海揺録

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。精節録というブログ名でした。

捉え方についての考え方

何かがあったとき、

どんな風に解釈を試みるだろうか、少し考えてみたい。

 

美化された特攻隊員の死に壮絶さを感じる一方で、

いじめられて自殺した学生の死に絶望を感じる。

 

同じ「死」というショックな出来事に対して、

その前提や状況によって受ける印象は大きく変わる気がする。

 

次は身近な例。

 

数十年の付き合いのある相手から

なかなか連絡が返ってこないとき

事故に遭っているのではないかと相手の状況を心配する一方で、

先日会ったばかりの相手から

なかなか連絡が返ってこないとき

相手にとっては自分との相性が悪かったのだろうかと推測する。

 

 

これもまた「音信不通」という状況について、

相手との関係性やその状況で自分が感じる内容は大きく変わっている。

 

 

さて、これら出来事に対して、それぞれに状況を判定して、

解釈を構成する思考の働きは、当たり前なのだろうか。

 

そして、当たり前かどうかに関わらず、

自分の人生にとって本当に有意な思考の働きなのだろうか。

 

 

解釈とはその初期段階において主観の範囲を抜け出すことはできない。

他者との同意を形成していくか、

その同意についての根拠となる論証が形成されていくか、

いずれかによって少なからず客観性を帯びてくるに過ぎない。

 

そしてその不完全な客観性は、

数学的な論理性から離れていれば離れているほどに、

ある種、個人的ないしは集団的なバイアスを避けることが難しい。

 

 

出来事に対して、

都合のいい解釈を考え出し、

その主観を偏向的で擬似的な客観性によって、

権威付けてみたり、それらしく飾り立てる。

 

 

解釈の抽象度を上げるにつれて、

この飾りは剥がれ落ちていくが、

だからこそ、個人的な納得のためだけに行われた装飾については、

その抽象度の階段を登ることが避けられるし、無視される。

 

 

アプローチを考える。 

 

あらゆる因子をピックアップして、

それらの関連性と影響を計算して統合する。

問題が大きくなればなるほどに、その困難さは増す。

 

では、その問題全体について、

発生しうる確率とその影響範囲の限界を計算して、

問題の結果に関わらず、期待される状況について納得しておく。

問題の大きさに関わらず、確率が正しければ、

それぞれの状況に応じた心理的な影響などを平均化できる。

 

または、一時的に思考能力を著しく低下させたり、

あるいは思考自体を右から左へと受け流す技術を習得して、

問題について解釈を行うこと自体を避ける。

ただそれが起こった。

その結果だけに着目し、次にどうするかだけに集中できる。

 

 

 

自分がどうしたいかを考える。

 

感情の変化を楽しみたいのであれば、

大いにそれを満喫できる方向で、解釈を実践するといいのかもしれない。

 

しかし、その余裕がないときもあるだろう。

そんなときには、解釈を後回しにしたり、影響を平均化することもできる。

 

それこそ状況に応じて、自分がどうしたいかは変わる。

これは自己完結的な問題なので、

ダイレクトに選択の成否が分かる。

誤った選択をし続ければ精神は病むからだ。

 

 

 

何か出来事が起こったら、

 

自分の精神的な状況について省みる。

それから、出来事の性質について考える。

それに合わせて、最適な「解釈」の方法を選択する。

その方法に従って「解釈」を試みる。

 

書いてみると特別なことではないが、

日常を翻ってこんな風に手順的な思考を行なっていることは少ない。

 

少しずつ練習していこうかと思う。おわり。