その主体が欲している状況に対して、
要因が設えられているのであって、
その状況自体は、
基本的に要因の有無に関わらず
発生していたものだと言っていいことが多い。
必然は、それゆえに必然であり、
そうしたとき、要因というものは、
その必然を我々が受け入れるための
材料に過ぎないのだろう。
納得を必要とせず、
ただそれを受け入れることをするならば、
もはや、理由も、理由探しもいらない。
あるのは、自由とそこに流れる時間。
喜怒哀楽のために
理由を欲する愚行をやめるなら、
それらは感情のままに自分に降り注げる。
理性は事前的に機能させるのが本質であって、
当時性はそもそも門外漢であろう。
「ああ、眠い。」
それだけでよかったのだ。
社会を覆う連環の計から、
その鎖を断ち切って大海原へ行こう。
天と人を分つのは「人の期待」で、
それは不自然な欲望の言い換えだ。
感情が天気と異なるとき、
それを反省して、あらゆる期待を一掃するのだ。
心がけが自然であれば、
次第に感情と天気は一体に回帰していく。
雨の日は湿気がかった気分が似合う。