精節録

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。

残酷さ

理想と現実を混同させると、生き方を間違える。

少なくとも、僕は、現実について、ひどい勘違いをしていた。

 

僕は、自分の体内にいる微生物たちが、

今この瞬間に死んでいくことに何の感情も持たない。

その事実を知っていたとしても、

自分の存在によって、彼らが死んでいくことに、

罪悪感を覚えることはない。

 

普段の食事に際しても、

時に、より生々しい生命的なものを食すにいたっては、

箸を止めることもあるだろうが、

それは、自己を投影するからであって、

決して、その死んだ生命に慈悲を感じてのことではないのだろう。

 

今日、昔の知り合いが死んだとしても、

同じ場所で働く人々の誰かが死んだとしても、

まるで自分が死ぬことのように、悲しむことはできない。

 

自分と同じくらい、あるいは、

自分よりも大切な誰かや生命が死んだ時にしか、

本当に悲しむということはないのだろうか。

 

そう思い返すと、自分の中の残酷さがわかる。

 

そして、自分の中の残酷さを知れば、

他者の中にもまた残酷さがあるのだということを認識できよう。

 

僕や君が死ぬほどつらかろうと、

実際、死ぬほどの状況になろうとも、

他者にとっては、割とどうでもいいことのなのだ。

 

それは、僕や君にとっての、

ニュースの中で繰り広げられているような悲劇と同様に。

 

さらに残酷な事実は、

自分が誰かを大切に思っていたとしても、

その誰かが同じ程度に自分のことを大切に思ってくれるということは

基本的にありえないということだ。

 

この当然の事実から、

目を背けてしまいがちなのは、

この現実を受け入れることよりも、

ありえない理想にしがみついている方が、容易いからに過ぎない。

 

しかし、現実から逃げれば逃げるほど、

そのつけはどこかでやってくる。

 

自分の中に残酷さがあるのと同様に、

他者の中にも残酷さがあるのだということを忘れていては、

自分が窮地に立たされた時、

「なぜ、周囲の人々は助けてくれないのだろうか。」

という、倒錯した疑問を抱いてしまうだろう。

 

助けてくれるような状況こそが稀であり、

そして、稀な状況の裏には大体理由がある。

そこには誰かの利益があるだろう。

 

だが、

残酷さについての認識が欠けた生き方をしていれば、

その稀な状況こそが、当然な状況であると思い違いをするだろう。

だから、必ず騙されるのだ。

 

「平和な現実」という理想を信じていれば、

次第に牙は抜け落ちる。

牙がなければ、戦うことはできない。

戦うことのできない奴は、誰かを頼るしかない。

しかし、助けてくれる他者は稀なのだ。

 

「残酷な現実」という現実と向き合うことで、

牙を研ぎ続けることを怠らずにいられよう。

そうして、その牙があってこそ、

誰かを助けることもできよう。

 

残酷さの中に、光を見出すとすれば、

自分が誰かを助けるという能動的な道であって、

誰かが自分を助けてくれるという受動的な道ではない。

 

本当に自由や平和を求めている者は、

必ず自分の力を持っている。

戦うことのできる力を持っている。

 

欺瞞的な思想との違いは、

思想の後に力があるのではなく、

力の上に思想が成立しているということだ。

 

生きるためには、何かを殺さなければならず、

何かを殺すためには、その何かよりも強い力を持つ必要がある。