多変量(超多次元)から成る、ひとつの現象に対して、
我々は、大抵、3次元的か4次元的に、
そこからわずかな変数を抜き出して、
視覚化したり、情報化して、観察や解釈をしているに過ぎない。
与えられた料理の全体像を見ることは叶わず、
鼻や耳も塞がれ、その料理を、
塩味や辛味や酸味といった情報のみで認識しているようなものだ。
ちょうどいいバランスの箇所を口にできれば、幸せを感じ、
少し辛すぎる場所、
例えば唐辛子がそのまま口に運ばれれば、苦しみや痛みを感じる。
しかし、そうした唐辛子は、その料理にとって、大抵、重要な要素だ。
こうした、部分的な認識を、何度も何度も繰り返す。
同じ料理の違う部分を何度も何度も食べ続ける。
我々の知性が十分に客観性を有していれば、
一回一回の情報を統合して、抽象的な認識に至ることもできる。
情報の平均化によって、平均値が求まる。
ならば、分散も得られよう。
群盲が象を撫でている。
意見が対立ではなく調和を志向するならば、象が浮かび上がることもあるだろう。
禍福は糾える縄の如し、とは、
未だ、自らの視点のみから禍福に反応し続ける、
群盲評議会が続いている姿をあらわしているようにも思える。
平均化、分布化、抽象化された禍福は、
一体どのような縄で、我々に何を伝えようとしているのだろうか。
おそらく、一本の縄は、一冊の本に似ている。
全体像を持って、何かを読み解くことができるようになっている。
ある縄は、糸がより集まってできている。それは現象の糸だ。
現象の糸に、主観的な部分的解釈を施せば、禍福のラベルが貼られる。
そして、縄同士も、また別の大きな縄へと、
より集まっていると考えるのは自然だ。
私は物理学には疎いが、
世界がヒモ(弦)で構成されているという説を、表面的に聞いたことがある。
おそらく全く違うヒモ(紐)、視点からではあるものの、
何か重なりを感じるようにも思う。
解釈が一意に定まることを願う人々もいるかも知れないが、
私は、縄が永遠とより集まり続け、
つまり、より抽象的な解釈が導き出され続ける世界を想像してやまない。
そして、祝福を。