海揺録

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。精節録というブログ名でした。

意味もなく哀しめる。

その主体が欲している状況に対して、

要因が設えられているのであって、

 


その状況自体は、

基本的に要因の有無に関わらず

発生していたものだと言っていいことが多い。

 


必然は、それゆえに必然であり、

そうしたとき、要因というものは、

その必然を我々が受け入れるための

材料に過ぎないのだろう。

 


納得を必要とせず、

ただそれを受け入れることをするならば、

もはや、理由も、理由探しもいらない。

 


あるのは、自由とそこに流れる時間。

 


喜怒哀楽のために

理由を欲する愚行をやめるなら、

それらは感情のままに自分に降り注げる。

 


理性は事前的に機能させるのが本質であって、

当時性はそもそも門外漢であろう。

 


「ああ、眠い。」

 


それだけでよかったのだ。

 


社会を覆う連環の計から、

その鎖を断ち切って大海原へ行こう。

 


天と人を分つのは「人の期待」で、

それは不自然な欲望の言い換えだ。

 


感情が天気と異なるとき、

それを反省して、あらゆる期待を一掃するのだ。

 


心がけが自然であれば、

次第に感情と天気は一体に回帰していく。

 

 

 

雨の日は湿気がかった気分が似合う。