精節録 —オナ禁で得た知見—

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。

「まじめ」を諦める。

最近、自分の取り組みにおける試行錯誤に没頭するあまり、その他のことがどんどん疎かになっている。

ただ、それはもう諦めることにした。

やりたいことをやるのならば、それ以外のことは二の次にならざるを得ない。

結果として、自分の成したいと思い描いていたあらゆる事柄は、どんどん形になってきていて、それが非常に心強い自分の支えになっている。

有形の功徳とでもいうのだろうか。

たとえば、何も積み重ねることの無い毎日を過ごしていたこともあった。

そんなときは、「まじめ」に生きてはいるものの、なぜか退屈で、その退屈さを誤摩化すためにオナニーに興じていたこともある。そんなときのオナニーは、そんな背景もあってか、実のところすごく虚しいものだった。

虚しさにおそわれると、自分は一体何をしているんだろうかと、自己嫌悪に苛まれて、その鬱屈した感情が、一歩前に踏み出そうとする行動力を削いでいたということに、今になって気がつく。

「まじめ」に生きていると思っていたことは、実は全然中身なんてなくて、とても受け身で、言われたことを忠実にこなすという意味で「まじめ」だと思い込んでいただけだった。

そんな中身のない「まじめ」を失うことは、それしか取り柄のない生き方をしていたものだから、とても怖いものだった。いや、単純に怖いのではないかと思い込んでいて、実際に手放そうとしなかっただけかもしれない。

今考えれば、奇妙な罠の中に嵌っていたとしか思えない。

生きるということは、何かの奴隷であることとは真逆であろう。

奴隷であることに誇りを持つなど、どうしてできよう。

しかし以前の僕は、よりよい奴隷であることを目指していたのだ。

「真面目」という漢字は、真の面目と読める。

誰かから与えられた仮面をかぶったままの人間が、「真面目」であるはずがない。

自分の裸の姿をもって、恥をさらしながらも「真面目」に生き抜いていきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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