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精節録 —オナ禁で得た知見—

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。

牢屋のベットの上で。

牢屋で生まれた男は言った。
「この世界は甘くない。現実は厳しい」と。

新しく入ってきた囚人の一人はこの言葉を聞いて驚いた。

この監獄にはいくらでも抜け道があり、ここから出ようと思えば、少し穴を掘るだけでよかったからだ。
どうやら監視人は多忙で、誰かが脱獄しても気がつかないようだし、ちょっとした苦労で出られることはすぐに分かったのだ。

しかし、この新参者はふとした好奇心から、
少しの間、脱獄を後回しにして、
厳しいと言われている監獄というものを散策してみることに決めた。

まず、すぐに気がついたこととして、多くの囚人たちが同じ生活で、定められた起床時間に応じて起床し、それに合わせて睡眠をとっているようだった。

彼らには、好きな時に好きなように寝ることは許されていない。多くの囚人は、眠気に不満を漏らしながら、大抵いつも眠そうに日々の作業をこなしている。けれど、不思議なことに、そんな環境を本当に嫌って、脱獄を試みる人は少ないようだ。


仲間内で脱獄の話をしようものなら、人々はそこに妙な嫌悪感や恐怖感を示す様子が見て取れた。
時に、他の監獄から移動してきた人がいると、向こうの監獄はどんな様子だったとか、こちらと比較してどっちが住みやすいかなど、和気藹々と話している。
彼らには、監獄以外にも世界があるという認識がどうやら薄く、そんな世界の話をしようとすれば、まるでそれらはファンタジーのことだと思っているくらいだった。

次に分かったことは、この牢屋の中には社会階層があって、大別すると使用者と被使用者がいるということだ。細かく見ていくと、奴隷の下に奴隷がいて、その下にまた奴隷がいる、というような形で、生活の快適さの違いを無視すれば、みんな奴隷のようなものだった。

散策に飽きてきた頃、彼はそろそろここを出ようと思い立ち、脱獄計画を進めることにした。といっても、穴を掘りすすめるだけの単純なことだ。

監視人が目を離している隙に、穴を掘り進めていると
近くの囚人がそれに気がついて走って近づいてきた。
どうやらすごい剣幕だ。
「危ないから、そんなことするのはやめておけ。」
顔には恐怖と不安、そして一抹の羨望感が見えた。

穴を掘る手を止めることなく、彼は答えた。
「大丈夫ですよ。仮に中にいようとも、外にいようとも、いつかは死ぬだけの未来ですから。仮に内側に不満があるとすれば、僕は外に出て不満のない人生を自分で創ります。」

彼の脱獄が現実のものに近づくにつれて、周囲の眼差しは色々な意味で強くなっていった。拒絶感からなのか、邪魔する者もいて、時には穴を埋められたりしたが、彼は黙々と日々脱獄の達成に近づいていった。

ふと、彼は思い出した。
この監獄に入り立ての時に看守から聞いた言葉。
「決められたことの中で、決められた『自由』を満喫する。それがこの世界の人生の全てだ。」
周りの人々の多くはその言葉に頷き、なぜか納得していた。

決められた『自由』?
それはまさに不自由というのだ。
自由とは、自らの決定であり、自己規律そのものである。
規律の有無さえも自己の判断の元に置くからこそ自由なのだ。
それは、自分が納得できないものには従わないということだ。

ふと穴の先から光が差し込んできて気がついた。
「、、、監獄から出ようが出まいが、僕は自由じゃないか。」
問題は、環境にあるのではなく、自分自身の考え方にあることが、
そこで、はっきりと見えたのだ。

監獄にいようとも、脱出がいつでも可能な状況であるなら、
何も問題ではない。嫌だったら出ればいいからだ。


なるほど。

何人かの平和そうな囚人たちや魅力的だった人々の存在を思い出して、よくよく考えてみた。
「もしかすると、ここの世界にはもっと面白いことがあるかもしれない。」

その夜、彼は、自分の牢屋のベットの上で満足そうに眠っていた。

 

 

 

 

 

 

 

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夢はポケットの中に

さて、性欲と向き合うためにはどんな方法があるだろうか。

ひとつに、性的な欲望のレベルを下げていくということがある。
例えば、僕の場合、食事に対する欲望のレベルというものは、生活が他のことで満たされていくことでどんどん下がっていった。睡眠に対する欲望のレベルも同様で、何かに集中できているときは眠くなりはしない。つまり、「それ」以外の何かによって生活を満たしていくことで「それ」に対する欲望はその領域を狭めていく。欲望のレベルは相対的に下がるのだ。実際に胃袋に何も入っていなくとも、丸一日起きていようとも、何かに集中しているときは腹も減らないし眠くもならない。
話を飛躍させよう。

なぜ生きるのか、という問いに真剣に向き合うならば、なぜ食べるのか、なぜ寝るのか、ということの根本を求めることができる。この問いと向き合い、その解を求めたり、創り出していくことで生活が満たされていくならば、その他の欲望は静かにレベルを下げていくに違いない。おそらく、他者からの承認欲求などもそうなるだろう。世俗的な快楽の類は、生きる意味に満たされた生活の中においては、入り込む隙間などなくなっていかざるを得ない。
抽象的なイメージとして、心の中では常に領域の奪い合いが行われている。欲望はそれぞれ自我を持ち、それぞれが満たされようと他の領域を相対的に狭めていく。すると、生きていれば新しい欲望が次々にやってくるものだから、欲望の地図は、死ぬまでにどんどん大きくなっていく。そして、それに伴って残された時間はどんどん少なくなっていく。すると、人生は後半になるにつれて、短く感じていくのだろうということが予測できる。人生の焦燥感は、欲望の地図の大きさを残された時間で割ったものに等しいであろうから。
ならば、死ぬまでに向けて、どんどん自らの欲望の地図を小さくしてやっていくべきなのだ。それは欲望を諦めていくということではなく、相対的な領域の奪い合いをやめさせるということを意味する。本当に求めるべき欲望を絞り込んで生きていこうと決めれば、欲望たちは小さな地図の中に治まってくれるような気がする。すると、無益な領域の奪い合いは止まるだろう。それぞれが実現に向けて動き出したならば、その一歩一歩が達成感となり地図に印を刻んでいく。肥大していた欲望は、一歩の実現と同時に、主張をやめて現実的なサイズに縮小していく。

そうすれば、きっと人生はもっと豊かにできる。残された時間でも十分にその欲望のために進むことができるならば焦燥感を計算する必要もない。地図がポケットに入るサイズになったのなら、それは現実的な夢を手にしたことと同じだ。それは、空想的ではない自分の生きる意味を手に入れたことと同じだ。ならばこそ、一歩一歩を焦ることなく進み続けていくことができるのだ。

 

 

 

 

 

 

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自由なればこそ孤独。

虚構的な人生を振り切って、自由への道を一歩一歩と進んでいく覚悟を決めたとする。その道のりは大抵長く、そして何よりも孤独だ。

そこにある孤独というのは、精神的な孤独であり、誰にも理解されない旅が永遠と続くことを意味している。

もしも自由を幻想として、それを諦めて生きていくならば、そこには多くの仲間のような存在がいて、きっと共同体的な安心感を生む。その生活がどんなに矛盾したものであっても、その安心感はおそらく他にはない。

自由に踏み出していくことを決めた人間は、周囲から理解されないだろう。何故ならば、多くの人はそれを幻想としているのだから。彼らにはきっとそんな人間は、幽霊を探しに出かけた狂人にすら見えるのかもしれない。仮にどんなに親しい人間であっても、幽霊ハンターを真面目に応援するような人は少ないだろう。

それでも、君にはその「幽霊」が現実のものなのだと見えている。長い長い旅路の間、君はずっと幽霊ハンターとして周りから認識されているだろう。

理解されないだけならまだしも、見下されるのはプライドが許さないかもしれない。しかし、忍耐もこの旅の醍醐味なのだ。黙って進むしかない。幽霊の存在を証明するには、言葉では不可能だ。証明したいならば、君の旅の全てとそこにかけた命をもって示す以外に方法はない。そして、君の生きている間ではその願いはもしかすると叶わず、次世代へとその思いを繋いでいくことになるかもしれない。

「自由」に価値を感じ、それを実現したいと願うならば、孤独の辛さというものがその代償であるということをきちんと受け入れて、誰に理解してもらおうともせず、ただただ黙々と愚直に進んでいくのみだ。

確かに道中険しいが、生きる意味をそこに創り出したなら、歩む一歩一歩に確かな喜びが内在していることを感じるのだ。

 

もしかすると、どこかに同じ思いを抱えている方々がいるかもしれないと思って、こんな記事を書いていた。おわり。

 

 

 

 

 

 

 

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愚凡でもいいから。愚凡であるからこそ。

同じ歳月を過ごしているのに、同世代の人々の中でこうも能力や知性に差が生まれるのは非常に面白く、そしていつも現実の残酷さを表している。

どんなに人々が皆同じように生活を過ごしていようとも、諸々の条件における分布は広がる。異常値があり、平均があり、エリートが存在し、別の軸に生きる意味を見出す人もいる。

自らを測定する軸は、環境やタイミングによってその測定に用いる条件を変化させては、時には平均よりも上にいることに無駄に喜んだり、どうしたってエリートの範囲に入ることができないことを諦めては、その欲望と決着をつけようとしたりする。

「あの木の上の方についている果実は、全て酸っぱいブドウなのだから、この木にわざわざ登る意味はないのだ」と言うように自分の正当化を行なって生きていくこともあろう。

愚凡であることを諦められない時に、何か理由を探す。何が足りなかったのか、どうしたら遥か先に足を運んでいる人々に追いつけるのか考えてみようとする。客観的に考えれば、まるで、猿が魚を見て「どうしたらあんなに上手に泳げるようになるのだろうか」とでもいうようなことを考える。ヒレの存在を見つけて、無理やり自分の体にくっつけてみようとするが、それはとても不自然で、どうやったって魚のように泳げるようにはなれないことに薄々気がつき始める。

魚は猿に言う。

「何でそんな程度しか泳げねえんだ。俺は生まれからすぐに泳げるようになったし、呼吸するのと同じくらい泳ぐのなんて簡単なことなのに。君は何をそんなに必死になって溺れているんだい。君は木に登るのが得意なのだから、それをしていればいいじゃないか。悔しい思いもせずに済む。」

猿は答える。

「羨ましいんだ。泳ぐことに憧れている。君たちのように海の中で自在に動き回りたい。僕には泳ぐ才能は微塵もないけれど、こうして試行錯誤していれば、いつか君と同じくらいに海の中を自由に泳ぐことができるようになるかもしれない。それに何より、木に登ることよりも、こうやって考え詰めて、想像したことが実現していく過程がとても面白いんだ。」

それから、数千年が過ぎ去った。

あの猿は、その知恵を後世に引き継ぎ続けることにして、それはどうやら上手くいった。

今や、海の中には「潜水艦」と名付けられた大きな機体が深海をも自在に泳ぎまわっている。凶暴な鮫にも喰われることはない。そしてその技術は、誰にでも扱えるような類のものにまで発展し、ライセンスさえあれば誰であれ海を自在に泳ぐことができるようになった。猿の理想は、彼単独の憧れで終わることなく、あらゆる者たちの憧憬を満たすところまで、おそらく彼の予想を超えて実現した。

なぜだろうか。それは彼が泳ぐ才能に微塵も恵まれなかったからこそ、微塵も泳げないことを前提に技術が発展していったからだ。だから、あらゆる人々に応用可能となった。

何よりも、彼は「考えることが面白い」と言った。試行錯誤の中で上手くいかないことに悔しさを感じる以上に、それが面白く、そして好きなことだったのだ。似たような趣向を持つ者たちは、当然彼の意思を引き継いでいった。

愚凡であるからこそ、それを補うために応用度の高い技術を目指さざるを得なかった。そしてその結果として、呼吸をするように泳いでいた魚を驚かすほどの技術となった。

もはや、彼らは生きていないから、まさかここまでになっているとは思ってもいないだろう。それこそが時間というものなのだ。少しずつ積み重なったものが組み合わさると、複利によって資産が増大するように、技術の複合は驚くべき結果をもたらす。

こうなると競争原理は、必ずしも忌避するものではないことにも気がつく。それを無益な嫉妬感情に負けることなく、成長過程を楽しめるならば、自らに備わっている比較感情は、自らが愚凡であるからこそ、そこに大きな意味を持つことになる。

以上、作り話と、それについて考えたこと。おわり。

 

 

 

 

 

 

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広大な情報の海と、それぞれの質の話。

情報の質は、その情報の発信者たちの気質も含めた情報の性格といった部分に大きな影響をうけやすい。

料理の話について、政治の話を語るような仕方で記述されていることはほとんど見たことがない。動植物の情報が、難民の情報と同じような雰囲気で綴られることも少ない。
また、発信主体と受信主体の関係性によっても情報の質は変化する。相互が親しい関係にあれば、より情報の鮮度は高まる傾向にある。利害関係にも左右されやすい。不特定多数を相手にした発信は、プライベートな情報共有の仕方と完全に一緒ではない。
お金にまつわる情報は、顕著に発信主体の傾向を表しやすい。プログラミングについての情報は、精度や丁寧さの差はあれども、情報としての客観性を保ちやすい。客観性が高ければ応用可能性も高くなりやすい。一方、主観性が高ければ、共感や連帯感といった心理的なエネルギーを生み出しやすいのかもしれない。
たくさんの情報に触れていく中で、経験から、自然とその質に合わせたやり方でそれらを享受しているような気もするのだけれど、今一度一歩引いた視点から、情報を扱えるようになりたい。
今や、広告が謳う宣伝文句を真に受けて感心するほど、お人好しではなくなってしまったが、巷に溢れる広告っぽくない広告を見て、その意図をすぐさま見破れるほどの知性はない。
偏向した情報を真に受けて自分の心身を悩ますほど無駄な時間もないように思う。だから、偏向しやすい情報は、それが偏向しやすい性質を持っているのだという前提を忘れることなく扱いたい。

 

 

 

 

 

 

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様々な性質の情報がある以上、それぞれに応じた扱い方をひとつひとつ客観的に検証しては経験に変えて、試行錯誤することの必要性を感じている。
この広大な情報の海から逃げることなく、自分なりの泳ぎ方を身に付けていきたい。

欺瞞的な多様性

基本的に優れていると感じるものに対しては、それが「多様なものだ」という言い方をせずに、自らもそれに近づこうとして、自分の目指す先にそれらを置くということをする。
一方、優れていないと感じるものに対しては、それも一つのあり方なのかもしれないとして、多様性の一部というように言い換えを行う。

それを目指したいとは思わないが「自分にはいらない」ということを口には出さず、多様性の一部としてくくることで、人間関係において波風を立てないようにと、この言葉を用いているのかもしれない。

本来、多様であると認めているならば、そこには尊重があるはずだ。しかし、欺瞞的な多様性には尊重などない。そこにあるのは、自己論駁的な相対主義とか、自己保身に努めようとする肥大した自尊心だ。だから、そんな言葉の用い方を続けているうちに、誰かの足をひっぱるようになっていく。自分が頑張ることを放棄したままで、誰かを貶めたりして自らの自尊心を守ろうとするようになっていく。そんな自尊心には価値などないのになぜ守ろうとするのだろうか。
なるほど。「何も持っていない奴ほど、守ることに必死になる」という言葉を聞いたことがあるが、つまりそういうことなのだろう。

 

 

 

 

 

 

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寝ている恩恵

惰眠への罪悪感をいつのまにか持っていることに気がつくが、それが自らの可能性のいくつかを奪っているのではないかということを考えるようになった。

なんらかの作業中に、解決策の浮かばない課題を見つけて頭を悩ませることがあったとして、その解決は、寝る間際に目をつぶっているときや、起床する前の頭だけ覚めて目をつぶったままのときとかに、ふらふらと解決案が浮かんでくることで前に進むことが多い。

瞑想状態といえば聞こえはいいかもしれないが、実際のところそうした状態の自分を客観視すれば、惰眠というワードがぴったりであることがわかる。浮かんでくる「答え」のいくつかを寝ぼけた頭で整理しながら、根拠のない罪悪感で少しだけ追い立てられる。

周知のことかもしれないが、新しいアイデアや、未解決の課題は、一種の退屈さから生まれる場合が多いのかもしれない。何もしていることがない状態が続くと、脳の働きが活発になるのだろうか。おそらく、白紙に一文字を描くと、その文字に意識が集中するように、何もしていることがない状態では、一旦何も思考しない状態に「クリアー」されることで、意識を集中させるべき対象が明確になるから、その初期段階に近いほど思考がスムーズに行われるのだろうという仮説を持っている。

「いつまで寝てるんだ」という内省的な声が聞こえても、これからは無視するようにしたい。そして、その声を無視することに慣れるようにしていきたい。なぜなら、そうした目だけをつぶっているような状態こそが、自らの願いを前に進めていく重要な鍵の役割を果たしていることが経験からも明確に分かっているからだ。

無論、常識的ではない。しかしシンプルに考えれば、目を開けていて悩むよりも、目をつぶることで前に進むなら、僕は後者を選ぶ。それだけの話だ。

 

 

 

 

 

 

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