精節録 —オナ禁で得た知見—

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。

不足、過分

十分過ぎるということがある。

そんな時に忘れてしまいがちなことは、

それが十分過ぎるということ、それ自体だ。

 

悪いことは、たった少しであっても

過敏に記憶に刻まれることがあるにも関わらず、

自らにとって良いことは、

十分過ぎるほどのことであったとしても、

欲望が満足しきるということは稀であり、

するとどうしても、

現状を正しく捉えることを誤ってしまうことになる。

 

果たして、こうした性質が、

もしも自らの人格において逆転していたとしたら、

どのような人間になるであろうか。

少し考えてみたい。

 

まず、どんな嫌なことがあろうとも、

常にそれ以上に嫌なことを想定できる能力があれば、

困難な状況であっても、感覚はいたって平静を保つことができよう。

 

次に、どんなに些細な良いことであっても、

それを敏感に記憶していくような感受性が備わっていれば、

日々の生活は、どれだけ喜びに満ちたものになるだろうか。

 

僕は、少しでも、そんな人格に近づきたい。

そのような人格が備わりさえすれば、

どのような人生であったとしても、

生きることは楽しいと、

日々感じずにはいられないだろうから。

 

日々の喜びを享受できるかどうかは、

自分の今立っている環境に左右されるように考えてしまうこともあるが、

本質的には、自らの人格のあり方に依っている。

 

今いる場所、今生きている場所、今こうして立っている場所で、

憂鬱を感じるのか、それとも、安寧を感じるのかは、

場所自体よりも、自身の内面の方が大きな役割を占めている。

 

どうしようもなく憤りを感じる相手がいるような場合を除けば、

自らの苦しみは、自らによってもたらされていることを忘れてはならない。

 

相手を好きになる。

それだけで十分だったはずだろうに。

相手と会話をする。

それで、もう満足していたはずだろうに。

相手と会って、食事をする。

どうしてそれ以上を望もうとする必要があったのだろうか。

身体の関係を持ち、子供ができたとしよう。

果たして、ここにおいて喜べないとすれば、誰の責任か。

子供が成長し、自立していくとしよう。

ここにおいてもし、君が憂鬱な状態であるとすれば、

はっきり言って、人格の成長に失敗しているといっていい。

 

子供の成長に負けてはならない。

自らもまた、子供達に負けじと、人格を調整していく必要がある。

 

それは、苦行などではない。

改善は、ただ日々の喜びを増していくだけなのだから。

 

どんなに忙しない日常であろうとも、

どうか、自らと向き合う時間を、

どこかに持っておきたい。

 

 

不幸に陥る「優しさ」と、雪だるまの下の散弾銃

自分で自分のことを「優しい」人間だと思っている時ほど、

人に舐められている可能性に気がついた方がいい。

 

自分の中に鬱憤を堆積させながら、

誰かに何かをしてあげるということは、

優しさではなく、迎合という言葉が適切だろう。

 

不満があるならば、

それを伝えなければならない。

抵抗を示さない者は、虐げられても自分の責任だろう。

 

刃物を向けられているのに、

逃げもせず、反撃の姿勢も見せない者は、

ただ刺されるだけだ。

 

無抵抗のまま殺人鬼に殺されることを、

「優しさ」と呼ぶ人はいない。

 

そして、そんな受動的態度は、卑怯な人間の格好の的になる。

 

つまり、抵抗を示さないことや、

迎合するような生き方は、

いつしか、卑怯な人間を周囲に集めていく。

 

彼らは君に無茶を押し付けながら、

「君は優しいね」などとほざくだろう。

 

それは、「君は利用しやすいなあ」と言う言葉と同義だ。

 

そもそも、

弱者が強者に対して優しくすることなどできない。

 

優しさを示す方向は常に、強者から弱者に対しての一方向性しかない。

 

子羊の矛盾した「優しさ」は、

ただその周囲に、残虐なハイエナをおびき寄せていくだけだ。

 

しかし、力のない子羊は、

迎合する以外の生き方をまだ知らないとして、

どうやって、この地獄から抜け出せばいいだろうか。

 

選択肢は2つしかない。

 

1つ目は、勝てない相手ならば、死ぬ気で逃げること。

2つ目は、勝算があるならば、死ぬ気で戦うこと。

 

「ただ耐える」という選択肢は、地獄への片道切符だ。

「耐える」選択を行うとすれば、

逃げるのか、相手を喰らうのか、

その覚悟ができた後に、

勝算を整えるための時間が必要な場合に限る。

 

そんな戦略的忍耐は、僕は大好きだ。

 

見た目は、ただ耐えているだけの奴と何も変わりはしないが、

水面下では、着々と勝機の到来へと近づいていく。

 

冬が長ければ長いほど、春は待ち遠しい。

着々とした日常によって、

冬を楽しむことができるならば、

過酷さは、むしろ喜びのスパイスになる。

 

雪だるまの下には、散弾銃が埋まっている。

 

 

残酷さ

理想と現実を混同させると、生き方を間違える。

少なくとも、僕は、現実について、ひどい勘違いをしていた。

 

僕は、自分の体内にいる微生物たちが、

今この瞬間に死んでいくことに何の感情も持たない。

その事実を知っていたとしても、

自分の存在によって、彼らが死んでいくことに、

罪悪感を覚えることはない。

 

普段の食事に際しても、

時に、より生々しい生命的なものを食すにいたっては、

箸を止めることもあるだろうが、

それは、自己を投影するからであって、

決して、その死んだ生命に慈悲を感じてのことではないのだろう。

 

今日、昔の知り合いが死んだとしても、

同じ場所で働く人々の誰かが死んだとしても、

まるで自分が死ぬことのように、悲しむことはできない。

 

自分と同じくらい、あるいは、

自分よりも大切な誰かや生命が死んだ時にしか、

本当に悲しむということはないのだろうか。

 

そう思い返すと、自分の中の残酷さがわかる。

 

そして、自分の中の残酷さを知れば、

他者の中にもまた残酷さがあるのだということを認識できよう。

 

僕や君が死ぬほどつらかろうと、

実際、死ぬほどの状況になろうとも、

他者にとっては、割とどうでもいいことのなのだ。

 

それは、僕や君にとっての、

ニュースの中で繰り広げられているような悲劇と同様に。

 

さらに残酷な事実は、

自分が誰かを大切に思っていたとしても、

その誰かが同じ程度に自分のことを大切に思ってくれるということは

基本的にありえないということだ。

 

この当然の事実から、

目を背けてしまいがちなのは、

この現実を受け入れることよりも、

ありえない理想にしがみついている方が、容易いからに過ぎない。

 

しかし、現実から逃げれば逃げるほど、

そのつけはどこかでやってくる。

 

自分の中に残酷さがあるのと同様に、

他者の中にも残酷さがあるのだということを忘れていては、

自分が窮地に立たされた時、

「なぜ、周囲の人々は助けてくれないのだろうか。」

という、倒錯した疑問を抱いてしまうだろう。

 

助けてくれるような状況こそが稀であり、

そして、稀な状況の裏には大体理由がある。

そこには誰かの利益があるだろう。

 

だが、

残酷さについての認識が欠けた生き方をしていれば、

その稀な状況こそが、当然な状況であると思い違いをするだろう。

だから、必ず騙されるのだ。

 

「平和な現実」という理想を信じていれば、

次第に牙は抜け落ちる。

牙がなければ、戦うことはできない。

戦うことのできない奴は、誰かを頼るしかない。

しかし、助けてくれる他者は稀なのだ。

 

「残酷な現実」という現実と向き合うことで、

牙を研ぎ続けることを怠らずにいられよう。

そうして、その牙があってこそ、

誰かを助けることもできよう。

 

残酷さの中に、光を見出すとすれば、

自分が誰かを助けるという能動的な道であって、

誰かが自分を助けてくれるという受動的な道ではない。

 

本当に自由や平和を求めている者は、

必ず自分の力を持っている。

戦うことのできる力を持っている。

 

欺瞞的な思想との違いは、

思想の後に力があるのではなく、

力の上に思想が成立しているということだ。

 

生きるためには、何かを殺さなければならず、

何かを殺すためには、その何かよりも強い力を持つ必要がある。

 

 

 

 

心理的に健康な状態で生きるために

心理的な安定がなければ、
どんなに優れた環境も地獄に変わる。
心理的な安定さえあれば、
どんなに過酷な環境でもさして問題にならない。

 

だから、
環境を改善しようとする前に、
自分の心理的な安定感や
安心感を養うほうがよい。

 

傷ついたままの心を放置せず、

 

無意識に追いやられて堆積したままの恨みを
しっかりと発散してやり、

 

抑圧されたままの怒りを
どうにかして表現しよう。

 

そして、

エネルギーを搾取する人々や
ずるい人々とは
きちんと壁をつくって、
なるべく近づかないように。

 

そのためには、
自分のことに執着して
周りが見えなくなるような状況を改め、
よくよく人を観察するようにしよう。

 

観察においては、
都度都度の主観に惑わされないよう、
客観視ができるような

記録を残すといいかもしれない。

 

都度都度の解釈に頼っていては、

必ずと言っていいほど、

ずるい人々に騙されてしまう。

 

心の状態を良くするよりも、

生活の環境を良くする方が、
目に見えて分かりやすいし、
心理的な改善とは比較にならないほど簡単だが、
そこに甘んじているだけでは、
地獄から抜け出せはしない。

 

憎しみや怒りは、水のように低いところに流れていく。

他者の敵意が自分に向けられていると感じる時、

あるいは、実際に敵意を示されている時、

大抵の場合、その敵意は、本来向けられるべき方向を向いていない。

 

憎しみや怒りは、社会生活の中で、表現されにくい感情に違いない。

 

多くのそのような感情は、

感情を抱いた時点では表現されることなく、

抑圧されて溜まっていく。

 

溜め込まれた憎しみの感情はいずれ溢れる。

あるいは、溜まりに溜まったその重さから逃れようと、

どこかに捌け口を探す。

 

水が高い位置から低い位置に流れていくように、

溢れ出した敵意は、その場で最もその感情を向けやすい対象に流れ着く。

 

自分勝手さを許容してくれるような、身近な存在であったり、

言い返してくることがないであろう、自分よりも立場の低い弱者であったり、

敵意は本来向けられるべきところから

対象をすり替えられて発散が行われることが多い。

 

この無意識の出来事は、

正当性を保とうとして、さらに弱者を責め立てることにつながる。

 

そのようにして、

自らの弱さと向き合えない人間は、「弱い者いじめ」をする。

 

彼らの問題は決して解決することはない。

向き合うことのない弱さは、弱いままであるだけでなく、

向き合うことから逃げることで、さらに自信を失うからだ。

 

本当に敵意を向けなければならない相手に卑屈になれば、

悔しさは堆積し、それが無力感を募らせる。

そのうち、敵意自体を感じないようにと、

感情を麻痺させてしまえば、心は錆び付く。

身近にある、面白いことも、楽しいことも、

どうにも感じることができなくなっていく。

 

さて、待っているのは悲惨の他ないだろう。

 

通常の心の健康な人間は、人生の楽しみを感じることができる。 

楽しみを感じることのできなくなった人間は、

楽しみを感じることのできる人間を、嫉妬せずにはいられない。

 

問題は、もうほとんど根本的な解決に向かうことはない。

なぜなら、無感動は無気力につながる。

もはや、行動によって改善の方向に進もうという力はない。

すると、感情を一時的にでも安定させようとして、

再び「弱い者いじめ」をするしかない。

 

悲惨は繰り返される。

 

いずれ、そうした者の周りには、誰もいなくなるだろう。

その時、彼はどのようにして生きるのだろうか。

彼の心はもう死んでいて、残った身体に魂はない。

 

 

こんな風になる前に、

僕らは戦わなければならない。

 

耐えるだけではなく、自らの感情を押し殺さずに、

正当にその感情をぶつけるべき相手にぶつける必要があるのだ。

 

まず、怒りと憎しみは、それが抑圧されない限りにおいて、正しい感情だ。

 

それは、自分がそう感じたということであり、

つまり、自分自身なのである。

 

その感情を抑圧するということは、

自らを否定するということに他ならない。

 

他者にいくら自分を否定されようとも、

自分で自分を否定してはならない。

なぜなら、そこが、いつも唯一の防波堤であり、

生きる意味が宿っている根本的な部分だからだ。

 

苛立ちを隠すことはない。

自らに嘘をついて機嫌を良くすることなどない。

傷つけてくるような人間と友好的になるな。

 

もし、君の苛立ちや機嫌の悪さに、憤る人間がいたとしよう。

大抵の場合、そいつが、君の感情を抑圧しようとしている真犯人だ。

他人の機嫌の悪さを気にしている人間は、

自らの行為とそれを関連付けているからそれを恐れる。

何かがバレることを恐れているのか、それとも極度の不安を抱えているのか。

 

いずれにせよ、他者からの抑圧に負けて、

自らを自らで抑圧してしまうことだけは避けなければならない。

自分の身を自分で守るとは、

「この最終防波堤だけは、他者に絶対侵害させない」という覚悟によって、

根底的な自己肯定を自分で守り抜く強さのことに違いない。

 

人間は多種多様であり、ずるい人間や、嫌な人間、糞人間もいる。

 

この自分の心の防波堤を堅持することを怠ってしまえば、

彼らに精神を弄ばれ、自分の人生を利用されて

そして死んでいく未来が待っている可能性が高くなる。

 

弱者や孤独な者は、精神的な攻撃の対象になりやすい。

 

自分の心に、他者からの否定のメッセージを

そのまま染み込ませるようなことは絶対にしてはいけない。

 

簡単に罪悪感を持ってはいけない。それを示すなど以ての外だ。

 

自責という概念は素晴らしいものであるが、

それは、自己の内面から出発した限りにおいてである。

 

他者からの責めを愚鈍に受け入れて頷いているのは自責とは言わない。

 

その他者からの責めは、どんな動機がもとになっているか。

その動機が「弱い者いじめ」であれば、

どうして愚鈍に受け入れる必要があるか。

 

抑圧された敵意は、

本来向けられるべきところではなく、

ぶつけやすい場所へとぶつけられている。

 

それを忘れてはいけない。

 

自分の自信も誇りも、誰かが守ってくれるわけではない。

自分の人生を自分で守るという覚悟を持たなければ、

君もいずれ「弱い者いじめ」を行うようになる可能性がある。

 

素直さとは、

敵意を向けるべきところに向けることであり、

怒るべき相手に怒ることであり、

憎むべき相手に憎むことであり、

悔しさをそのままに悔しむことである。

 

それで、自分を知ることができる。

自分の弱さも、依存心も、器量の大きさも、

そうして現実と向き合うことができる。

 

そして、本当の問題と、その解決策を考えることができる。

 

自分の感情を押し殺すこと、我慢、抑圧、

そういったことで根本的な問題が解決することはない。

 

自分に素直であることで、

深く傷つき、そして悔しさを味わう。

けれど、そうして心は鍛えられていく。それが強さになる。

 

いつしか、大抵の罵詈雑言には心を揺らされなくなる。

それは感情の麻痺によってではなく、

強くなった心によって実現することが可能だ。

 

ならば、どうして他者からの否定の言葉を恐れる必要があるだろうか、

トレーニングの負荷は、限界に挑戦するところくらいがちょうどいい。

 

そこから逃げたって、何の問題もないが、

今、限界に挑戦して、

肯定的に鍛えておくことも、今後の未来に大きな意味をもたらすかもしれない。

 

いずれにせよ、自分で選んでいくことが必要だ。

そして、その選択は、どちらにしても正しい。

「誰が何と言おうと」である。

 

自由と勇気

自らの信念などが、社会や周囲の風潮と一致しないような時、自らの正しさを確信していたにせよ、妥協や遠慮を考えることがあるかもしれない。


そうした多くの場合、勇気という言葉によって、解決を見出すことができるだろう。


さて、君の人生はまず君のものであり、他の誰かと連携はしているにせよ、第一は君自身の信念によって前進をさせていくものであろう。


他者の思いに従うような場合は、必ず自らの意思となんらかの一致点がなければ、それは自由ではなく、強制の内に生きることである。


あえて不平等に甘んじることを、僕はまともな人間性だと考えることはできない。それは論理的に矛盾を孕んだ生き方であるし、心理的にも到底納得できるものではない。


全ての個々が、力を尽くして自らを全うする責務を持っている。それは文字通り、時には命を懸けて、自らを全うする覚悟を持つ必要を意味している。
そのことを根本的に意識しなければなるまい。


自身の信念と自由を遂行する覚悟を決めよう。
いかなる障害にも屈せず、時には命を懸けて前に進む勇気を振り絞らなければならないのだ。

 

さて、風潮如きがなんだというのだろうか。
鴻鵠や、焉んぞ大鳳の志を知らんや。

 

孤独と自由に、
最も必要な気質のひとつは、
勇気だ。

 

千万人と雖も吾往かん。

 

好きなことを仕事にしよう。何も諦める必要はどこにもない。

僕は、前に進むことも多いけれど、悩むことも多い。

そんな中で、確かな経験から確信していることがいくつかある。

でもきっと、これは理論の話ではないのだろう。

おそらく信念の話だ。

 

まず自分のために生きているか、それが一番最初に問いたいことだ。

自分の人生における自分にとっての幸福感は日々徐々に改善されているだろうか。

この問いに笑顔が出るならば、きっとその道は自分にとって正しいとしていいだろう。

 

次に、それが誰かのためになっているか、これが二番目の問いだ。

趣味と仕事の境界線をあえて引くとしたら、ここにあるだろう。

この問いに対して正直に頷けるならば、その行為は社会性を持っていると言える。

 

さて、一番目の問いと二番目の問いの両方をクリアできたならば、

どうしてその人は幸せでいられないことができようか。

 

きっと妬みはあるかもしれないが、

そんなものは、自らが夢中になって没頭していける行為の最中には、

なんの邪魔にもなりはしない。

 

邪魔ができない嫉妬心は、矛先を失った剣に等しい。

いたずらに刃物を振っていれば、

自らを切り裂いていくだけなのだから、

きっと彼らは次第に黙って剣をしまうだろう。

 

僕の信念としては、

自分のためにやっていることが誰かのためになるというのが、

理想的な生き方であると確信している。

この生き方においては、誰が不幸になるだろうか。

世の中の幸せは改善の方向にしか進みようがない。

 

好きなことを仕事にしよう。

なぜなら、それはまず自分のためであり、

その上で人のためになるから。

まず自分すら幸せにできないような人間が、

どうして他人を幸せにしようなどと思い上がることが許されるだろうか。

 

何も諦める必要などないのだ。

 

見えない恐怖心があって動けないならば、

大抵風邪をひいているか、睡眠不足が原因だから、生活を見直そう。

 

価値観は多様だということは百も承知だが、

その上で僕は、自分のこの信念を公言して、

人々にこの思いを共有して欲しいと願っている。

 

なぜなら、「みんなが幸せになれる」という

理想状態が実現することを想定するとすれば、

この信念を抜きにしてはどうしてもそれを語ることはできないからだ。

 

最後に奇妙な例え話をして、今回の記事をおわりにしようと思う。

 

君が、坂道を転がることを決めたならば、

君は、どんどん角が削れて丸くなっていく。

丸くなるほどに、進む速度は速くなっていく。

選ぶ坂道は一番急なものがいい。

 

ただし、坂道を登ろうとするならば、

君の進みは遅く、日々は苦しいものになるだろう。

君の角が、時に人を傷つけてしまうこともあるだろう。

 

坂道は下るものなのだろう。

なぜなら、その方が速く、

そして遠くに行けるから。

なぜなら、その方が君は丸くなるから。

 

たとえ、君の周りの人々が坂道を登ろうとしていたとしても、

君にはそれを圧倒的なスピードで下っていって欲しい。

そのスピードは、確かに最初は怖いかもしれないが、

次第に慣れていく。そうするとまだまだ速くなる。

自分でも自分を止めることなどできなくなる。

 

君は、ふと誰かにぶつかってみたくなるだろう。

まるでビリヤードの玉のように、

君の運動は誰かに伝わっていく。

 

僕には、こうした一連の流れは、

とても自然なもののように思えるのだ。

 

おわり。