精節録

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。

訓練

産まれてから、

言葉を喋れるようになり、

それを見て周りが喜ぶ。

 

歩けるようになり、また周りが喜ぶ。

 

何らかの施設で午前中を過ごすようになると、

毎日のように「今日やること」が決められていて、

それをうまくやると、また周りが喜ぶ。

 

しばらくすると、施設を卒業して、

次の施設へと向かうようになる。

 

今度は午前中だけでなく、

午後もそこで過ごすようになる。

時間が増えた分、「今日やること」だけでなく、

「明日までにやること」も決められていて、

毎日毎日はそれに追われて過ごす。

うまくやると、周りは喜ぶ。

 

また、卒業して、次の施設へと向かう。

「やること」は全て決められているわけではなく、

ある程度自分で選択できる余地がある。

しかし「やりかた」は誰かに従いながら、

それを行なっていく。うまくやると、周りは喜ぶ。

 

また、卒業して、次の施設へと向かう。

「やりかた」にもある程度の裁量が与えられつつ、

「やること」のレベルが少しづつ上がっていく。

うまくやることに必死になることを覚えていく。

うまくやれば、周りは喜ぶ。

 

また、卒業して、次の施設へと向かう。

うまくやること、うまいやりかた、

それを身につけては、実践していく。

うまくやれば周りは喜ぶ。

しかし、日々の「やること」に終わりはない。

 

「やること」に終わりはないが、また卒業がくる。

 

親の子供への「やること」は、

だいたいこの辺で落ち着く。

 

子供は、大人として次の場所へ向かう。

この大人は、完全に無意識的に訓練されている。

 

この大人は、自分に関わる子供達に、

同じ訓練を行うようになる。

 

また、自分自身が、

この行動規範と承認欲求に縛られる。

 

日々与えられる「やること」を

うまくやると、周りが喜ぶのだ。

 

しかし、うまくできなければ、

周りは落胆し、君を変えようとしてくる。

 

うまくやり続ける限り、

「やること」は増え続けるだけでなく、

そのレベルは上がり、負担は増加していく。

 

うまくできなければ?

「周りは落胆し、君を変えようとしてくる」だろう。

なぜ「周りは落胆し、君を変えようとしてくる」のだろうか。

 

周りとは、

君と同じ「訓練」を受け続けた大人たちだからだ。

 

彼らの行動規範や常識は、

「与えられた『やること』をうまくやらなければならない。」

というものだ。

 

幼い頃から数十年反復され、

身に染み付いた行動規範を

見直すこと自体、とても難しいだろう。

 

見直してみよう。

なぜ「与えられた『やること』をうまくやらなければならない」のだろうか。

 

例えば、誰かが困るから、だとして、

逆に、君自身は「やること」に追われる日々に困ってはいないだろうか。

 

例えば、それがルールや契約、だとして、

逆に、なぜそれに縛られる必要があるのだろうか。

自らが疑念を抱くルールや契約があって、

それを破棄する自由が認められないとすれば、

そのこと自体がそもそも

ルールや契約の欠陥を示しているとも言える。

 

例えば、「罪悪感」があるから、だとして、

逆に、なぜ自分へ苦しい思いを与えている元凶は、

「罪悪感」を持たないのだろうか。

それ自体が関係性の不均等や欠陥を

示しているとも言える。

 

 

そもそも「与えられる日々の『やること』」は、

誰がそれを与えているのだろうか。

元を辿れば、それは、

「最も誰かに何かを依頼する力をもった人」

になるのではないだろうか。

つまり王様であり、最高権力者だろう。

 

この「訓練」の構図は、

言うまでもなく、最高権力者のための構図になる。

 

この「訓練」を続けている限り、

どんなに頑張っても、頑張っても、

 

頑張った分だけ、

君は卓越した「訓練生」になるだけだ。

真面目は報われない。悲惨かなあ。自縄自縛。

 

 

この構図は間違いなく胸糞悪い。

それをひっくり返すことはできるだろうか。

 

少なくとも、自分1人だけは助かる道がある。

今すぐに「訓練」をやめることだ。

 

「訓練」をやめて悲惨が待っているとしても、

やめなければ必ず悲惨がやってくる。

 

ならば、やめる選択肢を選ばないと言う

合理的な理由はない。

 

いずれにせよ悲惨なのであれば、

自由な方を選びたいではないか。

 

それで死ぬなら、まさに本望だろう。