

女の子の気持ちを考えることにおいては、

女の子の側からしたら、大馬鹿に違いない。

同じ男から見てもきっとそうだろうと思う。

本当に学習しない。

 

複雑な計算処理を積み上げて

システムを構築していくことに関しては、

きっと誰にも真似できないような思考回路と

その表現を持っていると思う。

リファクタリングには素直に興奮する。

 

過剰な煽てにも乗ってしまう。

嘘だと分かっていても騙される。

騙されたと思った後も騙される。

これは、騙す側の問題だけではなく、

僕の脳の構造の問題も大きいと思う。

 

きっと下手くそな詐欺師でも、僕を騙すことは簡単だろう。

 

彼らの存在意義については、知ったことではない。

 

明らかな詐欺師に対しても、

誠実に対応しようとする素直さは、

本当の優しさに出会えるということもあれば、

ただのゴミ屑共にカモられるということもある。

 

いいこともあれば、わるいこともあるのだが、

いいことは忘れやすく、

わるいことは忘れにくい。

 

いいことは欲を助長してキリがなく、

わるいことは、なぜだか偶然にも連続することが多い。必然だろうか。

 

だとしたら、

いいこととわるいことが半々に起こったとして、

そんなの割りに合わなくないか。

 

なぜこんなにも精神はバランス感覚が傾いているのだろうか。

これは僕だけなのだろうか。

 

感謝が足らないと思って、

感謝をすれば、感謝は軽くなる。

 

連続が感情を鈍麻させるのだとしたら、

善行は日に追うごとに感情的な厚みがすり減っていくのだろうか。

 

なぜこんなにも不完全なのだろうか。

 

経済とは、

僕が思っていた生きる意味のそのものだったはず。

今や僕には、経世済民という、その言葉をうまく現実で捉えられない。

 

生きている意味を問う余裕すら与えられない経済に埋もれて、

騙し騙され、傷つき傷つけられ、

拒絶し拒絶され、人を求め人から離れ、

 

どうすればいいのかと誰かに問うたところで、

彼もまた知る由はない。

 

答えを知っているかのように振る舞う連中は大抵詐欺師だ。

 

そして自らが詐欺師であると自覚があるものもいれば、

ただのパラノイアもいる。

 

ただ、単純に、自らの好むところに従って、

それで誰かの役に立てたなら、それで全てが丸くいくと思っていた。

 

なぜこんなにも。こんなにも複雑怪奇に感情はそれを許さないのか。

 

僕は人間についてどうやら思い違いをしているようだ。

 

僕たちは好きなことをしていることで、

退屈から逃れることはできても、

それ以上のものはないのかもしれない。

 

でも、それ以上を望んでいる自分がいて、その満たし方を知らない。

 

自分の中に探して、思うようにいかず、

自分の外を探して、運悪く人に騙され、

また内にこもる。

 

何もわからないで、

このまま歳を重ねていくのだろうか。

 

きっと後十何年ほどの命なのかもしれないが、

僕はそんなこと絶対に耐えられない。

 

満たされていた記憶を辿ると、

そこには自由があった。

 

今は、その自由の感覚がない。

故に、こんな感情になっているのだろうか。

 

自由の翼が捥がれているなら、

また絶対にそれを手に入れるだけだ。

 

死ぬまでに絶対に。

 

金がなければ何を行動するにも困難な環境を憎むが、

金さえあれば何か行動を推し進めていける可能性を

手に入れられる環境に希望もまた失わずにいられる。

 

全力を尽くして、

あとは祈りながら生きるしかない。

 

この焦燥感は、あまり好きではないが、

行動を、行動を、行動をと自らを急き立てて、

よそ見をすることを減らしてくれるところにはいつも助けられる。

 

まだまだできる。

まだまだいける。

もっともっともっともっと広い景色が見える。

 

そんな終わりのない成長が、

必ずどこかの段階で「自由」を引っさげて、

僕の背中についてくることを。

 

僕はまだ、自由を知らない。

 

 

 

 

 

正しく生きようとすること。

道徳的な正しさを測定することは常に困難で、

最低の定義は、

その人の立場で変わる。

 

しかし、君は君自身を後悔しない生き方をしたいと望むだろう。

 

それが自分の正しさであり、

その誇りを守ることを忘れない人に、

それを信じて生きている人に、

僕は賞賛を送りたい。

 

僕の思う「善い人生」と彼の思うそれが対立していようとも、

僕は彼を素晴らしい人と思うだろう。

 

どんな悪魔であろうとも、

誇りを失わない生き方は美しい。

 

どんなに汚れた道でも、

どんなに汚れた姿であっても、

きっと、美しいものは美しいのだ。

 

非相対的な美しさ。

 

価値の外にあるそれらに惹かれる。

 

もっともっとと、

自分を進めていく、彼だけの強さ。

 

誰にだってあるはず。

 

それを使うのか。

そこに向かうのかは、

一体何が決めるのだろうか。

 

 

不足、過分

十分過ぎるということがある。

そんな時に忘れてしまいがちなことは、

それが十分過ぎるということ、それ自体だ。

 

悪いことは、たった少しであっても

過敏に記憶に刻まれることがあるにも関わらず、

自らにとって良いことは、

十分過ぎるほどのことであったとしても、

欲望が満足しきるということは稀であり、

するとどうしても、

現状を正しく捉えることを誤ってしまうことになる。

 

果たして、こうした性質が、

もしも自らの人格において逆転していたとしたら、

どのような人間になるであろうか。

少し考えてみたい。

 

まず、どんな嫌なことがあろうとも、

常にそれ以上に嫌なことを想定できる能力があれば、

困難な状況であっても、感覚はいたって平静を保つことができよう。

 

次に、どんなに些細な良いことであっても、

それを敏感に記憶していくような感受性が備わっていれば、

日々の生活は、どれだけ喜びに満ちたものになるだろうか。

 

僕は、少しでも、そんな人格に近づきたい。

そのような人格が備わりさえすれば、

どのような人生であったとしても、

生きることは楽しいと、

日々感じずにはいられないだろうから。

 

日々の喜びを享受できるかどうかは、

自分の今立っている環境に左右されるように考えてしまうこともあるが、

本質的には、自らの人格のあり方に依っている。

 

今いる場所、今生きている場所、今こうして立っている場所で、

憂鬱を感じるのか、それとも、安寧を感じるのかは、

場所自体よりも、自身の内面の方が大きな役割を占めている。

 

どうしようもなく憤りを感じる相手がいるような場合を除けば、

自らの苦しみは、自らによってもたらされていることを忘れてはならない。

 

相手を好きになる。

それだけで十分だったはずだろうに。

相手と会話をする。

それで、もう満足していたはずだろうに。

相手と会って、食事をする。

どうしてそれ以上を望もうとする必要があったのだろうか。

身体の関係を持ち、子供ができたとしよう。

果たして、ここにおいて喜べないとすれば、誰の責任か。

子供が成長し、自立していくとしよう。

ここにおいてもし、君が憂鬱な状態であるとすれば、

はっきり言って、人格の成長に失敗しているといっていい。

 

子供の成長に負けてはならない。

自らもまた、子供達に負けじと、人格を調整していく必要がある。

 

それは、苦行などではない。

改善は、ただ日々の喜びを増していくだけなのだから。

 

どんなに忙しない日常であろうとも、

どうか、自らと向き合う時間を、

どこかに持っておきたい。