海揺録

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。精節録というブログ名でした。

虚勢の先。

権力、財力、魅力。

総じて、それに従おうとする他者を従わせることができる。

 

自ら従おうとしなければ、

それらから自由であることもできる。

できる、といったが、おそらくその状態がほとんどの場合好ましい。

 

生まれた環境によってはそれが難しい場合もあるだろうが、

その自由への可能性が完全に閉ざされているということはまずないだろう。

 

 

さて、虚勢。

 

こうした他者を従属させる能力一般について、

自らの能力以上に他者に誇示する行為を指すように思う。

 

目的は、ずばり他者の従属を引き出すこと。

そして、それに付随した利益を引き出すこと。

 

いずれも、自分以外の他者から、

自分に対して何かを献上させようという試み。

大抵、そんな自分は何も生み出しはしない。

生み出す力があるなら、そもそも虚勢を張ることなどないだろう。

こつこつやってれば、能力は付く。

 

さて、この虚勢の試みは、

必ずしも自己の誇大化のみが主流ではない。

例えば、相手を必要以上におとし、

相対的な自己の位置付けを上げておくような方法もしばしば散見される。

 

 

基本的に、誰かがあなたを攻撃してくる場合や、

あなたの「欠点」を指摘し、しつこくそれをつついてくる場合、

それは相手の虚勢的行為であるといっていい。

 

そもそも虚勢的行為を振りまく人々は、正常な社交に失敗している。

 

正常な社交の定義は、

・相手を攻撃しないこと

・自己顕示をしないこと

おおよそこの2つがあれば十分だろう。

 

 

だから、相手の虚勢的行為について、

それをまともな会話や知的な活動の一部として考えるのは、

少し狂っていると思うので、

あなたはその指摘をゴミ袋にそっと包んで、

今日明日のうちに捨てておくといいはずだ。

 

 

そして、相対的に自由を奪い合うフィールドからは、

そっとフェードアウトして、

そうではないフィールドで生きる人々と共に、

心地のいい未来をみつめて生きていきたい。

 

 

虎の威を借る狐が、

もし虎を失ってしまったら、

その後、彼は自然界でどのような報復を受けるだろうか。

 

いや、自然界が彼に何かを報復する前に、

彼自身の中で、失われた権勢に対する虚無感が襲いくるだろう。

 

そして無意識にでも悲惨に気がつくはずだ。

 

誰かを下に見下しても、

誰かから上に見上げられても、

ああ、自分自身の「力」自体は、何ひとつ変わりやしないのだと。

 

そして、鍛錬を怠った筋肉が衰弱していくように、

虚勢的行為に時間を費やして、能力の向上を怠っていた分、

元々あったはずの力さえ失われてしまっていたことを後悔するだろう。

 

 

しかしだ。

 

これからのことを考えられないわけではない。

「自由への可能性が完全に閉ざされているということはまずないだろう」

ということだ。

 

ひとりでも多くの人々が、

虚勢的行為の連鎖から抜け出せることを願う。

 

僕にできることといえば、

僕自身が正常な社交に勤しむことであり、

それが難しいときにはひっそりとひとりを愉しんでおくことだ。

 

 

追記。

 

自立的な生活インフラができさえすれば、

権力や財力の支配からは無縁になるのだけれど、

どうも魅力については、抗うことがなかなか難しい。

抗う必要を感じることさえ難しい。

 

まるで手足を拘束されることを喜ぶかのように、

その不自由へと行進していく。

 

真剣に苦しむ人間が絵になるのはなぜだろうか。

 

情動に支配され、愚かさを振りまき、

何かを得ようと、もがき苦しむ。

 

そんな姿をかっこいいと思ったり、美しいと感じたりする。

 

そして、いき過ぎた執着に気がついては、

それを手放すために気づきを重ねる。

 

狂乱。

 

まだまだ分からないことだらけ。