我々は、類型化によって対象を認識することがある。
類型化とは、単純な分類と、
そして、次のフェーズとして、比較が試みられることが多い。
さらには、数値や指標的な比較にとどまらず、
そこに価値観が加わると、優劣判定が生じる。
「ある価値観における判断では、この分類のAとBではAの方が数値が大きいため、優れている」といった具合にだ。
具体的にしてみよう。
「生殖能力の高さが人間の価値を決めるという価値観においては、異性との交流が多い人々と、そうでない人々を比較した際、前者の方が、人間的に価値が高い可能性が高い」
そんな風な発言が生まれる。
まず個別的な価値観には多くの誤謬が含まれる。
その後の比較についても、正確な統計値といった論拠が薄い。
すると、そこからの帰結がそこまで考慮するにあたらないことは明白だ。
問題は、省略にある。
「経験人数が多いので、あの人はすごいのだろう」
「異性の友達が多いので、あの人は魅力的なのだろう」
裏にある価値観が省略された価値判断は、人々を迷宮へと誘う。
他者評価というものが、
ある種生活の軸になりがちな非使役的で労働的な立場にある状況にあたっては、
それが顕著になっても仕方がないのかもしれない。
他者評価というものは、
明瞭化されていない場合、その軸は無限に存在している。
その全てを考慮するのは不可能なのだけれど、
正常な思考能力を失った完璧主義者たちは、
その無限の要望について妄想し、努力を邁進する。
その真面目さが真面目であるほどに、いずれ疲弊して、精神を壊す。
だから、思考を一度整理してみよう。
抽象化。
「Aがすごい」という誰かの言葉。あるいは自分の気持ち。
何と比較しているだろうか?
「BとCを比較するとAがすごい」
比較の所在。
詳細化。
「BとCを比較するとDという点においてAがすごい」
数値化。
「BとCを比較するとDという点においてAの方がEの値について量が多い」
言葉から価値観を消失させる。
こうして、改めて「ある量」がどのような意味を持っているのか考えられる。
「Eの値が比較的に多いということは、Fという可能性が高い」
さらに計量する。
「Eの値についてある母集団の分布を調べてみたところ、G以上を境にしてFとの関連がみられた」
意味を付ける。
「Fを欲するならば、Eの値についてG以上を維持することによって、それを手に入れる可能性が、そうではない場合よりも高くなる」
ここでの価値観は「あなたがFが欲しいかどうか」という点にフォーカスされる。
比較の消失。
霧に覆われた優劣によって焦燥的に行動を選択するのではなく、
自らの明瞭化された善悪や欲望によって、行動を選択できるようになる。
評価をするにしても、受けるにしても、
そこで自らの価値観を辿ることがなければ、
いずれ自分を見失い、焦燥感と理想だけが肥大化するだろう。
手に握りしめていた風船が、するすると空に舞い上がってしまった。
木に引っかかっている。自分の身長ではとれそうもない。
周りのみんなは風船を持っていて楽しそうだ。
涙が出てくる。
ああ、あの風船さえあれば、僕も楽しいのに?
ん、ちょっと待てよ。
落ち着いて考えてみた。
あのみんなの手に握られている風船たちは、
少なくとも数日の間にしぼんでごみになる。
僕は、そんなごみが欲しくて泣いているのだろうか。
違う。
欲しいのは、楽しさそのものだ。
それは、風船がなくとも、別段実現できるはず。
だから、よくわからないが、スキップしてみる。
楽しくなってきた。
その程度の話。