精節録 —オナ禁で得た知見—

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。

だましだまされ

僕は多分馬鹿なのだと思う。

ただ、それは、もう仕方ないことだとも思う。

 

そもそも人を騙すつもりもなければ、

人を騙しているつもりもなく、

自分が騙されていることにも気が付けない。

 

愚かとは、誰からの視点であろうか。

 

自分で自分のことを愚かだと思うこともあれば、

頭が冴えていると思うこともあり、

それは気分に似ている。

 

測定値があるとしたら、

それは一定値ではなく、

分布になるだろう。

 

分布はきっと平面でなく立体だと思う。

 

女の子の気持ちを考えることにおいては、

女の子の側からしたら、大馬鹿に違いない。

同じ男から見てもきっとそうだろうと思う。

本当に学習しない。

 

複雑な計算処理を積み上げて

システムを構築していくことに関しては、

きっと誰にも真似できないような思考回路と

その表現を持っていると思う。

リファクタリングには素直に興奮する。

 

過剰な煽てにも乗ってしまう。

嘘だと分かっていても騙される。

騙されたと思った後も騙される。

これは、騙す側の問題だけではなく、

僕の脳の構造の問題も大きいと思う。

 

きっと下手くそな詐欺師でも、僕を騙すことは簡単だろう。

 

彼らの存在意義については、知ったことではない。

 

明らかな詐欺師に対しても、

誠実に対応しようとする素直さは、

本当の優しさに出会えるということもあれば、

ただのゴミ屑共にカモられるということもある。

 

いいこともあれば、わるいこともあるのだが、

いいことは忘れやすく、

わるいことは忘れにくい。

 

いいことは欲を助長してキリがなく、

わるいことは、なぜだか偶然にも連続することが多い。必然だろうか。

 

だとしたら、

いいこととわるいことが半々に起こったとして、

そんなの割りに合わなくないか。

 

なぜこんなにも精神はバランス感覚が傾いているのだろうか。

これは僕だけなのだろうか。

 

感謝が足らないと思って、

感謝をすれば、感謝は軽くなる。

 

連続が感情を鈍麻させるのだとしたら、

善行は日に追うごとに感情的な厚みがすり減っていくのだろうか。

 

なぜこんなにも不完全なのだろうか。

 

経済とは、

僕が思っていた生きる意味のそのものだったはず。

今や僕には、経世済民という、その言葉をうまく現実で捉えられない。

 

生きている意味を問う余裕すら与えられない経済に埋もれて、

騙し騙され、傷つき傷つけられ、

拒絶し拒絶され、人を求め人から離れ、

 

どうすればいいのかと誰かに問うたところで、

彼もまた知る由はない。

 

答えを知っているかのように振る舞う連中は大抵詐欺師だ。

 

そして自らが詐欺師であると自覚があるものもいれば、

ただのパラノイアもいる。

 

ただ、単純に、自らの好むところに従って、

それで誰かの役に立てたなら、それで全てが丸くいくと思っていた。

 

なぜこんなにも。こんなにも複雑怪奇に感情はそれを許さないのか。

 

僕は人間についてどうやら思い違いをしているようだ。

 

僕たちは好きなことをしていることで、

退屈から逃れることはできても、

それ以上のものはないのかもしれない。

 

でも、それ以上を望んでいる自分がいて、その満たし方を知らない。

 

自分の中に探して、思うようにいかず、

自分の外を探して、運悪く人に騙され、

また内にこもる。

 

何もわからないで、

このまま歳を重ねていくのだろうか。

 

きっと後十何年ほどの命なのかもしれないが、

僕はそんなこと絶対に耐えられない。

 

満たされていた記憶を辿ると、

そこには自由があった。

 

今は、その自由の感覚がない。

故に、こんな感情になっているのだろうか。

 

自由の翼が捥がれているなら、

また絶対にそれを手に入れるだけだ。

 

死ぬまでに絶対に。

 

金がなければ何を行動するにも困難な環境を憎むが、

金さえあれば何か行動を推し進めていける可能性を

手に入れられる環境に希望もまた失わずにいられる。

 

全力を尽くして、

あとは祈りながら生きるしかない。

 

この焦燥感は、あまり好きではないが、

行動を、行動を、行動をと自らを急き立てて、

よそ見をすることを減らしてくれるところにはいつも助けられる。

 

まだまだできる。

まだまだいける。

もっともっともっともっと広い景色が見える。

 

そんな終わりのない成長が、

必ずどこかの段階で「自由」を引っさげて、

僕の背中についてくることを。

 

僕はまだ、自由を知らない。