海揺録

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。精節録というブログ名でした。

恋慕

小さな子供がハンバーグを食べている。

大好物のようだ。

半分近く食べたところで、

その子は手を滑らせて残りのハンバーグをふいにしてしまった。

 

泣き声が聞こえる。

 

それまでの笑顔を全て打ち消して、その符号を変換するかのように、

悲しみがその子を襲うのだろう。

 

「食べたかった」という想念。

 

 

一人の青年が、好意を寄せている女性と仲良く話をしている。

二人の交際が順調に進んでいくかと思われた途端、

関係が壊れてしまった。

半身を削られたかのような苦しみの上に、孤独が襲う。

 

「もっと一緒に居たかった」という恋慕。

 

 

「これからはハンバーグを落とさないように気をつけよう。」

そんな風に冷静でいられるとすれば、

きっとそんなにハンバーグのことは好きじゃない。

 

代替の効かない存在に巡り合ったことがなければ、

「学び」という言い訳を続けながら、

失敗を繰り返すことを正当化できる。

 

どれだけこの先、

そうして「学び」を重ねて知性が先鋭化されていったとしても、

あるいは深遠な思考にたどり着いたとしても、

「覆水」を盆に返すことはできない。

 

自分の最愛の子供を交通事故で失った両親から、

「またつくりなおせばいい」などという言葉が聞けるとしたら、

この世に愛など存在しないだろう。

 

 

リセットできないゲームをあたかもリセットできるかのように、

欺瞞的に生き続けた先には、

機械的な「報酬」の蓄積こそあれども、

おそらく「愛」を感じることを完全に犠牲にするだろう。

 

 

恋慕に反省はない。勉強もなければ、成長もない。

そこには深い愛があるだけだ。

だから、それと同じだけの絶望も常に横たわっている。

 

「これから」などどこにもないのだ。

 

事実は、その絶望の深さを直視できるほどに、

今もまだ愛し続けているかどうか。それだけだ。

 

絶望から目をそらした恋慕は、剥製のようなものだ。

どれだけ美しかろうとも、もはやそこに命はない。