精節録 —オナ禁で得た知見—

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。

それでもオナ禁をする理由

前回の記事「オナニー肯定論」の続きを書こうと思ったけれど、そんなことよりも、それでもオナ禁を続ける理由について書く方が、大切なように思って、そうすることにした。

僕は、オナ禁に対して、してもしなくてもどちらだってよいのであろうという考えを持っている。この考え方はオナ禁のみならず、世の中で「したほうがいい」とされていることに対しても、興味が持てない場合は、そんなことまったく無視してしまうように、どうも成長してしまった。

むしろ、「そんなことして何の意味があるのか」と言われるようなことであっても、自らの興味や考えの中に内包できると思ったら、とりあえず手を出してみる。いろんなことに手を出しているから、身内であっても周りからは何をしているか分からないという認識をもたれることが多い。世界の認識が違えば、言葉は通じない場合もあって、理解してもらおうと弁舌を達者にすることは基本的に放棄した。話すことは苦手なのかもしれない。

オナ禁の話に戻る。僕が思うに、オナ禁の素晴らしさは、オナ禁から得られる効果そのものというよりかは、自分自身で自分自身がつくりあげた規則に基づいて自分自身を律していくという、「自由」の体現にあって、そうした「自律」の姿勢が、生活全般に波及していくという点に、いつも可能性を感じている。

あと、他のオナ禁の同志に怒られるかもしれないが、ネーミングが微妙にダサかったり、目標を決めて達成したからと言って公言することにあまり意味がないようなちょっとした恥ずかしさが潜んでいるのが、とても好きだ。

小さな子供が、親に隠れて、自分だけの小さな秘密基地をつくるような感覚と言ったら、この子供の純粋さをけがしてしまうようだけれど、まさに「内緒の喜び」という、誰とも比較し合うことのない、本質的な自分自身の喜びを享受することができて、しかも、これは、誰かを傷つけたり、誰から嫉妬されたりなど、おそらくされようもない楽しみなのだ。これほど素晴らしいこともない。

逆に言えば、オナニーもまったく同じ性質を持っている。しかし、それは自律的な自由ではなくて、どこか奔放な自由になる。僕は、それもまた好きなのだ。だから、ときにはそうした奔放さを実現できるように、規則を構築する。

自分自身で行動を規制しているならば、誰が何と言おうが、僕はそれをオナ禁と呼びたい。なぜなら、オナ禁の本質は、日数よりも、エロ禁よりも、自己における自制心の実現にこそ存していると、考えているからだ。

オナ禁の質問に、「エッヂングや汁遊びは、オナニーに含まれますか?エロ鑑賞は何分までならセーフですか?」などというものを見ることもあるが、僕はそれに対してはっきり言いたい。「自分で決めろ。それがオナ禁だ。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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