共に日常を過ごす人々がいるような状況というのはしばしばある。
一方、そうではない状況というのも、
その人の自立傾向や気質によって発生する。
自分以外の誰かに何かを要求することなく、
十全に人生を謳歌することは可能だ。
そして、このような自律的な人々の集合では、
おそらく健全な社交が営まれやすい。
しかし、そもそも自分単独で人生を謳歌できていない状況の者もいる。
この非自律的な人々の集合では、
社交の前提として必要な情緒的な成熟が各人で達成されていないことがあり、
その帰結として責任転嫁や自己欺瞞の応酬が繰り広げられる。
さて「必要以上を求める」行為は、二種類に分けられるだろう。
他者に向けられるものと、自己に向けられるものだ。
上述の「責任転嫁」が他者に向けられたものを指し、
「自己欺瞞」が自己に向けられたものを指す。
情緒的な成熟がある程度まで達成されていないと、
自分の情緒の不安定を解決しようとして、
無際限の資源を必要とする。
自分がどのくらいで満足して生きられるか、
ということを冷静に翻って測定するに至らない。
例え話を使ってみよう。考える視点を増やしたい。
ある男の子を想定してみる。
彼は「毎日アイスが食べたい」と言った。
それは無邪気さ。
しかし、叶えてみよう。
アイス一個の値段を150円程度として、365日をかけてみる。54750円だ。
平均的な子育てを行うパパにとって、
年間でみて、正直大した金額でもない。
お父さんは、彼に毎日アイスを選ばせ続けた。彼がそう望んだから。
夏休みが始まって、
この男の子は好きなアイスを毎日選んで食べれて、満足で一杯になった。
蝉の声をききながら公園で涼しげにアイスを頬張る。
打ち上がった花火を見終えて、アイスの棒に目を落とすと「あたり」の文字が見える。
十全な幸せ。
そして、夏休みが終わる頃、この男の子はアイスに飽きた。
夏休み中にアイスにかかった金額は、150円 × 30日 = 4500円。
パパが当初に想定していた金額の10分の1にも満たない。
そして、この架空の男の子は自分の十全な幸せについて翻る。
「毎日アイスが食べたいと言ったのは、
確かにある種の空想だったけれど、
現実的に、食べたい時にアイスが食べたいという意味だと考えると、
実際、この満足を追求するために必要な費用の計算について、
明らかに毎日というベースは不適切で、少なく見積もっても、
その10分の1程度の費用を用意しておけば事足りるのか。」
さて、対比。
一切の満足を知ることなく大人になった女性を考えてみよう。
彼女は自分の年間の満足に必要な費用について見積もりを立てることができない。
そしてこのように言う。「多ければ多いほうがいい。」
必要が分からない時、必要の範囲を測定することを怠るとき、
人は必要以上を求める。他人にも、自分にも。
この女性と、少し成長した男の子が出会う。
「僕はね。暑い日には2日に1回、そうじゃない日には、ひと月に1回アイスが食べたいなあって思うよ。」
「何言ってるの。そんなの嘘。私は毎日でも足りないわ。あなたの分も欲しいくらいよ。」