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精節録 —オナ禁で得た知見—

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。

自分を自分で育てる

誰かから向けられた言葉に、もしも苛立ちを覚えることがあったならば、その時は自分で自分自身を評価することを怠ってはないないかどうか、日々を振り返ってみたい。

誰かからの評価について、全く自己への関与を許さないほどの自己評価を確立していこうという姿勢が、生活のどこかにないとすれば、まるで雲の上を歩いて行こうというのと同じであろう。仮に雲の上を進んでいけたとしても、地に足がついていなければ、常に下に落ちて行く恐怖がそこにはある。

そんな恐怖は、少なくとも僕には必要ない。必要ないものならば、それを自分から取り除くような対策を用意すれば良い。

簡単なところから始めていきたい。例えば、今日の睡眠は自分にとって十分摂れているか。今日の食事は自分にとって適切な量であるか。洗い物はきちんとやったか。掃除や洗濯をほったらかしにしてはいないか。今日の学びを得るために何か行ったか。学びを今日に活かせているか。何か運動はしたか。

それぞれに「○」でも「△」でも「×」でもいいから自分で自分を評価しておきたい。すると不思議なことに、他人と比較するような気持ちはどんどん薄れてくるものだ。人生が、社会との相対評価という正体の掴めないものから、自分自身との相対評価というはっきりとしたものによって、日々定義されていく。

誰かから馬鹿にされようとも、誰にも理解されなくとも、人を見下したり、人に嫉妬したり、そんなことに少しずつ感情を動かされないようになっていく。この恩恵はでかい。

自分で自分を、自律的な基準によって評価していく。そして、日々における改善や反省を明確に認識する。その中で、自らの基準を、自らにとっての重要性によって可変的に築き上げていく。その作業は「自分を自分で育てる」試みとでも言い換えることができよう。そうした育成に基づいて生きるならば、成長すればするほどに、どんどん自由が広がっていく。なぜなら、自らの基準を満たすということは「あるがままにあれる」とか「ありたいようにあれる」ということと同義であるから。

 

 

 

 

 

 

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