精節録 —オナ禁で得た知見—

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。

刺激、まずは足下より。

刺激というものは、
外部的なものと内部的なものに分けることができる。

内部的な刺激というものは、
何をするでもなく、内側から湧き出ててくる、
内発的欲求と結びついていて、
これは自らの天性と行動が一致した時や、
自らの思想と世界の摂理が一致した時など、
偶然がもたらす瞬間によって誘発されることもあれば、
ひたすら求道していく中で、
辿り着くということもあるだろう。


さて、外部的な刺激というものは、
それに比べて、現代では非常に簡単に手に入れることができる。

誰かが作った創作物たちは、
現代の平均寿命である80年程度では
全てに触れることは間違いなく不可能な数が点在している。

そして、これは人対物の対話による刺激である。

もう1つが、
人対人の対話による刺激であり、
こちらは通信技術が発達してからは、
その形式を大きく変えているのかもしれない。
形式は、より簡易的で刺激的な方向に進んでいる。


すると、油断していると、
現代人における刺激というのは、
外部的なものだけで飽和状態をもたらしてしまう。

理由は、内部的な刺激が非常に確率的なものであり、
体得に時間を費やすことでより拡大していくのに対して、
外部的な刺激は、簡易的でかつ、
刹那的には非常に大きな刺激をもたらすことができるからであろう。

問題は、外部的な刺激というものは、内部的な刺激に比べて、
継続的な欲求によって高次な状態へと進んでいく情熱と大抵結びつかないため、
快楽を満たすことは十分に可能であっても、
根本的な欲求としての達成感であったり、
生の充実感、そして、生きている意味を感じることが難しいという点にある。

そして何よりも、快楽というトリガーを引いてしまえば、
欲求は減退し、行動への原動力は沈静化してしまう。

言い換えると、
外部的な刺激を用いて簡単に快楽を満たすということは、
自らの生の充実感や意義を失ってしまうことと同義だ。

現代では、孤独や退屈を恐れている人が多いように思う。
しかし、孤独や退屈というのは外的な刺激から無刺激な状態であり、
内的な欲求と向き合うためには絶好の状態であろう。

自分の内的な欲求に従って、
それを行い、そして、それによって誰かの役に立つとすれば、
生きるとはそれだけで素晴らしいはずであり、
それだけで、全体の幸福の総量は改善され続ける。

しかし現実はそんなに簡単ではなくて、
内的な欲求に少しだけ近くことができて、
その理想へと足を進めている最中、
再び外的な刺激は我々を何度でも翻弄するだろう。

僕が今わかっていて、
気をつけなければならないと思っていることは以下の3点だ。

まずは、外的な刺激を極力減らすこと。
そして、それを継続すること。
そのためには、他人の恐怖に惑わされないこと。


僕たちは、
僕たちのために、
僕たちの社会のために、
それぞれがそれぞれの生を見出すために、
必要な孤独と向き合う必要がある。

そして、そこで見つけた小さな火をを守り育てるために、
周囲の炎に飲み込まれて消えてしまわないように、
自分の火がそれらを超えて大きく育つまでは、
周囲の炎を避けて、孤独と向き合い続ける必要がある。

もしも、それを許さない社会だとすれば、
自分がその構造を変化させればよい。
まずは足下より。