海揺録

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。精節録というブログ名でした。

自由の狭窄

得体のしれない不安が顔を出すことがある。

 

それを細分化して根っこまで辿っていくと、

まったく合理的ではない思い込みが種になっていることが多い。

 

思い込みについて記憶を辿ってみると、

善意、悪意を問わず、人からの影響を受けていることに気が付く。

 

他方、自分の内側から出てくる自分の思いから植えた種については、

不安の葉が茂るようなものは見当たらない。

 

 

例えば「あの人が幸せそうだから、こうした方がいいのかもしれない」とか「多くの人が、そうしているから、こうした方がいいのかもしれない」というような感覚から出発する思考や行動。その帰結は、紛れもなく自分を不安の底なし沼へと導いていく。

 

一方「他の人にどう思われようが、自分はこうしたい」とか「これをしていると気分がよくなってくる」とか「これが好きなんだ」というような自分による証明書が発行されている思考や行動。これらは、帰結を問うまでもなく、堆積していく過程や、歩んでいる道のりがそのまま、不安とは逆の性質の「自信」を積み上げていくのだということを教えてくれる。

 

 

前者と後者の違いは明白で、感覚を拠り所を他者にするのか、自分にするのか、というところだ。

 

少し視点が変わるが、

数学の問題を例に出してみると分かりやすいかもしれない。

 

前者は、頭の良いと評判の友達の回答や、周りの人の多くが合致している回答を眺めてみて、とりあえず答えを写す。合っているのかどうか、少しは考えてみるけれど、そもそも少し考えてみたところで答えが分かるようであれば、人の回答を参考にする必要もないのだ。結局は自分の思考を放棄して、評判や多数派にその結果を委ねることになる。そのため、自分の答えが合っているかどうかを確かめる術を当然持たない。仮に前回の問題はこれで正解したことがあっても、今回の問題も正解するかどうかを自分で確かめることができないのだ。当然、彼は常に不安にならざるを得ない。

 

一方で後者は、一つ一つの計算を自分で確かめて回答を進めていく。公式も自らで証明を辿れることを確認してから使用する。検算も行える。だから、繰り返す計算は、自らが導出した答えの確かさを何度も教えてくれる。仮に前回の問題で、計算ミスをしたことがあっても、それが今回の問題では細心の注意を払うことに繋がる。繰り返される問題は、常に彼の知性と能力を向上させていくので、回答への自信をその度に深めていくことになる。

 

 

さて、話を飛躍させよう。

 

自由とは、

他人の人生は思い通りにならないが、

自分の人生は思い通りになるということだ。

 

思い通りになるとは、

自分の可能性に応じて、

自分とその環境を常に創造していくことができるということだ。

 

では、自分の可能性とは?

自分の可能性とは、確かな経験に裏付けされた学習、能力、自信など、

それらが実現していくことのできる全てを指すだろう。

また広義には、未来それが実現できるであろうことも含むだろう。

 

自由を拡大するには、

自らからその機会を奪うような真似は控えねばなるまい。

 

そのためには、

まず、自分の感覚を信じることからはじめて、

そこから辿っていく思考をとめてはならない。

 

自らの思考を放棄するならば、

遅かれ早かれ他者に追従する道に片足を突っ込むことになるだろう。

 

なるほど。

自由の狭窄は、

過去に自分の感覚を信じなかったか、思考を放棄したその結果だ。

ひとつひとつ刷新していかねばなるまい。