小さな子供がハンバーグを食べている。
大好物のようだ。
半分近く食べたところで、
その子は手を滑らせて残りのハンバーグをふいにしてしまった。
泣き声が聞こえる。
それまでの笑顔を全て打ち消して、その符号を変換するかのように、
悲しみがその子を襲うのだろう。
「食べたかった」という想念。
一人の青年が、好意を寄せている女性と仲良く話をしている。
二人の交際が順調に進んでいくかと思われた途端、
関係が壊れてしまった。
半身を削られたかのような苦しみの上に、孤独が襲う。
「もっと一緒に居たかった」という恋慕。
「これからはハンバーグを落とさないように気をつけよう。」
そんな風に冷静でいられるとすれば、
きっとそんなにハンバーグのことは好きじゃない。
代替の効かない存在に巡り合ったことがなければ、
「学び」という言い訳を続けながら、
失敗を繰り返すことを正当化できる。
どれだけこの先、
そうして「学び」を重ねて知性が先鋭化されていったとしても、
あるいは深遠な思考にたどり着いたとしても、
「覆水」を盆に返すことはできない。
自分の最愛の子供を交通事故で失った両親から、
「またつくりなおせばいい」などという言葉が聞けるとしたら、
この世に愛など存在しないだろう。
リセットできないゲームをあたかもリセットできるかのように、
欺瞞的に生き続けた先には、
機械的な「報酬」の蓄積こそあれども、
おそらく「愛」を感じることを完全に犠牲にするだろう。
恋慕に反省はない。勉強もなければ、成長もない。
そこには深い愛があるだけだ。
だから、それと同じだけの絶望も常に横たわっている。
「これから」などどこにもないのだ。
事実は、その絶望の深さを直視できるほどに、
今もまだ愛し続けているかどうか。それだけだ。
絶望から目をそらした恋慕は、剥製のようなものだ。
どれだけ美しかろうとも、もはやそこに命はない。