精節録 —オナ禁で得た知見—

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。

他責の理由。欺瞞。

暴力。

目に見える暴行や、耳に聞こえる暴言は分かりやすい。

しかし、表立って分かりにくい暴力は、より悲惨な結果をもたらすことがある。

 

殴られた痣や、切り傷は、少しずつ改善に向かうとしても、否定された人格は、死ぬまでに取り戻せるかどうか誰も分からない。ならば、人格否定と闘う術を持たないということは、非常に危険だ。どんな人間と出会うか分からない社会で生きていて、その危険にさらされているということは、どんな生物と遭遇するか分からないジャングルの中を裸で歩いていることに近い。

 

道の選択がまず二つある。リスクを取ってジャングルを進むと決めるか、それとも、他を避けて孤独を愛すると決めるか。どちらも、悪くはないだろう。

 

ただし、ジャングルを進むと決めたならば、リスクを最小限に抑える術を考えることが大切だし、孤独を愛すると決めたならば、寂しさとどのように向き合うかを考えることが大切だろう。あるいは、どちらの道も試みるとすれば、この両方について思慮深くなる必要がある。

 

ジャングルでは、いたずらに他の生物を攻撃しない方が、自らの危険を減らすことができる。その生物の背後には、より強大な猛獣がいるかもしれないし、あるいは、小さな寄生虫が何かの折に、こちらに寄生してこないとも限らないからだ。

けれど、生きるためには、食べる必要がある。だから、必要な分だけ食べる。なるべく他の生物に刺激を与えないようにして、食事を済ませる。それが理にかなっている。

 

人間社会では、いたずらに他者を攻撃している光景がいたるところにある。年齢、役職、立場、そうした何らかの肩書きによって自らが相手よりも優れている、あるいは上であると勘違いした者が、相手を必要以上に攻撃することは稀ではない。または、まったく同じ人間だと無意識に知っているからこそ、自分の優位性を確立しようとして、他者を貶めては傷つけている者も少なくない。そこに大義名分をつくる自己欺瞞者もいる。さらには、群衆がその大義名分に巻き込まれ、被害者は四面楚歌となるかもしれない。

また、一番怖いことが、自らがそうなるかもしれない、そうなっているかもしれないという危険の可能性を避けていられるのかどうかすら怪しいということだ。

 

結局、客観的な優劣関係など存在しない、あるいは存在するにせよ、それが他者を害していい理由には全くならないのに、他者を傷付けている光景は、不合理にもほどがある。自らになんらの優位性を保証するわけでもなく、ただ、標的とされた誰かが悲しむという事実が生まれるだけなのだ。

 

だから、誰かが悲しんでいたら、誰かを悲しませたとしたら、その状態を肯定する意見の浮上に対しては、最大級の懐疑を用いて、欺瞞の用心をまず考えたい。

「彼に非があったのだ。」「これは彼女のためだ。」「彼らにも非があったのだ。」「私の言葉は間違ってなどいない。」「正論を述べたまでだ。」などなど。

そうではないのだ。そんなことは何も一番に大切なことではない。正誤の問題ではなく、不必要や無駄の問題なのだ。本当にその他責が必要であるのか、必要であったのか、もっと思慮深くあらねばなるまい。

 

誰かを傷つけたり、悲しませたり、人格を否定したりしてまで主張する意見や行動に、僕は微塵も価値を感じない。仮にそこに価値があるとしても、ならば、より希求すべき価値について考えるべきだ。反省と自戒をこめて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 
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