精節録 —オナ禁で得た知見—

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。

何をしても批判がやってくる。何をしなくとも批判がやってくる。

ほとんど笑えてくるような話である。

何をしても必ず批判が待ち構えている。

特に表現活動を行うならば、どこからともなく批判がやってくる。

で、それにうんざりした結果、例えば、何もしないことを選択したとしよう。

恐ろしいことに、何もしないことに対しても批判を加えてくる者がどこからともなくやってくる。

なるほど、生きるということは、同時に批判されるということなのだろう。

いや、死んでからも批判され続ける者もいることを考えると、生きるということのみにこの話は留まらない。

では、いかにしても避けることのできないものであるならば、対処を考えればよい。

対処法はふたつ。無視するか、向き合うか。

感情的にも無視できるのであれば、無視することは非常に精神衛生上好ましいのかもしれない。しかし、感情的に無視できないことが多いから困ることになる。

では、無視できないならば、向き合うしかない。鋼のような心を持っているような人で、表現活動を行う人はおそらく少ないはずだ。好きでやっている一面、嫌になるほど繊細な部分があるから、何かを表現することでそれを吐き出して、心のバランスをとるようなことをしているようにも思う。

繊細な心で、感情に土足で踏み込んでくるような批判と向き合うことは、たいてい辛いものだろう。自分では無視しているつもりでも、目や耳に入ってくるそれらは、心を蝕んでいくこともある。

ただ、それは理不尽かもしれないが、存在の条件なのだ。

批判からの逃げ道はない。

ならばそれらを楽しもうとする方へ思考をシフトしていきたい。

そのためには、自我を自分から切り離しておきたい。

本来楽しくないことを楽しむにはどうすればよいか。

しかし、そんな術はどこにもないのだろうか。

もしも楽しむことができないとすれば、どうしたらようのであろうか。

批判による感情の落ち込みを避けること自体を諦めるしかない。

もはやそれを生きることに伴う当然のこととして受け容れることになる。

怖くて当たり前。嫌で当たり前。むかついて当たり前。

そうして経験が耐性をつくってくれる気がする。気のせいかもしれないが。

結局何一つ分からないが、この理不尽さを、自分からは発しないように心掛けるしか、自分にできることはないのかもしれない。

意欲を削いでくるような何かがやってくることを前提にして、意欲を高めておきたい。どんなに削がれようとも溢れ出てくるような意欲をつくっていきたい。意欲が無限大化できるならば、批判にまつわるほとんどの問題は解決するようにも思う。睡眠は、いつも意欲の大いなる源となっている。だから、一日の意欲に全ての問題を押し付けるような愚行は避けるように心掛けたい。もっとロングスパンで、物事を考えたい。きっとそれが大切なのだろう。

 

 

 

 

 

 

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「まじめ」を諦める。

最近、自分の取り組みにおける試行錯誤に没頭するあまり、その他のことがどんどん疎かになっている。

ただ、それはもう諦めることにした。

やりたいことをやるのならば、それ以外のことは二の次にならざるを得ない。

結果として、自分の成したいと思い描いていたあらゆる事柄は、どんどん形になってきていて、それが非常に心強い自分の支えになっている。

有形の功徳とでもいうのだろうか。

たとえば、何も積み重ねることの無い毎日を過ごしていたこともあった。

そんなときは、「まじめ」に生きてはいるものの、なぜか退屈で、その退屈さを誤摩化すためにオナニーに興じていたこともある。そんなときのオナニーは、そんな背景もあってか、実のところすごく虚しいものだった。

虚しさにおそわれると、自分は一体何をしているんだろうかと、自己嫌悪に苛まれて、その鬱屈した感情が、一歩前に踏み出そうとする行動力を削いでいたということに、今になって気がつく。

「まじめ」に生きていると思っていたことは、実は全然中身なんてなくて、とても受け身で、言われたことを忠実にこなすという意味で「まじめ」だと思い込んでいただけだった。

そんな中身のない「まじめ」を失うことは、それしか取り柄のない生き方をしていたものだから、とても怖いものだった。いや、単純に怖いのではないかと思い込んでいて、実際に手放そうとしなかっただけかもしれない。

今考えれば、奇妙な罠の中に嵌っていたとしか思えない。

生きるということは、何かの奴隷であることとは真逆であろう。

奴隷であることに誇りを持つなど、どうしてできよう。

しかし以前の僕は、よりよい奴隷であることを目指していたのだ。

「真面目」という漢字は、真の面目と読める。

誰かから与えられた仮面をかぶったままの人間が、「真面目」であるはずがない。

自分の裸の姿をもって、恥をさらしながらも「真面目」に生き抜いていきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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遊ぶように生きる。趣味が世界をつくる。

色々あるけれど、とにかく、遊ぶように生きられたらいいと思っている。

だって、本気で遊んでいるときの集中力に勝るような力は、ほとんどない。寝食を忘れるほど生きることを楽しめているような時間は、大抵そうした集中の中にある。自分の可能性を最大化したいと思うなら、これ以外に選択肢はないように思う。

それでも「言い訳」や「逃げ口上」に苛まれそうになってしまうが、「遊ぶように生きる」以上に自分に正直な生き方があるわけでもなく、妙な縛りを振りほどいては、集中のその中に没頭していく。

誰に何を言われようとも、誰かを故意に傷つけるようなことをしていないのならば、ただただ自分と自分の人生とを楽しんで笑って進み続けるだけだろう。

 

趣味が世界をつくっている。

それは、根本的には誰かとの比較に楽しみがあるわけではなくて、まさにそれ自体を楽しみとして、誰から何かを奪うわけでもなく、何の格差を生むわけでもない。

だから、競争や比較のために生きる人が減り、趣味のために生きる人が増えるほど、世界は善くなる。個人個人が、誰と比べるわけでもなく善くなるのならば、それだけで世界は改善される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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三種類の反応

自分は、計画や目的、あるいは目標、夢を持っている。

何かの拍子に、誰かとそれについて話すこともある。

たとえば、聞かれたり、話の流れであったり。

 

そんなとき、聞いてくれた後の反応が三種類あることに気がついた。

きっと、種類自体は、もっと沢山あるのだろうけど、僕が体験した中では、以下にあげる3つのパターンが顕著だった。

 

ひとつめ。

「理解できない」パターン。「理解できない」というところで話が終わればいいけれども、大抵は批判や非難に繋がる。最悪、人格否定まで進みかねないのが、このパターンの怖いところだ。基本的に、その相手が非常にリスク回避型だったり、あるいは、自信が過小だったりして、僕を責めることを通して、彼や彼女は彼や彼女自身を責めているんじゃないかというように感じる時があった。このパターンは、匿名性の高いインターネットにおいて最もポピュラーな気がする。

ふたつめ。

「面白そう」パターン。これは単純な会話になる。相手自身も何かしら自分の軸を持っていると、面白そうと思ってくれれば、興味を示してくれる。お互いにお互いを尊重し合えるので、変な風に歪んだ解釈が生じにくいのかもしれない。基本姿勢として、距離感をある程度保ち合うことで、お互いにお互いの短所を曇らせることができて、長所に目が向くようになるので、理想的な人間関係のひとつなのかもしれないと思う。

みっつめ。

「協力」パターン。興味を示した上で、自分の活動範囲との接点を見つけてくれて、そこに協力の可能性、あるいは相互に助け合える部分を模索して、提案をしてくれることがある。これは、ふたつめの「面白そう」パターンの延長なのかもしれないが、非常に有難いパターンなので、特筆したいと思った。なぜなら、チャレンジには、常にリスクがあって、リスクへの対応策として、その対処や処理の方法における多様性は無論多い方がいい。多様なリスク対応策があれば、多様な状況変化に対して、より堅固なチャレンジが継続できる可能性が高まる。そういう意味においても、もちろん心理的な心強さ的な意味においても、「協力者」の存在は本当に有難い。それもきっとお互いに助け合うことになるわけだから、その有難さは一方向的なものではなくて、双方向的になっていることが大半で、変な押し付けがましさや、妙な権力とか利権が絡み合うことも少ない。

 

以上。

正当な批判であれば、心の許容量を成長させていけば、受け容れられるようになって、自分自身の改善にしっかりと役立ってくれるので、これは有難いのだけれど、ただの非難(区別はいつも難しいけれど)は、正直、数日の間、心に引っかかりをつくってくる場合もあって、やっかいなことがある。

ただ、そんなときも、視点を変えてみて、「このくらいの心のダメージを悠々とやり過ごしていけるようになったらこの先もっと生きやすくなるな」と思い直せば、心の耐性がついていく自分の様子を喜ばしく思えるようになる。いつもそんな冷静になれるとは限らないけれど。

誰かからどんなに非難や否定をされたとしても(そこまでの否定を受けたことはないような気がするが)、自分の存在と願望について、自分自身がそれを否定することはできない。それは実際と矛盾してしまうのだから。

否定することができないのであれば、肯定するしかない。どんな困難な心理的状況に追い込まれたとしても、それを肯定し続けなければならない。つまり「そうしたらよい」という類いの話ではなくて、「そうせねばならない」という不可避な状態なのだ。

避けることができないのならば、進むしかあるまい。もし、避けきれなかった時は、つまり死ぬだけだ。自己を全うして死ねるならば、死は自己実現の副産物のようなものであると分かる。

やりたいことをやろうが、やりたいことをやらないでいようが、死は平等に訪れる。その選択について、自らで選び取る力が与えられているのだから、自分が望む方を常に選択していたい。すると、自分に軸ができる。軸があれば、誰かと協力し合うことができる。「共感」は生きている意味のひとつであるのだから、あえてそれを味わわないで生きている理由はどこにもない。

もっと、自分という存在が周囲ととけあいながら、いつか、境目を感じなくなるほどに、世界に自分を見出せたら、それはとても望ましい状態なんだろうと、思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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思っていること。

やりたいことのために生きて、

やりたいことのために死にたい。

それを遂げるためならば、

どんな苦しみでも耐え忍ぼうと思える。

もしも、やりたいと思わないことのために生きるなら、

僅かな苦しみでさえ、どうしてあえて耐え忍ぼうとする力が湧いてくるだろうか。

意味のない苦しみを味わうほど、惨めな生き方はないように思う。

しかし、苦しみに意味があるのならば、

立ち塞がっている壁が、いかなる艱難辛苦であろうとも、

それを乗り越える力は、自分の内側から湧いて出てくるものだ。

だから、やりたいことを続けていく途中、

どんな過酷な壁が待っていようとも、

僕は意味のある生き方をしたい。

つまり、自分に正直でありたい。

 

ただ、それだけのことが、以外と難しい。

日々の少しずつの成長が、それを可能にしていく。

自らの意欲や不安とか、批判の声を受け容れる器が

大きくなればなるほどに成長は加速する。

 

それさえ分かっていれば、

焦ることなく器の焼き上がりを待つことができる気がする。

 

創造力は、正直な心の中に湧いてくる。

だから、自分の自然な状態を、変な風にねじ曲げて

心をゆがめてしまわないようにしたい。

 

創造力が、生きる意味をつくり、

苦しみに意味を与える。

 

日々の行動力は、

そうして出来上がっていく意味が

感情を揺さぶるほどに強くなっていく。

 

「もっともっと」と求めるべきは、

贅沢や栄華や単純な快楽ではなくて、

生きる意味の深さや強さなのではないかと、

僕は本心から思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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それでもオナ禁をする理由

前回の記事「オナニー肯定論」の続きを書こうと思ったけれど、そんなことよりも、それでもオナ禁を続ける理由について書く方が、大切なように思って、そうすることにした。

僕は、オナ禁に対して、してもしなくてもどちらだってよいのであろうという考えを持っている。この考え方はオナ禁のみならず、世の中で「したほうがいい」とされていることに対しても、興味が持てない場合は、そんなことまったく無視してしまうように、どうも成長してしまった。

むしろ、「そんなことして何の意味があるのか」と言われるようなことであっても、自らの興味や考えの中に内包できると思ったら、とりあえず手を出してみる。いろんなことに手を出しているから、身内であっても周りからは何をしているか分からないという認識をもたれることが多い。世界の認識が違えば、言葉は通じない場合もあって、理解してもらおうと弁舌を達者にすることは基本的に放棄した。話すことは苦手なのかもしれない。

オナ禁の話に戻る。僕が思うに、オナ禁の素晴らしさは、オナ禁から得られる効果そのものというよりかは、自分自身で自分自身がつくりあげた規則に基づいて自分自身を律していくという、「自由」の体現にあって、そうした「自律」の姿勢が、生活全般に波及していくという点に、いつも可能性を感じている。

あと、他のオナ禁の同志に怒られるかもしれないが、ネーミングが微妙にダサかったり、目標を決めて達成したからと言って公言することにあまり意味がないようなちょっとした恥ずかしさが潜んでいるのが、とても好きだ。

小さな子供が、親に隠れて、自分だけの小さな秘密基地をつくるような感覚と言ったら、この子供の純粋さをけがしてしまうようだけれど、まさに「内緒の喜び」という、誰とも比較し合うことのない、本質的な自分自身の喜びを享受することができて、しかも、これは、誰かを傷つけたり、誰から嫉妬されたりなど、おそらくされようもない楽しみなのだ。これほど素晴らしいこともない。

逆に言えば、オナニーもまったく同じ性質を持っている。しかし、それは自律的な自由ではなくて、どこか奔放な自由になる。僕は、それもまた好きなのだ。だから、ときにはそうした奔放さを実現できるように、規則を構築する。

自分自身で行動を規制しているならば、誰が何と言おうが、僕はそれをオナ禁と呼びたい。なぜなら、オナ禁の本質は、日数よりも、エロ禁よりも、自己における自制心の実現にこそ存していると、考えているからだ。

オナ禁の質問に、「エッヂングや汁遊びは、オナニーに含まれますか?エロ鑑賞は何分までならセーフですか?」などというものを見ることもあるが、僕はそれに対してはっきり言いたい。「自分で決めろ。それがオナ禁だ。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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オナニー肯定論

適切でないオナニーにおいては、確かに害悪が多いということは周知の事実であるように思う。

さらに言うと、僕が述べようと思っている考え方は、おそらく多くの点で間違っているものと思う。

しかし、ある一点においては、多様な生き方や善が共存する現代で、皆が共通に認識しておくとよいであろう問題について、オナ禁という個人的視点のみでは考えることが難しいところを、多少なりとも考察できているのではないかと思って、あえてこのタイトルで文章を書いてみることにする。

オナニーは、自分自身の問題として扱うには、目に付く害悪の部分が非常に多い。例えば、過激なポルノがパートナーとの性生活に支障をきたす可能性については、それがゼロとは言い切れない以上、もしも最悪の場合を想定するのであれば、パートナーのことを考えて避けるべき事柄であるように思う。しかし、こうした問題は、経験を積み、パートナーとのコミュニュケーションが適切に為されていくならば、乗り越えていける話でもある。

思い出すと、今でも可笑しいのだが、僕は、当時処女だった彼女とセックスをしたとき、彼女が気持ちよさで喘いでいるのか、痛くて喘いでいるのか分からなかった。もちろん後日談で、痛くて喘いでいたことが分かって、酷く反省した。それまでにAVは何百本、サンプルを含めれば何千本と見ていたから、そのくらいは当然分かるものと思っていた。けれど、自分が実際には、喘ぎ声と悲鳴の区別すらできないような男であることを思い知って、セックスは「見ている」のと「実際にする」のとは大違いであることを、彼女の苦痛と悲劇を代償に学ぶことになった。

ただ、馬鹿みたいな体位を試してみたりしたときに、相手が「それはいや」とか「いたい」とか「やだ」とか言ってくれたお陰で(相手の微妙な反応からは分からないことが多いということが分かったので言ってくれるように頼んだ)、徐々に「何が良いのか」という基本的な部分が改善されていくと、性生活においてAVも役に立つようになることがあるという可能性を知るようになった。

エロに触れていく中で、古今東西におけるアイデアのすごさ、ジャンルの広さ、その底のなさが、他の分野の事柄にまったく引けを取らないものがあることに気がつくし、更新のスピードも速い。それらを鑑賞するとき、僕ら男は、基本的に情を差し挟む余地なく、好みでないものを切り捨てていく。顔がタイプでなければ、30秒もたたないうちに別を探す。

そうしているうちに、自分が興奮するジャンルを見つけ出していくことになる。数年も立てば、自分がスク水に興奮するのかしないのか、二次元を受け入れるのか受け入れないのか、むしろ二次元しか受け入れないのか、胸の大きさの好みはどれか、ギャルは好きか嫌いか、など、無意識にも選別作業の中で自分を見つけていくことになる。

その興味の幅が、きっと後々のセックスのまんねり、ひいては、関係性全般のまんねりの打開策になったりもする。

いや、きっとそれは他の分野にも共通することだから、もしもパートナーと自分が似たような趣味をもっているならば、そこの幅や深みを増していくことで、いい結果がもたらされるに違いない。けれど、男なら理解してくれる人が多いが、女性のショッピングに6時間も付き合うようなことがあるとすれば、それは楽しみではなく、ほとんどが忍耐になる。きっと女の子も、男たちが血眼になって好みのAVを探索することに時間を費やすことに、ほとんど共感できないはずだし、嫌悪感を抱くこともあるだろう。

つまり、本当に理解し合える個人的感心を共有できるならば、それは非常に有難いことだが、希少性は高いように思う。その希少なものである、共有しうる個人的感心の中にセックスが含まれているならば、もしも2人で探求しないとすれば、それは非常にもったいないことであるように思うのだ。

例えば、ここにコスプレ好きの男がいて、彼女がコスプレをするのが好きだった場合、お互いに恥ずかしがって、打診し合わないとしたら、もっと2人で楽しめた可能性を、どれだけの夜あるいは朝に、見過ごしていることになるだろうか。

さらにいえば、男の側がもしも、自分がコスプレプレイが極度に好きであるということを知らないままでいたとすれば、それは自分自身の探求を怠ったことによる損失にすら見える。けれど、この辺りからは、個人的な自由の問題に関わっているのであまり他人が首を突っ込むものでもない。押し付けがましい意見は止めておく。

色々、話が脱線してしまって、本題に入る前に長文になってしまったので、序文だけれども、一旦この辺で区切ることにしたい。

続きを書く気になれば、また次回にでも書いていきたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

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