大きな悲劇が訪れた時、
基本的に、その悲劇の原因について、
考察を繰り返すことになるだろう。
しかし、繰り返される考察は大抵堂々巡りであることが多い。
であれば、一旦「原因」的な思考をやめてみよう。
その悲劇の目的を推理することが面白いはずだ。
もっと言えば、それを悲劇として捉えている人間が、
なぜそれを悲劇として認識しているのかという部分について考えてみたい。
簡単な例から始めてみる。
卵かけご飯を作ろうと卵を割ったところ、
割り方が強過ぎて、ご飯の上ではなく床に飛散してしまった。
小さな悲劇のように見える。
さて、養鶏場で働く者が、早朝に卵を集めていたところ、
一つが手から滑り落ちて、地面に飛散してしまった。
こちらは日常的な様子に見える。
ふたつの例で生じた出来事は、現象としてはほとんど同じ内容だ。
手に持っていた卵が、下に落ちて割れた。
これだけである。
しかし、卵が落ちて割れたことに対する悲しみは違う。
悲しみを原因的に考えてしまえば、
床の汚れを掃除しなければならないといった部分が思いつくが、
一旦棚上げしてみよう。
卵かけご飯は汚れてもいい床の上で食べようとしていたのだ。
原因が除外されれば、悲しみは消えるだろうか。
卵が最後の一つだったから悲しいのだとすれば、
無限の卵が冷蔵庫から出てくるものとしてみよう。
大切な食べ物を無駄にしてしまったという点であれば、
ふたつの例はその点で同じく機能する。
さて、何が悲しいのだろうか。
ここで気がつく。
我々は今、悲しみを探す作業をしている。
悲しいという感情を、何かの現象に紐づけて解釈しようと試みてる。
今、我々は悲しみの要因として考えられる要素を除外してみた。
だから、取り立てて悲しく感じるような現象が見当たらない。
しかし、悲しみを探そうとしている。
つまり、「目的」的な思考とは、こういうことだ。
この思考パターンは常に多くの人間を無意識に支配している。
不幸な人間が不幸な出来事に出会う数が多いのは偶然ではない。
彼が、そもそも不幸な状態であり、
目の前に生じるあらゆる現象にその不幸を紐づけて解釈しているからだ。
同様に、幸運な人間がより幸運に恵まれるのも偶然ではない。
彼が、そもそも自分の運の良さを信じており、
目の前に生じるあらゆる現象をその幸運に紐づけて解釈しているからだ。
不幸な出来事が、人間を不幸にするのではなく、
不幸な人間が、ひとつの現象について、不幸な解釈を行うのだ。
幸運な出来事が、人間を幸せにするのではなく、
自分の幸運を信じている人間が、ひとつの現象について、幸せな解釈を行うのだ。
次は、少し複雑な例をみてみたい。
失恋について考えてみよう。
振る側。振られる側。両方について考えることができる。
あるふたりが付き合っていたが、別れてしまう。
振った側は、相手の言動に不快感を抱いて、それが別れの原因だと考えている。
振られた側も、相手に対して不快な言動をしてしまったことを反省している。
原因的に考えれば「言動の不快感」がそれにあたるに違いない。
大抵この種の原因的反省は、やはり堂々巡りだし、
謝罪が有効に働くのであれば、そもそも破局はしないだろう。
目的的に捉え直してみよう。
振った側は、別れるために、相手の言動に不快感を見出した。
振られた側は、別れに納得するために、自分の言動の不快感を認めた。
冷静に考えてみれば、
本当に不快だと感じるであろう言動を、
交際相手にぶつけることなど行わないだろう。
それはただの嫌がらせだ。
振った側は、振ったその時に、そのための理由を欲したに過ぎない。
その理由が、不快な言動であるか、相手の癖であるか、価値観の違いであるか、
それはタイミング次第でいかようにでも変化するだろう。
つまり、別れるという目的のために、理由が設えられたのだ。
では、なぜ別れるという目的が生じたのだろうか。
その行為において、振る側は何らかのもう一段深い目的を有している。
そして目的は常に未来にある。
例えば、振ることによって、
さらに相手の気を引くことができると思ったのか。
別の相手がいて、その相手に集中したいと思ったのか。
何れにせよ、具体的な自己の願いのために、
相手との今の関係を破壊することを選んだ。
だから、破壊された側が何を問いかけたところで、
全ては破壊への道を突き進むことにしかならない。
なるほど。
しかし、自己の願いが、常に自己を幸せへと導くものではないことは、
先に示した通りである。
そもそも不安に支配されている人間は、
目の前に生じる、稀な幸運ですら、不安の要因としての解釈を試みるのだ。
宝くじが当たった時に、
不安な人間は盗まれるのではないかなどと心配するだろう。
大抵、そうでない人間は、使い道について思慮を巡らせるところをである。
交際には、前提として、両者の健全な精神が求められる。
然もなくば、非健全さは、ふたりの本質的に幸せな状態すらも、
非健全な解釈のもとに沈めていくからだ。
健全な精神は、素直な自己実現性から養われる。
自由の基盤の上に、健全な好意は芽吹く。
閑話休題。
したがって、
振られた側は、そのことを解釈する時、悲しみに支配されて、
判断を誤らないようにするといい。
大抵、本当に反省すべき部分などどこにもなかったことに気がつく。
相手の気まぐれに、自らの「反省」を無駄にしないことだ。
そして、
振った側は、自分が設えている理由が、設えられたものであることを、
認識し直しておくのがいい。
もし、それが大したものでないのに、
自己欺瞞によって大したものであるかのように考える癖がついてしまえば、
その後、設える必要のない時にすら、
悲劇の理由が即席されてしまう。
悲劇のヒロインがいつまでも白馬の王子様に出会うことができない理由は、
白馬の王子様がまだ現れていないからではない。
彼女が出会いの全てに悲劇としての解釈を行うからである。
だから、他人の不幸に惑わされてはいけない。
不幸の多い人々を前にして、するべきことは同情ではない。
しかし、幸福な解釈を伝えることでもない。
彼らの目的は、今、紛れもなく不幸に向いているのだから。
もし自分が彼であったら、
その出来事にどのような解釈を行うのか、
シミュレートしてみるといいだろう。そして、それだけでいいだろう。
自己を見つめるいい機会になる。
できれば相手の解釈について聞き出せていると、比較ができるのでなおいい。
それが難しそうであれば、色々な解釈のパターンを考察してみると面白い。
できることはそのくらいだ。