自分の普通が他人と異なっていようとも、
自分にとって自分は常に普通なのだ。
ふと考えてみる。「違い」について。
誰かと「違う」ということ。
とりわけ「考え方」
そしてその表出である「言動」
基本的に人々に備わっている趣向性から辿っていくと、
なるほど。彼にも、彼女にも一理あることは自明だ。
しかし、さらに自明なことには、
自分自身にとってのそれらは、
鮮明に未来を描いている。
二次元、平面で考えられそうだ。
横軸は時間。縦軸は何だろうか「善」とでも定義しておこう。
全ての線形は予測的に正の傾きを指向しているようだ。
勾配が緩やかなものもあれば、急なものもある。
予測が途中で終わっているものもあれば、永遠に続くかのようなものもある。
さて、タイムスケールを大きく、さらに大きくしていこう。
1年、3年、10年、50年、100年、1000年、万年・・・。
ほとんどの線形は、自らの寿命の中に収まっているようだが、
どうも、死後もなお、生き続ける向上線がある。
ところどころに、曲線を描いて急速に伸び上がっていくものもある。
考え方が「関数」だとするならば、
その出力は「言動」であろう。
日々、最適化を繰り返していく「関数」は、
果たして、未来にどんな線を描くのだろうか。
1つだけの考え方に縛られることはもったいないだろう。
いくつもの思考の箱を持っておくのが楽しい。
合理性の箱。感情性の箱。直観性の箱。
箱の中にもさらに箱を。
確率の箱。喜怒哀楽の箱。験担ぎの箱。
すると、自分自身のそれらが、
社会のそれらとフラクタルに重なるようにも見えてくる。
どうも「与える側」であろうとすることは、
長期的な視点からすると、様々な局面で自らを生かすようだとわかる。
利己的な行動と付随的利他性が、社会と共に自らを生かす。
大きく生きるとは?
自らを損なうことなく、
この付随的利他性が悠久と未来に続いていくことだと、
そんな風にも思う。