海揺録

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。精節録というブログ名でした。

充足について

ストイックな人々の一派には、

「満足するな」とか

「飢餓感をもて」とか

どうも「不足」を強く感じ込むことで、

自らの行動を推進しようとする趣がある。

 


近頃の偉人の言葉にも、

そんな傾向が見えることがあって、

少し考えさせられた。

 

 

 

僕たちは何のために生きているのだろうか。

 


答えというものは不明であろうとも、

仮定を立てて検証を進めることはできる。

 


不足が行動の動機になるという点から、

充足が行動の意味ではないかと、

仮定してみることは無駄ではないだろう。

 


そして、

そもそもこの仮定の前提には、

答えがあるのかないのかという条件分岐と、

答えがある場合、

単一なのか複数なのかという条件分岐がある。

また、その下には、

全てにとって同一の解であるのか、

あくまでも個別的な解であるのか、

という分岐が続いている。

 


じゃあ、

論理的な話に感情的な話も加えていこう。

 


充足に意味があるのかないのか、

この問いは僕には愚問に思える。

 


少なくとも僕は充足感というものを

欲しているいないに関わらず、

その感覚を好ましいと思っているからだ。

 


つまり、

少なくとも僕にとって意味があるということは、

全体の一部にとって意味があるということで、

全体としての善の希求

という観点においてもまた

これは意味を持つということだ。

 


主観的にも客観的にも意味があると分かる。

 


思いが満たされることは好ましい。

より大きな願いが叶うこともまた好ましい。

 


もちろん、その成就の果てに

悲惨が待ち構えているとしても、

充足そのものはまぎれもなく好ましい。

 

 

 

では、本題に入りたい。

比較の問題に移ろう。

 


より大きな充足を

目指すためのプロセスについてだ。

 


2つのプロセスを比較してみる。

 


ひとつめは、

飢餓感を意識し続けることによって、

行動を推進しようと試みるやり方。

これは「私は欲する」という感じ。

意識は内向きにならざるを得ない。

 


ふたつめは、

充足感を意識し続けることによって、

行動を推進しようと試みるやり方。

こっちは「私は十分」という感じ。

意識は外に向き出す。

自分は充足しているからだ。

「あなたはどう?」という感じになっていく。

 

 

 

世の中が便利になったのは、

現状に満足できない人々が

それを刷新していったことだけに

起因しているわけではない。

 


自らを誠実に愛することができて、

充足的であった人々が

社会に対してそこから溢れた分で、

改善的な貢献をしていったことも、

見逃してはならないし、

明らかにこちらの方が

当人の状態として安定しているように思う。

 

 

 

食事を例にとりたい。

 


飢えていれば確かに、

それに比例した強烈な食欲によって、

自らを食の獲得に駆り立てるだろう。

しかし、腹が減っていては実際、

地に足のついた力は湧いてこないものだ。

 


人間の恐ろしいところは、

ガソリンの入っていない車とは異なり、

自らの心身を削りながら、

それを使って走り続けることができてしまう

という点にもある。

 


さて、腹が満たされていれば、

一息ついてのんびりしたいような

そんな気分にでもなるだろう。

当然、食の獲得に躍起になることはない。

大事なこととして、

それ故に誰かと奪い合うような

そんなことにもならないのだ。

 


満たされた思いは、そのうちにいつか溢れ出す。

すると、自ずと誰かを愛するようになる。

これは、自分を誠実に愛していればこそだ。

 

 

 

せっかく出来上がった美味しい料理を、

しっかり味わうことなく、

その上に覆いを被せて、

またそれよりも美味しい料理を

求め続けるような、

そんな狂行をしていてはいけない気がする。

 


単純にもったいない。

食べずに置かれた料理は、

缶詰とかではない限り、腐敗してしまう。

 

 

 

「いつか満たされる」ために、

今日の充足を見過ごし続けていたら、

きっと箸の持ち方も忘れてしまう。

 


考える方向は、

これはどうしたら

より美味しく食べられるだろうか

という視点に違いない。

 


「将来どう思うか」という視点も

確かに重要には変わりないだろうが、

それは「今の自分がどうしたいか」

という土台の上に立脚しているのだ。

 


人生を問い直すという作業の前に、

今の自分の正直な思いを

問い直す作業が必要だろう。

 

 

 

共感性やコミュニケーションの重要さが

社会に周知されて久しいが、

それは「自分はどうしたいのか」という土台を

試行錯誤して築き上げた後の問題だ。

 

 

 

自分が自分を優先しなかったら、

誰が自分を優先してくれるというのだろうか。

 


もちろん、確かに存在している。

 


それは、既に自分を優先して

誠実な自己愛によって

充足的に生きている人々に違いない。

 


だから君もそうあることが

望ましいではないか。