海揺録

自律とか、自由とかが、たぶんテーマです。以前は、精節録というブログ名でした。

不思議な愛おしさ。

ぼーっとしてみると分かりやすいが、焦りや苛立ちの感情が生じているときの心というものは、何かにとらわれていることに気がつく。

それは、実際、他人から見ればありがちなことであり、かつ、自分が感じているよりも本来はたいしたことのない悩みばかりであることが多い。

しかし、たとえば恋に落ちている者は言う。

「この身も心も悶えるような日々が続くようであれば、一体自分はどうなってしまうのだろうか。この状態は、はたして死ぬよりも辛いのではなかろうか。ああ、恋しい。」

それから、1ヶ月が経ち、1年が経ち、3年が経つ。

その者は言う。

「当時は、どうなってしまうのか悩んでいたが、あれから3年が経った今、特にどうにもなってなどいない。いや、恋の温度は変化するものだと頭ではわかっていたはずなのだが、どうやら、当時はそんなことが信じられなくなるほど、全身が焼けるような恋をしていたのだろう。ああ、熱狂の中では、知識や知性、論理や理性は、なんと無力になることであろうか。しかし、熱狂を後悔する気持ちは不思議なことに微塵もない。むしろ、あの辛かったはずの日々が懐かしく、恋しさすら感じるものだ。」

そして、この悲劇なのか喜劇なのか分からない日々は、何度でも繰り返されていく。

さて、死に際に、その者は再びこう呟く。

「ああ、情けない失敗ばかりであった。しかし、なぜだろうか、今も不思議なことにそれらを愛おしく感じている。思い出すと笑みがこぼれずにはいられない。できの悪い子ほど可愛いとは言うものだが、なるほど、自分自身のできの悪さも、今となっては全てがこんなにも大切に思えるとは知らなかった。恥をかいてくれた昔の自分に感謝せねばなるまい。ありがとう。」

 

 

 

 

 

 

 

問い合わせ・他の記事はこちらへ(『自律録 —依存と向き合う同志たちへ—』)

 

 

ちっぽけな生き物。

自分にとっての自分の存在は、いつだって実物以上に大きく感じてしまう。しかし、ふとした瞬間に、その小ささを実感しては、「ああ、こんなにもちっぽけな生き物。」と、いろんな認識が変わる。

悩んでいるようなことも、それと一緒にちっぽけなものなのだと実感することができる。それは、今かかえている悩みや苦労について、たいしたことなんてないのだと思い込もうとしたり、論理的にそれを片付けてみたり、実質的にはほとんど役に立たないようなこととは根本的に違っている。

成長欲求や向上心は、「上に上に」「大きく、もっと大きく」と、絶え間なく自分に働きかけているが、実際はこんなにも小さい。そうありたいという願いが、実物以上に自分の認識を錯覚させているのかもしれない。そうやって、自分がちっぽけな悪人だということから、目をそらしながら生きているような、そんな感じがする。

「大きなことを成したい」という自然な願いは、たいてい頭の中から出ることはない。たとえ、ちっぽけだとしても、この等身大の自分をめいいっぱいつかって、着実に叶えられる願いを、ひとつひとつ成し遂げていきたい。そして、その小さな誇りを、誰に誇るわけでもなく自分の中で大切に積み重ねていきたい。

たとえば、小さな部屋にいて、部屋から出れば広い世界があると想像してみる。そのとき、部屋というこの空間は、なんだかちっぽけに感じて、そこにいる自分が、とても情けなく感じるが、それは無茶苦茶な話だ。この小さな部屋をめいいっぱいつかえば、どれだけの可能性があるのか、見失っている。

情けなくとも、弱くとも、無能でも、それが現実だ。しかし、だからといって絶望することはない。どんなちっぽけな存在にも、希望はある。希望を叶えるチャンスは、常に与えられている。

どん底にいようとも、どん底にいるという事実を無視しないようにしたい。そこでまず、自分を活かすことを考えたい。

自分の小ささをどんなに強く感じても、だからこそ、毎日希望を持ちたい。そして、そのために、日々の改善を試みていきたい。

 

 

 

 

 

 

 問い合わせ・他の記事はこちらへ(『自律録 —依存と向き合う同志たちへ—』)

「相手の気持ちを考えろ」という困難を越えていくために。

自分とは異なる視点を相手が持っているかもしれないということが頭で分かっていたとしても、その相手の視点がどのようなものであるかまで分かることはほとんどあり得ない。

だから、自分の主張を伝えるときに、自分にとっては正しいとしても、相手にとっては正しくないかもしれないということを、常に意識しておく必要があるが、それは意外と難しい。なぜなら、相手には正しくないかもしれないという意味において、自らが間違っているかもしれないということを認めるのは、自分の主張の客観性を疑うことであり、まず他者を責める気持ちに考えが向きやすくなる。さもなくば、自己矛盾に苛まれることを避けられないからだ。

そして、そうした自己懐疑心や自分が誤っている可能性について検証を絶やさない姿勢というものを、対峙しているお互いが同時に持っているということが理想ではあるものの、その状況というのは、誤りの可能性を認めるという困難さが単純に二倍に増えるわけだから、より難しいことが分かる。

相手の気持ちを考えた上で、自らの思いを伝えていくということにおける実践的な難しさは、こうしたところに起因しているように思う。

しかし、だからといって、難しいからという理由で、たとえば話し合いにおいて何も判断せずにいるということもできない。

だからそこでは、正しいからという理由で行為を実行するという意味ではなく、誤っているかもしれないが、何かあったときの責任は自らが負うという理由で行為を実行するための強烈な実行力、つまり胆力が求められる。

そうなると、もはや小賢しい論理はむしろ邪魔者となり、また、自分の能力やクオリティーなどはあまり価値を持たなくなる。必要となるのは、その胆力と行為を遂行するにあたって、応援してくれる人々の存在だ。それこそが、上手く進むための確率をあげる力になる。

なぜなら、複数での決定事項というのは、当然独りで行うことではなくて、皆で行うことだからだ。皆で行うことであれば、皆が価値を見出さなければならない。自らは、行為自体に価値があると考えている一方で、他の人が、それを理解してくれないとすれば、それを理解してもらうための最大限の努力が必要になるし、あるいは、行為自体ではなく、自分自身に価値を見出してもらう努力が必要になる。

きっとそれは、長い道のりだが、長い道のりだからこそ、その過程の中に信頼というものが自然とついてくるような気がしている。

 

 

 

 

 

 

 

問い合わせ・他の記事はこちらへ(『自律録 —依存と向き合う同志たちへ—』)

「欲の長さ」と歩幅。

外的な競争。

まるで、市場で動き続ける価格のように、あっちへこっちへと変化していく。そのスピードは、競争が苛烈になればなるほどに加速していく。そのスピードについていけなかった者、あるいは、スピードについていくことにうんざりした者は、そこから抜けていく。振り回されているうちの日々は、それに応じてものすごいスピードを要求されるから、自分がとても速く走っているような錯覚に陥るが、実際の姿は、ただ首輪をつけられて、飼い主に振り回されているだけである。その足は地上から浮いている。だから、外的な競争からおりた途端にある事実と向き合うことになる。あんなに必死になっていたのにほとんど成長していないのだ。自分で走ってみようとすると、足の筋肉はむしろ衰えてしまっていたことに気がつく。

 

自然な成長。

まず、自らの足を起点として、日々を何かしらの改善にあてていく。一度に多くを欲することなく、叶えられる願いを叶えていく。欲深さのかわりに、持続的に可能な欲求を軸にしていく。つまり、「欲の長さ」を意識したい。

もし、欲深くなっているとするならば、今手の届かないことについて思いめぐらしているからだろう。だから、視点を取り戻す。自分の足下を見て、手の届く範囲を確かめる。つかみにいけるものをつかみにいっては、それを繰り返す。すると、気がつけば多くの力を得ていることに気がつく。背丈は伸び、歩幅は広がり、一日に成せる事柄は増えていく。歩むスピードは、たいして変化などしてはいない。無理をせず進んでいる。ときには立ち止まって考えることもある。ただ、自然な成長が、自身の歩幅を広げていくから、歩む距離はどんどん長くなっていた。

 

選択。

外的な競争は、いつも参加者を募っている。上手い言葉に誘われそうになる。

自然な成長は、不安定な自由でもあり、ある種の恐怖感がある。

目先の安心感を求めるならば、前者を選ぶだろう。

しかし、「欲の長さ」を意識するならば、後者を選ぶ。

 

競争力。

本質的な競争力は、競争のさなかに出来上がっていくということは稀だ。競争から離れて、実力を蓄えるから、強くなる。力のない者が戦いを挑み続けても死ぬだけだ。力をつけるまでは、潜伏し、鍛えなければならない。

 

歩幅。

歩みの速度は一定でも、歩幅が広がれば、進む距離は長くなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 問い合わせ・他の記事はこちらへ(『自律録 —依存と向き合う同志たちへ—』)

 

オナニーと免疫力

オナ禁という言葉が意味するところは多様で、単純にオナニーだけを禁止する人、あるいは、セックスまで禁止する人、射精だけを禁止する人、その意味は多岐にわたっている。

今の僕はというと、別段それらの行為を禁止しているわけではなくて、射精の間隔をただ単純に記録している。つまり、セックスとオナニーに違いを設けるわけでもなく、射精すれば同じようにカウントしてきた。

ただ、このブログのタイトルであるように、精節ということの重要性を考えているので、行為におよぶにあたっては、記録している日数の平均値を下まわらない間隔であるようにと心がけている。

しかし、その中で、射精の違いについて、段々と確信に変わってきた体感がひとつある。

 

免疫力。

当然目にはみえないのだけれど、その力について、はっきりと体感できる部分は強い。なぜだろうか。理由は分からないが、推測できる説はいくつかある。

その中で一つ、一番シンプルで、自分が気に入っている説について、書き残しておきたい。

 

笑顔。

これが免疫力を高めるということが、さまざまなところで検証されている。その理由も、色々なところで考えられているので、それについて、僕はあえて自分の薄っぺらい知識をここに書こうとは思わない。

さて、笑顔が免疫力と高めるということと、オナニーやセックスとの関連性は、すぐに想起できると思う。パートナーと行為を楽しんでいるときと、1人で行為を楽しんでいるときで、どちらがより長い時間、笑顔でいるだろうか。それはもちろん、人それぞれかもしれないが、相手に対しての好意が強ければ強いほど、充実したセックスと、充実したオナニーとの差は広がるように思う。

つまり、免疫力についてのこの考えの本質は、笑顔や心理的な心地よさに由来しているわけで、オナニーとセックスの違いが直接的にその要因や変数として機能しているわけではないのだが、もう少し深く考えてみると面白い。

 

オナニーを日々繰り返している男がいるとしよう。彼は、毎日毎日、ときには1日2回以上、行為に勤しんでいる。毎日繰り返すうちに、同じようなやりかたに飽きてくる。さまざまに試してみては、もっと刺激的なことをと、行為の内容は激しさを増していく。オナニーをはじめた最初の頃は、少しのエロと、少しの刺激で、楽しさを味わっていたが、今や、過激という言葉がぴったりな行為で、なんとかより強い快楽を得られないものかと必死になっている。しかし必死になって得たはずの快楽は一瞬で抜け落ちていく。しかし、それを得るためにはより長い時間を費やしていく。行為の中で彼が、まだ笑顔を見せる余裕があるとすれば、その一瞬だけだ。

セックスはどうだろうか。確かに、ひどく溺れれば、先の男と同じような状態に陥るということは間違いない。しかし、それはつまりオナニーのようなセックスということで、もしそこに相手への思いやりの一つでもあれば、お互いがお互いの救いに変わることは明白だ。ということは逆に、セックスのようなオナニーだってあるのかもしれない。だから、大切なことは、心の底から楽しめているかという点にあるのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

問い合わせ・他の記事はこちらへ(『自律録 —依存と向き合う同志たちへ—』)

自らとの向き合い方

さて、慌ただしさや焦りのうちから、ふと抜け出してみる時があって、自らと向き合うことを試みる。

従来の奇妙な方法として、「理想」という名の下で、達したい自己像を掲げて、そのいくつかの目標までの距離を計測して、距離が長いようなら、ひとまず区切りのいいところまで細分化してみて、そこまでの努力なり作業の量を考えてから、ご丁寧に計画をねって、「よし、明日から始めよう!」そんな感じのことが度々あった。

それが自分だけであるならまだしも、むしろこうした方法を善意的に奨励してくる人々は数えきれないほど周囲に居ることが分かった。

 

なぜだろうか。自らと向き合っていたはずが、その欲望を確かめているうちはよかったものの、そこから次第に離れて変なものをつくりだした。もはや、「理想」とは自分ではなくて「自分が目標とする他者」になった。

 

比較する意味を考えたい。彼との一致点を見つけては喜び、相違点を見つけては哀しみ、焦り、戸惑う。すると、今の自分も「現実」から離れていき、「理想化された他者を目指す自分」になった。彼との違いを掲げたリストは、自分の人生に生き甲斐をあたえたかのように最初のうちは思えていたが、気がつけば、再び自分を急かし、焦らせている。すると、「今、全然楽しくない。」そんな風になる。

 

「理想」を掲げてみた理由とは何だったのか。「理想」に近づく過程や達成したときに得たかった感情とはどんなイメージであっただろうか。少なくとも、退屈やつまらなさとは対極にあったことは間違いないのだ。なぜ、矛盾した現象が生じているのだろうか。

 

当然だ。今の自分から離れていては、今の自分は退屈になるに決まっているのだ。

簡単な例をあげるなら、例えば統計のデータなどがある。10年前にはぴったりと未来を予測してみせた統計値があるとしよう。また、その統計値を皆が信じているからという理由で誰も計算をし直すような人はいないとしよう。あの素晴らしい精度を誇っていた統計値は、5年後には的中率が半分以下となり、10年経った今では、役に立たなくなり、誰からも忘れ去られてしまった。

客観的に見れば、なぜ誰も計算し直さないのか疑問に思うのだ。現在のデータに照らして、最初の考案者が用いた式を使えば、現在の統計値が算出される。そうすれば、また精度を取り戻す。簡単なことだ。

 

さて、最初に述べた、「理想」を掲げるという「理想化実験」はどうだろうか。当初、一度立ち止まって、「理想」を掲げるために自分と向き合っていた自分が、はたしてそれからしばらくした今の自分とまったく同じだと言う人がどこにいるだろうか。けれど、今の自分の欲望と向き合うことを忘れて、昔の自分の欲望に執着している人がどれだけいるだろうか。

僕は、たびたびその状態に陥りそうになる。しかし、そんな時は感情が警告音を発してくれて、今やっていることが今の自分にとって不要になったという合図をくれる。それを無視したり、抑圧しない限り、再び自分と向き合うことができる。

ただ、執着が激しいときは、その感情を無視したり、抑圧したりするが、そうするほどに警告音は大きくなっていく。結局、楽しさや喜びのために歩きはじめた道のりは、ただ苦しくて嫌なものになっていくのだ。それでも執着するなら、その先は多くの人が経験するところかもしれない。あるいは、深刻になれば「病気」が待っているのだ。

日々、自分は変化していく。時間が経つならば、季節は変わる。成長するなら、考え方も欲望も、それに応じて変わるのだ。

大切に描き上げた地図の、その目的地に到達していなかったとしても、今は目的地に用が無くなったのであれば、小さく折り畳んで、ポッケにしまっておきたい。

またいつか、その目的地を思い出したときに、ポッケから取り出して、歩み始めればいいのだから。きっとそのときは、大きく世界は変わっていて、当時の道は使えなくなっているかもしれない。そしたらまた、地図を描き直すのだ。

常に最新の自分をもって、最新の欲望を確かめて、歩みを進めよう。欲望という言葉にあまりいい印象を持たないのであれば、「よいもの」と言い換えてしまったら分かりやすいかもしれない。「よいもの」の定義は、自分で行うのだ。そのときにヒントになるのが、直観であったり欲望であったりと、そういうことなのだ。

今手にしている一枚の地図にこだわることなく、昨日までの自分が描き残してくれた、ポッケにしまった地図を上手く使っていきたい。最終的には、そんなものに頼らずに、地図を描く暇を惜しむほど、今に楽しみを見出していきたいものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

問い合わせ・他の記事はこちらへ(『自律録 —依存と向き合う同志たちへ—』)

不屈の意欲を。

いつから、ゼロからつくることを恐れるようになったのか。

つくることはしても、誰かの前にさらすことを恐れるようになったのか。

誰かの前にさらしたことで、批判や否定をされることを恐れるようになったのか。

この恐怖は、生まれつきではないように思う。何度も何度も植え付けられては、記憶に刻み付けられて来た恐怖である気がする。

新しいことを始めるたびに、それが誰かに知られると必ず批判や否定の声がする。それは気のせいではなくて、間違いなく肉声でやってくる。なぜか分からないが、詮索者がやってくるのだ。きっと、悪気がないだろうことも分かる。もしかしたら、彼らは臆病な挑戦者の恐怖など感じたこともないのだろうから、仕方のないことなのかもしれない。あるいは、それを知っているとしても、嫉妬感情によるのだろうか。羨ましいという気持ちは僕も知っている。理解はできるが、共感はしたくない。感情を表現するにおいても、不要や無駄という場面はあるのだから、そんなときは、とにかく黙っていてほしいと思うのだ。

生きているのだから、創造力だけは、絶対に失いたくない。恐怖につぶされて、自らの創造力を失うくらいなら、恐怖とともに死ぬことを選ぶ。自分の道やレールは自分で敷くのが当たり前になっていって欲しいと思う。

「どうやってつくるのだろう」その疑問は、つくってみたら分かるのだから、つくるしかない。説明書?それも自分で書き上げるのだ。紙とインク?そこになければ、自らで代替物を探してくるのだ。どこにあるか分からない?だったら、記憶力を鍛え上げて、脳みそに地図を描き刻めばいい。どうやって鍛えたらいいのか?・・・もしこれ以上こんな質問が続くとしたら、僕は、もう沈黙するしかない。聞くよりも前に、教えられるよりも前に、僕らには「つくりあげる力」がある。

 

とある講演者が言っていたことを思い出す。それは学校で絵を描いていた少女の話だった。先生は少女に尋ねる。「何の絵を描いてるの?」少女は言った。「神様の絵を描いているの。」先生は言う。「神様なんて誰も見たことないから姿なんて分からないじゃない。」少女は答える。「もうすぐ分かるわ。」

 

 

恐怖に潰されてはならない理由がここにある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 問い合わせ・他の記事はこちらへ(『自律録 —依存と向き合う同志たちへ—』)