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精節録 —オナ禁で得た知見—

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。

「大変だよ」のまやかしと、覚悟のふるい落とし

僕の好みの問題として、リスクのあることが好きだから、そういう事柄に挑戦することがある。すると、周囲や関係者の方から、必ず言われる言葉がある。

「大変だよ。」「甘いよ。」

僕は割と、そう言われるたびに、今回こそはやっぱり大変なのだろうかとか、どこか考えが甘いのだろうかとか、考え込んでしまうこともあるのだけれど、いや、これまで、一度たりとも、そうしたことによって死んだ試しはなく(死んでいたらこの文章は書けていない)、周囲が醸し出す深刻さを真に受けたことに何となく滑稽さを感じることの方が多かった。

協力者の存在は嬉しい。しかし、助言だけを行うアドバイザーは、兼協力者でないとしたら、もしかしたら自分の足を引っ張る存在になってしまうんじゃないかという懐疑すら浮かぶほどに、現実や実際の自分の感覚と、アドバイスから受ける想像的な感覚の乖離は激しい。

当然のことだろう。僕は僕で、他人は他人だから。同じ人間はいないだろうし、仮にいたにせよ、その存在は独立していて、関係性を結ぶかどうかはまた別の話になる。つまり、それぞれがそれぞれの感覚を持っていて、そこは自らだけの感覚ということなのだ。

同じ人間である以上は、感覚の類似性は確かにあるだろうけれど、それについて考えれば考えるほどに泥沼に嵌まっていくことに気がつく。人間性は多様だから、何かを大変だと思う人もいれば、何とも思わない人もいて、喜びを感じる人、満ち足りている人もいる。結局、本当にやろうと決断しているのであれば、その実際の感覚は当然ながら、実際にやってみないと分からないのだ。

しかし、問題は決断するかしないか、そこでの迷いにあることは周知だろう。

決断してしまえば、他人の言葉を気にする程度は下がるが、その前であれば他者の言葉から心理的に不安定になってしまうこともある。

ならば、リスクを測定しよう。最悪どうなるだろうか。野垂れ死ぬだけである。それを受け入れられる可能性があるなら、決断することにためらう必要はない。生きることが全てではない。

「大変だよ」とか「甘いよ」とか、そういう言葉を受けて迷っているうちは、つまり死ぬ覚悟がまだできていないということなのかもしれない。ただ、それは当然のことだ。やってもいないことに対して、どうして不変的な決意ができるだろうか。自分の感情は一定ではないし、それを正確に予測することはできない。

だから、結局のところ、迷いながらであっても、するかしないか決断するしかない。僕はきっと、今回の挑戦(詳細は控える)に関しても、やる方を決断すると思う。なぜだろうか。おそらく、リスクや過酷さが好きだからだ。

 

 

 

 

 

 

 

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価値感覚

今、目の前の物事や事物に対して、自分がどのくらいの価値を感じているのかという判断は、感覚のままにそれを知ることができる。つまり、現在とか今という時点における価値感覚は、確かにそれを知ることができる。しかし、裏を返せば、現在から先の価値感覚については、予測することは可能であっても、それが真であるか証明することができない。そして、価値は継続するものだとという前提がどうしてもあるのだが、大抵の事柄は、一瞬先には価値を変えていることに気がつく。

小さな頃に手にした500円玉の重要さは、今手にしている500円玉と同じではない。空腹の時に、茶碗一杯のご飯を喜ぶことはできても、満腹の時に同じように喜ぶことはできない。同じ対象に対して、状況や時点の違いなどによって、価値感覚は常に変化している。

しかし、今目の前の価値感覚は事実であり、それ自体は不変なものであるということもまた事実である。そして一瞬先には多少の差はあれども変化している。

1円の重みは常に同じであり、これからもそうであると錯覚してしまうが、それも実際は変化している。

なぜか知らないが、変化するものにおいて、現時点では不変であるという事実から、それらがこれからも不変であるという前提を引き出して、価値を予測するということが行われる。けれども、実際は変化しているわけだから、そこに齟齬が生じる。これは、明らかに前提がおかしい。

同じ対象に対して抱く価値感覚が、この先どの程度の変化をするのかという判断は、経験や確率的な根拠づけによってある程度可能なように思うが、それは、対象への価値感覚が変化するのだという前提があってこそ可能なことである。もしも、この前提が不変さの継続という錯覚にあるのならば、常に現状は、当然ながら不合理で非論理的なものになる。

これは、現実がおかしいのではなく、自らの前提がおかしいのだ。

事物や事柄自体は仮に不変であったとしても、それに対する価値感覚は常に変動する可能性を有している。大事なものは移り変わる。それを悲しむのは価値感覚への錯覚だ。ただ、そうと文字の上では理解していたにせよ、価値感覚の移り変わりに喜怒哀楽を隠せないのは、何か意味があるようにも思う。

不合理さに意味はなくとも、不合理だと思い込むことには、何かの意味があるのかもしれない。それは精神的な保身という点だけでなく、もっと人間らしい情緒とでもいうべき点で、人生をより味わうためにあるようにも感じる。だから、間違っているとしても、あえてそれを無理に正す必要もなく、そのままでもいいのだ。いや、そのままであるからこそいいのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

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刺激と集中のトレードオフ

オナニーは気持ちがいい。まずその仮定をおく。

そして、ポルノは刺激が多い。それを自覚する。

興奮するということは自分が刺激に反応するということだ。

刺激に反応することにきちんと終わりがあるとすれば、それは人間に備わった非常にありがたい機能だと言っていい。無論、エクスタシーや飽き、そして満足などによって終わりは来る。もしも、刺激に対して永遠に満足することがないとしたら、オナニーに終わりはない。それはもしかすると気持ちがいいのかもしれないが、少し想像してみても割と恐怖を感じる。

刺激への反応の連続性は、少し観察してみると、集中状態と似ていることに気がつく。飯も食わず、眠気も忘れ、一つのことに没頭していく。一見すると、双方の区別は付きにくい。すると、オナニーに熱中するだけの「集中力」があるんだったら、それを別のことに向ければ、何かを成就させることも可能なのではないか、などと錯覚してしまうかもしれない。

しかし、刺激の連続的な追求は、集中力によって継続するものではなく、欲望によって継続するものである、という点できちんと区別しておかなければ、愚かな錯覚について見過ごしてしまうかもしれない。欲望による継続性は、満足によって終わりを迎える。集中力による継続性は、集中力が切れることで終わりを迎える。欲望と集中に関係性はあるかもしれないが、欲望は集中力がなくとも継続するのに対して、集中は集中力がなければ継続し得ない。簡単な違いだ。

欲望に身を委ねることを続けていると、満足の水準がどんどん引き上げられていくことになる。すると満足するまでの時間が引き伸ばされる、あるいは、必要とする刺激の量が増大する。より強い刺激に脳が慣れていくと、弱い刺激に対して、すぐに飽きや倦怠感を生じるようになる。すると、日常生活には、妄想やその類に比べて、基本的にそこまで強い刺激が溢れていることはないから(溢れていたら誰も妄想などせず現実に刺激を求めるだろう)、日常生活自体に欲望は満足を見出せなくなっていく。それは、満足の水準が引き上がるごとに強くなる。

常に倦怠感と共にあるような人間が、物事に集中することができるだろうか。物事への飽きやすさが、集中力を高めることはない。それは相反する関係にあると言っていい。

つまり、刺激の連続的な追及は、集中力を減少させていく傾向を持つ。簡単に言い換えるなら、例えばオナニーのやり過ぎは、日常への倦怠感や飽きっぽさにつながり、自らの集中力を減少させてしまうということが分かる。

さて、ならば全ての刺激の強い欲望は、そうした理由から忌避すべきだとする結論は正しいだろうか。私にはそうは思えない。日常が低刺激的なものだけで満たされ、それで自らが満ち足りるということは非常に好ましい生き方なのかもしれないが、世界は広い。刺激は多様で、仮に集中力を失ってでも、体験してみたい欲望だってあるものだ。生き方には多様性があるからこそ意味がある。刺激的なコンテンツを作りたい人々は、刺激的なコンテンツを享受したいとする人々の需要によって自らの創作を支えていく。なぜかAV業界やアダルト関連の仕事に非難的な意見を持つ人々は多いけれど、もし他人の生き方を侮蔑したりするとすれば、それと同時に自らの生き方の多様性を見失うことを承知しているのだろうか。自分の意見を持つことは、自律的な生き方をするための必須条件ではあるものの、他者を侮蔑する意見は、生き方の多様性を無視している。つまり、自らの生き方についての基盤を自らで破壊していることになる。

本題に戻ると、刺激は忌避することはない。リスクとリターンの関係のように、刺激と集中はトレードオフの関係にある。自らの指針に従って、リスクを定めリターンを得るように、自らの指針に従って刺激を得て、集中力を犠牲にすることがあっても何も間違いではない。逆に、集中力を保持するために、刺激を減らしていく努力を行うことだって同時に正しい。

重要なことは、自らの視点によって指針を定め、それに従って、そうしたトレードオフをコントロールすることであり、結果的に何かを失ったり何かを得たりすることは、あくまで指針に備わった確率的な現象であることを了承していればそれで事足りる。

 

 

 

 

 

 

 

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オナ禁の同志たちにぜひ観て欲しい動画。あまり意味はないけれど。

女の子が面白い、すごく共感できる。笑

(字幕は、再生してから動画の右下の吹き出し部分から選択可能)

 

心配するなら金をくれ

いつからか遠い先のこと見なくなっていった。

現状の改善にその日のすべてを費やしているうちに、日々それ自体が達成であり、その達成こそが、今日の全てであるとして認識するようになった。

だから未来には基本的に希望の方が多い。以前、心に住み着いていた鬱屈した不安の虫のような存在はどこかに忘れた。ときに、焦りの種が、嘘くさい不安を持ってくることがあるが、すっと寝てしまえば、そいつらは消えることを知った。

するとなぜだか、時として周囲の人々が、僕以上に僕の未来について心配をしてくるようなことになった。最初のうちは、ありがたいことの一つであるかのように思って、内心のうざったさを覆い隠していたが、徐々に、なぜ人のことに妙な心配をふっかけてくるものかと疑問に思うようになった。

最近では、「本当に心配するならその気持ちを金にしてくれよ」と心の中で考えるまでになって、それがいいのか悪いのかわからないが、「心配」という言葉に隠された他者の欺瞞に多少敏感になっているような気がする。

心の声。

「心配している?嘘をつけ。その薄汚れて錆びついた好奇心が、何かに取り組んでいる者の足を引っ張っているということを反省してみたらどうだ。」「その口から発される『心配』という言葉の中にあるいくつもの矛盾こそが、自己欺瞞を為していることの何よりもの証拠ではないか。しかし、そうやって君が自分に嘘をついているということを誰も責めはしない。その卑屈さを周囲に撒き散らすのだけは勘弁してくれ。」

こんな風に少し苛立ってみてから、落ち着いて考え直すとあることを思う。

「欺瞞的な心配」というものは誰かの邪魔をするか、何もしないかであって、この世において、何の意義もないことに気がつく。ならば、相手にする必要はない。それに何らかの形で応じることはない。愛情によってそれらを受け止めたり、感謝する心の余裕がないときは、無視をしたって全然構わないし、それが健全な精神を維持することになる。今まで通りに希望を持って、日々の達成を喜びとして生きていくだけだ。

 

 

 

 

 

 

 

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自分を自分で育てる

誰かから向けられた言葉に、もしも苛立ちを覚えることがあったならば、その時は自分で自分自身を評価することを怠ってはないないかどうか、日々を振り返ってみたい。

誰かからの評価について、全く自己への関与を許さないほどの自己評価を確立していこうという姿勢が、生活のどこかにないとすれば、まるで雲の上を歩いて行こうというのと同じであろう。仮に雲の上を進んでいけたとしても、地に足がついていなければ、常に下に落ちて行く恐怖がそこにはある。

そんな恐怖は、少なくとも僕には必要ない。必要ないものならば、それを自分から取り除くような対策を用意すれば良い。

簡単なところから始めていきたい。例えば、今日の睡眠は自分にとって十分摂れているか。今日の食事は自分にとって適切な量であるか。洗い物はきちんとやったか。掃除や洗濯をほったらかしにしてはいないか。今日の学びを得るために何か行ったか。学びを今日に活かせているか。何か運動はしたか。

それぞれに「○」でも「△」でも「×」でもいいから自分で自分を評価しておきたい。すると不思議なことに、他人と比較するような気持ちはどんどん薄れてくるものだ。人生が、社会との相対評価という正体の掴めないものから、自分自身との相対評価というはっきりとしたものによって、日々定義されていく。

誰かから馬鹿にされようとも、誰にも理解されなくとも、人を見下したり、人に嫉妬したり、そんなことに少しずつ感情を動かされないようになっていく。この恩恵はでかい。

自分で自分を、自律的な基準によって評価していく。そして、日々における改善や反省を明確に認識する。その中で、自らの基準を、自らにとっての重要性によって可変的に築き上げていく。その作業は「自分を自分で育てる」試みとでも言い換えることができよう。そうした育成に基づいて生きるならば、成長すればするほどに、どんどん自由が広がっていく。なぜなら、自らの基準を満たすということは「あるがままにあれる」とか「ありたいようにあれる」ということと同義であるから。

 

 

 

 

 

 

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植物への憧憬。

生物全体において、植物の賢さは比類がないもののように思う。

自らの栄養を全て循環の中で吸収し、そして全体へ貢献する。

人間がどれほど人工知能や機械化、自動化によって、その機能を拡張していったとしても、自然の大きさからすれば、なんとも小さな働きだろう。自然はもともと「自動」だ。

都市に住む人間が増え、畑を耕す人間は減った。生産の仕事から離れ、椅子に座り、誰かに指示を出し、誰かの働きを利用しながら、自らに富を集中させようとして、四苦八苦しているならば、植物をみならいたい。

そこに権力はない。自然な流れの中で、他の存在の力を利用する。利用される側に嫌々従う存在はいない。力の弱い植物たちは、何かを従えることができない。きっと力が強くなろうとも、そんなことはしないだろう。そんな無駄なことに労力を費やすことなく、目的を果たせることを知っているのだから。

彼らは遊ぶし、踊るし、寝る。合理性を持っているし、常に全体への貢献を果たしている。他の存在とつながり、からみあい、とけあう。成長の途中で、土壌の栄養を他の存在と奪い合うこともあるのかもしれない。その戦いは、とてもシンプルだ。生きようとするもの同士が、自らが生きるために戦う。もしかすると、なんらかの複雑さの上にそのシンプルさが見えるだけかもしれないが、僕は、植物たちの「ただ生きるために戦う」というその姿勢に憧憬する。なぜなら、目的観がフェアだからだ。

自分が死ぬ可能性を前提として、他者の命と戦い、自分が生きる可能性を見出そうとしている。安全地帯で自らの命を危険に晒すことなく他者の命を奪うようなことはしない。

人間は、リスクの多くを避けると同時に、本質的平等への公正さを失って行くように見える。リスクは避けるものではなくて、それを了承することで、別の道を見出せるように思う。「ただ生きる」ということが、とても難しく感じるのは、きっとリスクを避けてきた代償に他ならないのかもしれない。

 

 

 

 

 

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