精節録

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。

憎しみや怒りは、水のように低いところに流れていく。

他者の敵意が自分に向けられていると感じる時、

あるいは、実際に敵意を示されている時、

大抵の場合、その敵意は、本来向けられるべき方向を向いていない。

 

憎しみや怒りは、社会生活の中で、表現されにくい感情に違いない。

 

多くのそのような感情は、

感情を抱いた時点では表現されることなく、

抑圧されて溜まっていく。

 

溜め込まれた憎しみの感情はいずれ溢れる。

あるいは、溜まりに溜まったその重さから逃れようと、

どこかに捌け口を探す。

 

水が高い位置から低い位置に流れていくように、

溢れ出した敵意は、その場で最もその感情を向けやすい対象に流れ着く。

 

自分勝手さを許容してくれるような、身近な存在であったり、

言い返してくることがないであろう、自分よりも立場の低い弱者であったり、

敵意は本来向けられるべきところから

対象をすり替えられて発散が行われることが多い。

 

この無意識の出来事は、

正当性を保とうとして、さらに弱者を責め立てることにつながる。

 

そのようにして、

自らの弱さと向き合えない人間は、「弱い者いじめ」をする。

 

彼らの問題は決して解決することはない。

向き合うことのない弱さは、弱いままであるだけでなく、

向き合うことから逃げることで、さらに自信を失うからだ。

 

本当に敵意を向けなければならない相手に卑屈になれば、

悔しさは堆積し、それが無力感を募らせる。

そのうち、敵意自体を感じないようにと、

感情を麻痺させてしまえば、心は錆び付く。

身近にある、面白いことも、楽しいことも、

どうにも感じることができなくなっていく。

 

さて、待っているのは悲惨の他ないだろう。

 

通常の心の健康な人間は、人生の楽しみを感じることができる。 

楽しみを感じることのできなくなった人間は、

楽しみを感じることのできる人間を、嫉妬せずにはいられない。

 

問題は、もうほとんど根本的な解決に向かうことはない。

なぜなら、無感動は無気力につながる。

もはや、行動によって改善の方向に進もうという力はない。

すると、感情を一時的にでも安定させようとして、

再び「弱い者いじめ」をするしかない。

 

悲惨は繰り返される。

 

いずれ、そうした者の周りには、誰もいなくなるだろう。

その時、彼はどのようにして生きるのだろうか。

彼の心はもう死んでいて、残った身体に魂はない。

 

 

こんな風になる前に、

僕らは戦わなければならない。

 

耐えるだけではなく、自らの感情を押し殺さずに、

正当にその感情をぶつけるべき相手にぶつける必要があるのだ。

 

まず、怒りと憎しみは、それが抑圧されない限りにおいて、正しい感情だ。

 

それは、自分がそう感じたということであり、

つまり、自分自身なのである。

 

その感情を抑圧するということは、

自らを否定するということに他ならない。

 

他者にいくら自分を否定されようとも、

自分で自分を否定してはならない。

なぜなら、そこが、いつも唯一の防波堤であり、

生きる意味が宿っている根本的な部分だからだ。

 

苛立ちを隠すことはない。

自らに嘘をついて機嫌を良くすることなどない。

傷つけてくるような人間と友好的になるな。

 

もし、君の苛立ちや機嫌の悪さに、憤る人間がいたとしよう。

大抵の場合、そいつが、君の感情を抑圧しようとしている真犯人だ。

他人の機嫌の悪さを気にしている人間は、

自らの行為とそれを関連付けているからそれを恐れる。

何かがバレることを恐れているのか、それとも極度の不安を抱えているのか。

 

いずれにせよ、他者からの抑圧に負けて、

自らを自らで抑圧してしまうことだけは避けなければならない。

自分の身を自分で守るとは、

「この最終防波堤だけは、他者に絶対侵害させない」という覚悟によって、

根底的な自己肯定を自分で守り抜く強さのことに違いない。

 

人間は多種多様であり、ずるい人間や、嫌な人間、糞人間もいる。

 

この自分の心の防波堤を堅持することを怠ってしまえば、

彼らに精神を弄ばれ、自分の人生を利用されて

そして死んでいく未来が待っている可能性が高くなる。

 

弱者や孤独な者は、精神的な攻撃の対象になりやすい。

 

自分の心に、他者からの否定のメッセージを

そのまま染み込ませるようなことは絶対にしてはいけない。

 

簡単に罪悪感を持ってはいけない。それを示すなど以ての外だ。

 

自責という概念は素晴らしいものであるが、

それは、自己の内面から出発した限りにおいてである。

 

他者からの責めを愚鈍に受け入れて頷いているのは自責とは言わない。

 

その他者からの責めは、どんな動機がもとになっているか。

その動機が「弱い者いじめ」であれば、

どうして愚鈍に受け入れる必要があるか。

 

抑圧された敵意は、

本来向けられるべきところではなく、

ぶつけやすい場所へとぶつけられている。

 

それを忘れてはいけない。

 

自分の自信も誇りも、誰かが守ってくれるわけではない。

自分の人生を自分で守るという覚悟を持たなければ、

君もいずれ「弱い者いじめ」を行うようになる可能性がある。

 

素直さとは、

敵意を向けるべきところに向けることであり、

怒るべき相手に怒ることであり、

憎むべき相手に憎むことであり、

悔しさをそのままに悔しむことである。

 

それで、自分を知ることができる。

自分の弱さも、依存心も、器量の大きさも、

そうして現実と向き合うことができる。

 

そして、本当の問題と、その解決策を考えることができる。

 

自分の感情を押し殺すこと、我慢、抑圧、

そういったことで根本的な問題が解決することはない。

 

自分に素直であることで、

深く傷つき、そして悔しさを味わう。

けれど、そうして心は鍛えられていく。それが強さになる。

 

いつしか、大抵の罵詈雑言には心を揺らされなくなる。

それは感情の麻痺によってではなく、

強くなった心によって実現することが可能だ。

 

ならば、どうして他者からの否定の言葉を恐れる必要があるだろうか、

トレーニングの負荷は、限界に挑戦するところくらいがちょうどいい。

 

そこから逃げたって、何の問題もないが、

今、限界に挑戦して、

肯定的に鍛えておくことも、今後の未来に大きな意味をもたらすかもしれない。

 

いずれにせよ、自分で選んでいくことが必要だ。

そして、その選択は、どちらにしても正しい。

「誰が何と言おうと」である。