精節録

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。

正解がないのであれば。

何か「行動」を選択したとしよう。

 

「行動」の結果がランダムである場合、

それが善い方向に進む「行動」であったのか、

悪い方向に進む「行動」であったのかは、

「行動」が終わった後でしか、その判定はできない。

 

また「行動」の終了をある地点で測定していたとして、

その地点では悪い結果をもたらしたという判定であっても、

もう少し離れた地点から測定した場合に、

善い結果に結びついていたということもよくあるものだ。逆もまた然り。

 

さらに言えば、

その「行動」を善いものに変えていくことは、

未来の自分の「行動」に託されているといってもいい。

結果の解釈や、学びの活用によってそれは可能になる。

 

どのような「行動」を選択したにせよ、

それを善かったものとして捉えるのか、

悪かったものとして捉えるのかは、

自らの手の内にあるのかもしれない。

 

反省は改善の親であるのだから、

悪かったことを愚直に反省できるのであれば、

それは未来への財産に変わるはずだ。

 

この観点から言えば、反省の多い「行動」ほど価値がある。

 

とすれば、「行動」の選択において、

それをするのか、しないのか、

悩むことはほとんど無駄なのだろう。

 

基本的に反倫理的行動であれば、

そもそも悩むことなどなく、行わないことを決定できる。

それが悪い結果をもたらすことは明白だからである。

 

悩むということは、

その結果が、善い結果をもたらすのか、悪い結果をもたらすのか、

不明瞭であるからという前提があるはずだ。

 

 

では、不明瞭な未来について条件分岐的に考えてみればよい。

 

まず、善い結果がもたらされるのであれば、行わない理由はない。

では、悪い結果がもたらされるのかどうかという点だけが問題になる。

 

仮に悪い結果がもたらされないとすれば、

善い結果がもたらされる可能性に賭けて「行動」しない理由はない。

 

では、一番恐れていた悪い結果がもたらされたとしよう。

その時の後悔が深いほどに、

反省を促し、改善によって未来は今よりも善いものとなるだろう。

 

さて、悪い結果がもたらす影響が甚大な場合はどうだろうか。

未来の改善可能性を信じることができれば、

その甚大さを受けて立つ覚悟があればいいだけであろう。

 

その他には、命を賭けて挑むという場合はどうだろうか。

 

失敗に終わった場合、死によって全ては清算される。

悪がマイナスで善がプラスだとすれば、

死は0の状態へと自己の状態を終焉させる。

自己に範囲が限定されるのであれば、どんなに悪い結果も死と共に消える。

自己の善悪は自己の存在を前提としているのだから。

 

成功した場合、

それがプラスの結果なのであれば、

極論、0になるかプラスになるかということになる。

奇妙な話のようだが、死の恐怖さえ無視できるのであれば、

最も期待値の高いゲームがそこにあるのだろう。

 

 

条件分岐的に考察した結果、

いずれの場合にせよ、

最終的に善くなる可能性が存在していることに気が付く。

行動しない理由など論理的に考えれば、何一つ存在しない。

 

怖気付くとすれば、

自分の中の改善可能性を信じることができない場合に限るだろう。

 

しかし、行動しないことによる結果など、

現状維持か、衰退が自分に訪れることが大半だ。

 

つまるところ、

緩やかに衰退する道を選ぶのか、

ケツに火が付く可能性のある状況に身を投じるのか、

そういった選択になるように思う。

 

 

仮に自然的に現状が改善されたとして、

自分は何もせずに現状の回復を待っているというのは、

そもそも他力本願的であり、自分の能力などには何も関係していない。

 

生まれた時から金持ちでだった赤ん坊と同じだ。

それは運であり、いつも両義的な現象だ。

 

したがって、

行動しないということを選択するのであれば、

行動をすることから得られる改善の可能性を上回るだけの何かがなければ、

それは相対的な機会損失と同じであろう。

 

「行動」が種となり「改善」の花が咲く。

種蒔きを躊躇う必要はどこにもない。

実りの多い人生は、種蒔きから始まる。

 

好意の構造

好意について考えるとき、

好意を保持している主体と、対象となるものの、

このふたつの領域がある。

 

好意の中には玉石混合の感情たちが渦巻いているが、

純化のためにこの細分化の区別はやめて一括りにしてしまおう。

 

さて、好意を保持している主体が取りうるアクションは、

好意の継続と非継続の間にある。

 

好意の対象となるものの反応というのは、

好意の受容と非受容の間にある。

 

人間関係はもちろんのこと、

仕事、趣味、夢など、あらゆるケースにおいて、

この一般化は当てはまるだろう。

 

我々を悩ませるのは、

継続と非継続、受容と非受容の間のグラデーションが、

日々変化するものであり、

かつ、自らでコントロールできるものではないがゆえに、

ただ現状を受け入れるしかないという事実を、

なかなか受け入れられないというところにあるのかもしれない。

 

仮に一生諦めないと誓ったところで、

未来の自分は当然現在の自分の支配下にはありなどしない。

逆に諦めることを決意したところで、

これもまた特に意味のある行為には思えない。

 

そもそも、対象への好意の継続性は、

自らの対象への好意を源としているのだから、

 

自分の好き嫌いについて、

それが元来自然なものであったように、

継続性もまた、自らでどうこうしようとするような類のものではないことが分かる。

 

好意の行く末に、最終的な結末など存在しないことを知る必要がある。

グラデーションの交わるその時点時点における現実が、

その好意の自然な姿なのであろう。そこに正解はない。

 

好意の主体は、その成就を願うことが常であるが、

好意そのものは成就しようがしまいが、ただそこにあって、

主体の願いとは関係なく、

自らの自然な姿に落ち着いているものである。

 

好意がみせるグラデーションに、

いちいち喜怒哀楽していては、

一生落ち着かない日々を過ごすことになるだろう。

 

単純な構造として、

好意の継続性があるのであれば、

それをそのままに受け入れて、

その受け入れた継続性の分だけ、

その時その時に行動を起こせばよい。

 

この行動に、対象の反応はほとんど関係がない。

 

対象の反応が受容を示しているのであれば、何も問題はないし、

非受容を示していたところで、

自らの好意の継続性が潰えるまでは行動が行われるだろう。

 

好意を保持している主体は、

好意の継続性のみが、その行動原理になる。

その行く末は、ただ不明なものであり、

 

これはもう、その時その時で、

「好意がもたらす状況」がただそこに発生するというだけである。

 

状況は時として感情を揺さぶるけれど、

自らでコントロールできない状況に関して、

激しく喜怒哀楽を示しているようであっては、

生き方として望ましいものであるとは言えない。

 

自らでどうにかできる状況に関して、

感情的なエネルギーを用いるのは大いに大切かもしれないが、

 

こと好意に関しては、

そこから起こる行動や結果、そして状況について、

ただただ淡々と現実を受け入れて、

あまり感情的にならないように心がけることがいいのだろう。

 

今の感情や行動が、

自然なものかどうかだけを気にしておいて、

特に考え過ぎず、自然であると腑に落ちれば、ただそれに従うのみ。

考える力は、考えることが有効なところに注ぎ込むのがよい。

そんな心持ちで生きていきたい。

 

恋愛感情

自分の性欲が自分の制御の中にあることが確かに自認できるとき、

好きな相手に対する恋愛感情は、その存在が明確になる。

 

言い換えると、

性欲が自己制御できるようになっていると、

好きな相手を目の前にしたとき、性欲で女性を欲しているのか、

そうでないのかが自分で分かるようになる。

 

そもそも、性欲が自分に与える影響が微小化していれば、

その分別はもはや必要とはならず、

真っ直ぐに相手の人間性との対話を欲するようになるだけになる。

 

さて、しかし、ここからが問題だろう。

 

性欲の制御などは、ある程度の習慣の改善と、

自分の人生の目的などを明確化しておけば、

時間の経過と共に、さしたる労もなく達せられるものだ。

(渦中にいればそうは思えない時も確かにあるが、、、)

 

欲するものが、単純な性欲の解消ではなく、

好きな相手との「対話」となれば、

その難易度は跳ね上がる。異性間となればなおさらそうだろう。

 

そして、単純な好意だけでなく、

恋愛感情が絡んでくれば、対話の難易度は増していくものだ。

 

高揚、緊張、期待、失望、違和感、諦め、陶酔、興奮、恐怖、愛情、共感、承認。

様々な感情や概念が頭と身体を駆け巡り、支配していく。

それは、もはや性欲の比ではない。

 

場面場面における正しい判断があると仮定したとして、

どうしてこのような感情と概念の渦の中でそれを選択できるだろうか。

知性はまた、感情の圧力の前に、ただ呆然とするだけであろう。

 

そして、強烈な失敗が学びに変わる経験を繰り返すうちに、

動物的な学習によって、愚かな感情的な言動を避けるように成長していく。

 

それは分かる。

 

しかし、運命とも思えるような出会いが、ただの学習の機会へ凋落してしまうのは、どうしても耐えられないではないか。

 

僕は、性欲が制御できたことと同様に、恋愛感情もまた、自己制御の内にいれることができるのではないかと希望を抱かずにはいられない。「感情」をベースにした動情であることに変わりはないのだから。「感情」の暴走を止めておくという意味では類型化できるはずだ。

 

おそらく、恋愛感情の次は、「好意」という途方もしれない概念が待ち構えていることがその外周に見えるけれども、これは一旦置いておこうと思う。その言語のシンプルさから、どうも暴走とは無縁に思えるけれど、好意は時として狂気にすらなりうる。

 

性欲は、ただ無駄な刺激を避け続けるように生活を送るだけでことなきを得たが、恋愛感情に関して言えば、同じようにはいかないだろう。後者は、習慣的なものではなく、突然やってきては、生活を一変させていく。

 

水たまりで濡れたくなければ、水たまりのない場所を選んで歩くようにすればよかったが、突然やってくる台風は、どうも避けようがない。やれることといえば、事前の対策と準備であろう。

 

さて、精節録としては、新しいフェーズに入ったことを喜びたい。

第一章として、性欲の悲惨な暴走が改善された後は、

第二章として、恋愛感情への対策と準備についての考察を深め、

その暴走の抑制を目指すという段階に入っていくようだ。

 

暴走のない状態で、知性が賢明に判断を下せるようになれば、少なくとも、大切な出会いを感情の暴走によって愚かにも破壊してしまう悲しみを減らすことができるだろう。

 

そもそも、たいして性欲の制御についても明瞭な記事を書き続けて進んできた訳ではないので、今後も非常に抽象的な書き方の中で、この問題に向き合っていくような気がしているが、今の段階ではなんとも分からない。

 

はたして、恋愛感情に対策と準備などというものが有効なのかも知らない。ただ、なんとかしていった結果、なんとかなるような気持ちがある。

 

これはきっと、数年前に性欲の暴走が心身を支配していたとき、どうしようもないと思っていたところから、ここまで進んでこれたのだという事実が、背中を押してくれているからだろう。

 

「恨み」の行方と、振り返り

僕はあまり人との会話の中でストレスを発散するということをしたことがなく、

ピークまでそれが溜まってしまうと、まず体調が悪化し、

ひどい嗚咽と嘔吐に襲われ、

それよってストレスの発散が行われていた気がする。

 

難儀な性格で身体にはいつも申し訳なく思う。

 

おそらく「一部の社会」での通例では、

 

逃げることを選択しない弱者には無理難題や責任が押し付けられる。

人々の怒りの矛先は低い所に流れていく。

人の優しさに漬け込むような人間に目を付けられれば尽く搾取の対象とされる。

大衆の手のひら返しには信念というもののカケラもない。

自分勝手な嫉妬たちは大抵その感情を攻撃に姿を変えてやってくる。

時代遅れの常識はその泥沼へと若者を引き摺り込もうと必死になる。

金銭に目の色を変えて態度が豹変する輩は多い。

権威の力を自分の力と錯覚した連中は自分が虎の威を借りた狐であることを忘れている。

白痴には自分の愚かさの自覚すらままならない。

自意識よりも実際の能力が低い方に乖離した者ほど他者を落とそうとする。

問題を解決する能力に反比例して愚痴が跋扈する。

精神年齢が低いほどに相手への要求水準が高い。

貧乏くじゲームが上手い者ほど口が上手い。

 

・・・書ききれないかもしれない。

少ない経験からの一般化。

 

 

僕のこれらに対する「恨み」は、

愛想笑いの下に隠れていたので、

知らず知らずのうちに堆積されてしまっている。

 

どうするのが善処だったのか、今の段階では分からないが、

明日からは上記のような「一部の社会」そのものと

大きく距離を置いた生活をすることになるだろうと思う。

ここまでなんとか辿り着けた自分に、なんらかの労いをしておきたい。本当に。

 

去年のちょうど今頃に書いた記事を思い出す。

不幸に陥る「優しさ」と、雪だるまの下の散弾銃」という記事だった。

綺麗な「戦略的忍耐」とは行かなかったかもしれないが、

「雪だるまの下の散弾銃」はどうやら取りに行けそうだ。

 

思い描いていたほど今はすっきりした心情ではないものの、

逆にそれが現実的で少し心地いいような気もしている。

歓喜ではなく、静かに嬉しいという感じ。

 

一人で静かな空間で味わおうとしなかったら、

見過ごしてしまうくらいに微かな喜びの感覚で、

数年越しの思いがあったことを思えば、

そのギャップにすごく不思議を感じる。

 

もしかしたら、長い忍耐の中で

素直な感情を鈍麻させてしまっただけなのかもしれない。

 

 

描いた地図はそう昔から大きくは変わっておらず、

歩き方もその予定も、都度都度調整していく中で、

だいたいその通りに歩めるものなのだと計画の偉大さを痛感している。

 

「分からないことへの対処」に関する一つの答えは「よい計画」なのだろう。

分からないことの結果が、

どちらであっても問題がないように計画が立てられていれば、

未来が予測不能であることは計画の支障にはならない。

 

目の前の人間がサイコパスの可能性があり、

自分が利用されていようが、されていまいが、

彼が自分にさせようとしている行為に関して、

それを自分自身が本心から望んでいるとすれば何の問題もないだろう。

利害が一致している状況というだけだ。

 

逆に「彼のために」という「人間の互酬性」に関する予測不能な思考を、

自分の判断材料として用いてしまえば、万が一サイコパスだった場合には、

自らを地獄へ連れていってしまうことになりかねない。

 

「どちらであっても問題がないように」行動の指針を立てるということ。

これからも肝に銘じておこうと思う。

 

20歳前後の時に本気で探求した哲学が、

今ここでも活きていることが分かって嬉しい。

 

結局「分からないもの」を考え詰めていく中で、

「分からない」という状況であっても、

「分からないままである場合」や「分かるようになる場合」などにパターンが分かれ、

例えば「分かるようになる場合」には

そこからそれぞれに予想される結果にパターンが分岐していくことに気が付き、

「分からない」ということが思考自体の歩みを止めることはないのだと、

当たり前かもしれないが、この事実に深く感動したのを覚えている。

これは「生きる意味」という命題に対しても真なのだ。

 

さて、自分が抱えている「恨み」に関して、

今はどうやってこれを処理していいものかまだ分からないが、

よりよい方法をこれから考えていけたらと思う。

 

「善処」は「思考」から始めることができるのだ。

 

 

集団訓練

僕たちは、

報酬系にひたすら無意識の「承認欲求」を埋め込む「訓練」に加えて、

集団心理によって「休息」に「罪悪感」を関連付ける「訓練」も行なっている。

 

個別的な「休息」が本当に「悪いもの」だと仮定してみよう。

そもそも、このように書き出すだけで奇妙に思えるが。日本語の背理法

 

自分が属している集団において、

自分だけが休む状況(理由は不問)を考えてみる。

 

ここでは、休むことに理由付けがないのだから、

単に休息中に遊んでいてもいいし、寝ていてもいい。

 

さて、この「理由のない休息」に憤りを感じる人々の存在について、

僕は沢山の思い当たりがある。

 

集団の性質で場合分けができるだろう。

 

一つ目の集団は、集団で実施している活動が、

集団に属しているいずれかの人において「休息よりも重要ではない」対象となっているようなケース。

 

2つ目の集団は、集団で実施している活動が、

集団に属している全ての人にとって「休息よりも重要」となっているケース。

 

僕が思うに、

多くの「学校」や「会社」は前者になっているような気がする。

また「社会人サークル」や「起業の創業メンバー」などは後者が多いのだろう。

いずれにせよ。0 or 1ではなく、複雑に人々の感情は入り組んでいるはずだ。

 

離脱の自由があるのであれば、

「他者の休息に憤るような人々」は集団から離脱すればいいだけのような気がするが、

重要な部分は「『離脱の自由』における制約の有無」が発生していることだ。

 

特に「学校」や「会社」については、

基本的に「離脱の自由」が認められてはいるけれども、

明らかにそれを行使することにおいて「制約」が存在している。

 

制約として、経済的な部分など物理的な部分は分かりやすいけれど、

問題の大部分は「見えない恐怖」が集団性そのものによって、

無意識に刷り込まれていることに起因しているのだと思う。

 

そしてその「見えない恐怖」の大部分の正体は、

訓練によって無意識に植え付けられた「肥大した承認欲求」に他ならないだろう。

 

集団から抜ければ、

その集団から受けていた「承認」が喪失するという不安が生じるように

これもまた「訓練」されているのだ。

 

自分が数年間属していた集団を抜けることを何と言うだろうか。

つまり「卒業」のことだ。

 

「卒業」は繰り返されては、それが「承認の喪失」と言う無意識の感情と紐付くのだ。

 

大抵、集団に属していて、その人に一般的な能力値があれば、

3年もすれば集団の中では平均的なレベルに達しない方が難しい。

自然は正規分布的なのだから。

 

さて、卒業後、忙しさに追われていく中で

「過去の承認」よりも「未来の承認」を得るように人々は躍起になる。

それは「過去の承認」が消えて不安になるからだろう。

また、それに拍車をかけるのは「新しい環境」というハードルが存在することも大きい。

 

きっと僕たちは「新しい集団」の中で、

以前に属していた集団と同程度かそれ以上の承認を得ようとする。

それは多くの場合「0」から積み上げていく作業に等しい。

 

「0」から積み上げようとしているのは、

自分が前の集団に属していた年数をかけて築き上げた「信頼」や「承認」だ。

どれほど困難な作業であろうか。

 

きっとその人が優秀であればあるほど、その人は焦り、それを築き上げようとする。

すると、もしも集団の性質が悪質なものであれば、

「不安」によって精神が壊れない方が難しい。

 

話を本題に戻そう。

集団の性質が「休息」に対して非許容的になっていく理由がこれで揃った。

 

集団内に属している「不安な肥大した承認欲求」を保持している人の割合に比例して、

休息に対する非許容度は上昇する。

 

皮肉なことに、この割合は、上述した理由もあいまって、

エリートたちが多いと言われる集団の方が高いのではないだろうか。

 

社会の構造は皮肉で悲惨だ。

けれど、自らの属する集団を変えることはできる。

 

「変える」ということには2パターンあるだろう。

 

集団自体の空気を入れ替えるか。

自らが新しい空気を吸えるように移動するかだ。

 

だから僕は、

全ての人に「自分の好きな仕事や活動」を心からして欲しいと願う。

そんな人々の「集団」であれば、

休息中の人に対して可哀想という感情は抱きさえすれ、

なぜ、憤る必要があるだろうか。

 

好きなことというのは大抵「単なる休息よりも重要」なことなのだ。

 

「嫌なことをみんなで我慢する訓練」をすればするほど、

僕たちの状況は悪化していく。

 

ならば、これで得をしているのは誰だ?

 

僕たちが「嫌なことを我慢して働く」ことを社会が望んでいる。

お金で人の「人生」を買おうとする社会そのものだ。

 

得をしているのは「金持ち」に他ならない。

資本主義社会は、資本家が作った社会だ。

 

嫌なことには全力で抵抗するのだ。

さもなければ「訓練」が君を資本家の奴隷として強化していく。

 

資本家のために苦しむ必要はない。

そして戦う必要もない。

ただ、好きなことを仕事にすればいいだけだ。

 

幸いなことに、現代では、「訓練」を止めることで殺されることはない。

実態は殺されるよりも悪どい状況かもしれないが。

 

嫌なことには全力で抵抗し、好きなことに命をかけるべきだ。

「訓練」から抜けるには、自らの「肥大した承認欲求」を黙らせるほど、

自己実現的な生き方をする必要がある。

 

 

神は君が何をしていようとも、何をしていなくとも、

ここにいることを認めてくれているのだ。

でなければ君はどうして生まれてこれただろうか。

 

親や社会、君の属している集団の君への承認に関わらず、

神は君をありのままに今この瞬間も認めてくれている。

それを心から感じておこう。

 

君がここに存在していてもいい理由は、

君がここに存在しているという事実そのものだ。

 

ならば「訓練」は終わりにしようではないか。

好きなことをしよう。そのために生きよう。

 

 

訓練

産まれてから、

言葉を喋れるようになり、

それを見て周りが喜ぶ。

 

歩けるようになり、また周りが喜ぶ。

 

何らかの施設で午前中を過ごすようになると、

毎日のように「今日やること」が決められていて、

それをうまくやると、また周りが喜ぶ。

 

しばらくすると、施設を卒業して、

次の施設へと向かうようになる。

 

今度は午前中だけでなく、

午後もそこで過ごすようになる。

時間が増えた分、「今日やること」だけでなく、

「明日までにやること」も決められていて、

毎日毎日はそれに追われて過ごす。

うまくやると、周りは喜ぶ。

 

また、卒業して、次の施設へと向かう。

「やること」は全て決められているわけではなく、

ある程度自分で選択できる余地がある。

しかし「やりかた」は誰かに従いながら、

それを行なっていく。うまくやると、周りは喜ぶ。

 

また、卒業して、次の施設へと向かう。

「やりかた」にもある程度の裁量が与えられつつ、

「やること」のレベルが少しづつ上がっていく。

うまくやることに必死になることを覚えていく。

うまくやれば、周りは喜ぶ。

 

また、卒業して、次の施設へと向かう。

うまくやること、うまいやりかた、

それを身につけては、実践していく。

うまくやれば周りは喜ぶ。

しかし、日々の「やること」に終わりはない。

 

「やること」に終わりはないが、また卒業がくる。

 

親の子供への「やること」は、

だいたいこの辺で落ち着く。

 

子供は、大人として次の場所へ向かう。

この大人は、完全に無意識的に訓練されている。

 

この大人は、自分に関わる子供達に、

同じ訓練を行うようになる。

 

また、自分自身が、

この行動規範と承認欲求に縛られる。

 

日々与えられる「やること」を

うまくやると、周りが喜ぶのだ。

 

しかし、うまくできなければ、

周りは落胆し、君を変えようとしてくる。

 

うまくやり続ける限り、

「やること」は増え続けるだけでなく、

そのレベルは上がり、負担は増加していく。

 

うまくできなければ?

「周りは落胆し、君を変えようとしてくる」だろう。

なぜ「周りは落胆し、君を変えようとしてくる」のだろうか。

 

周りとは、

君と同じ「訓練」を受け続けた大人たちだからだ。

 

彼らの行動規範や常識は、

「与えられた『やること』をうまくやらなければならない。」

というものだ。

 

幼い頃から数十年反復され、

身に染み付いた行動規範を

見直すこと自体、とても難しいだろう。

 

見直してみよう。

なぜ「与えられた『やること』をうまくやらなければならない」のだろうか。

 

例えば、誰かが困るから、だとして、

逆に、君自身は「やること」に追われる日々に困ってはいないだろうか。

 

例えば、それがルールや契約、だとして、

逆に、なぜそれに縛られる必要があるのだろうか。

自らが疑念を抱くルールや契約があって、

それを破棄する自由が認められないとすれば、

そのこと自体がそもそも

ルールや契約の欠陥を示しているとも言える。

 

例えば、「罪悪感」があるから、だとして、

逆に、なぜ自分へ苦しい思いを与えている元凶は、

「罪悪感」を持たないのだろうか。

それ自体が関係性の不均等や欠陥を

示しているとも言える。

 

 

そもそも「与えられる日々の『やること』」は、

誰がそれを与えているのだろうか。

元を辿れば、それは、

「最も誰かに何かを依頼する力をもった人」

になるのではないだろうか。

つまり王様であり、最高権力者だろう。

 

この「訓練」の構図は、

言うまでもなく、最高権力者のための構図になる。

 

この「訓練」を続けている限り、

どんなに頑張っても、頑張っても、

 

頑張った分だけ、

君は卓越した「訓練生」になるだけだ。

真面目は報われない。悲惨かなあ。自縄自縛。

 

 

この構図は間違いなく胸糞悪い。

それをひっくり返すことはできるだろうか。

 

少なくとも、自分1人だけは助かる道がある。

今すぐに「訓練」をやめることだ。

 

「訓練」をやめて悲惨が待っているとしても、

やめなければ必ず悲惨がやってくる。

 

ならば、やめる選択肢を選ばないと言う

合理的な理由はない。

 

いずれにせよ悲惨なのであれば、

自由な方を選びたいではないか。

 

それで死ぬなら、まさに本望だろう。

 

趣向への囚われ。

「好きなことをしたい」

「好きなことをしよう」

ここまではいい。

ここまではいいのだ。

 

これが価値観となり、

視野の狭い状況になることはまずい。

 

自らの趣向以外を拒絶し始めた時、

苦しみが同時にやってくる。

 

魚は、水の中でしか生きられない。

そこまではいいのだ。

 

「僕は川がいいのだ。今、海で泳いでいるが、僕は川がいいのだ。」

そうなるとまずい。

 

価値観への固執が始まると、

「海」の良さを考えられなくなる。

「川」の良さを神聖視し始める。

 

趣向は、それに囚われるべきものではなく、

ただ自らの喜びを高めるものであったはずだ。

 

君は「地上」でも十分に喜びをもって生きられたかもしれないのに、

「川」を好み、それに執着し過ぎた故に、

自らの首を絞めることになった。

 

呪うべきは、「川」を泳げない現状ではなく、

自らの価値観、視野の狭さに他ならない。

 

精神的な不満や苦しみは、

大抵が自らの「価値観の歪みを是正する」ものだという。

 

だからこの虚しさは気付きになった。

 

 

一番身近な例えを考えれば、異性への好み。

 

「彼女のあの感じ、とても好きだ。」

 

「彼女以外に、あの感じを持っている人はいない。」

 

「彼女が良いのだ。彼女以外は石ころだ。」

 

「彼女でなければならない。」

 

「彼女がいなければ、生きている意味がない。」

 

エスカレート。強迫観念。

 

本当にそうだろうか。

であれば、君もまた石ころ。

蔑みは自らに反射して、自縄自縛。

 

「蔑み」は価値観と視野の狭さそのもの。

 

人を蔑むとき「蔑む自ら」こそ是正しなければならない。

でなければ、君は苦しみ続けることになる。

蔑みが長ければ長いほど、

強ければ強いほど、

それは自らに跳ね返る。

 

植え付けられた価値観に

もう一度問い直そう。

「私は本当に水の中でしか生きられないのだろうか。」

「私は、何によって『魚』として定義され、この生き方をしているのだろうか。」

 

自らの趣向によって苦しんでいるならば、

本末転倒もいいところだ。

 

「歳」は尊ぶべきものであったか。

尊ぶべきは「歳」ではなく「経験」では?

「生きること」はそれのみで尊ぶべきものだろうか。

尊ぶべきは「生きること」ではなく「何に生きているか」では?

 

人間が「不幸」に陥りやすい理由は、

僕たちが、自らの生き方を是正する力を生まれながらに持っているからだ。

ならば、どうして「不幸」を蔑むことがあろうか。

 

この能力、「正しさ」を生まれながらに導く潜在哲理は、

僕が、喉から手が出るほどに欲していたものに違いない。

 

すでに持っていた。そんな話。おわり。