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精節録 —オナ禁で得た知見—

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。

価値感覚

今、目の前の物事や事物に対して、自分がどのくらいの価値を感じているのかという判断は、感覚のままにそれを知ることができる。つまり、現在とか今という時点における価値感覚は、確かにそれを知ることができる。しかし、裏を返せば、現在から先の価値感覚については、予測することは可能であっても、それが真であるか証明することができない。そして、価値は継続するものだとという前提がどうしてもあるのだが、大抵の事柄は、一瞬先には価値を変えていることに気がつく。

小さな頃に手にした500円玉の重要さは、今手にしている500円玉と同じではない。空腹の時に、茶碗一杯のご飯を喜ぶことはできても、満腹の時に同じように喜ぶことはできない。同じ対象に対して、状況や時点の違いなどによって、価値感覚は常に変化している。

しかし、今目の前の価値感覚は事実であり、それ自体は不変なものであるということもまた事実である。そして一瞬先には多少の差はあれども変化している。

1円の重みは常に同じであり、これからもそうであると錯覚してしまうが、それも実際は変化している。

なぜか知らないが、変化するものにおいて、現時点では不変であるという事実から、それらがこれからも不変であるという前提を引き出して、価値を予測するということが行われる。けれども、実際は変化しているわけだから、そこに齟齬が生じる。これは、明らかに前提がおかしい。

同じ対象に対して抱く価値感覚が、この先どの程度の変化をするのかという判断は、経験や確率的な根拠づけによってある程度可能なように思うが、それは、対象への価値感覚が変化するのだという前提があってこそ可能なことである。もしも、この前提が不変さの継続という錯覚にあるのならば、常に現状は、当然ながら不合理で非論理的なものになる。

これは、現実がおかしいのではなく、自らの前提がおかしいのだ。

事物や事柄自体は仮に不変であったとしても、それに対する価値感覚は常に変動する可能性を有している。大事なものは移り変わる。それを悲しむのは価値感覚への錯覚だ。ただ、そうと文字の上では理解していたにせよ、価値感覚の移り変わりに喜怒哀楽を隠せないのは、何か意味があるようにも思う。

不合理さに意味はなくとも、不合理だと思い込むことには、何かの意味があるのかもしれない。それは精神的な保身という点だけでなく、もっと人間らしい情緒とでもいうべき点で、人生をより味わうためにあるようにも感じる。だから、間違っているとしても、あえてそれを無理に正す必要もなく、そのままでもいいのだ。いや、そのままであるからこそいいのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

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