精節録 —オナ禁で得た知見—

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。

「可能」と「簡単」が増える。

やりたいことを突き進んでいると、やりたいけれども技術的にできないことに突き当たることがある。しかし、毎日の積み重ねの中で、勝手に必要な技術が習得できていたりすることがあって、そうすると、しばらく放置しておいた事柄が、後々するすると解決していくようになる。

そんな体験が何度も何度も繰り返されると、最初はできないように思えることにぶちあたっても、「まあ、しばらくすれば、自然と解決するだろう」という心理状態になっていった。その心理状態に応えるように、大抵の困難なことは、寝ている間とか、何をするでもなくぼーっとしているときとか、そんなときに脳がひとりでに勝手にひらめいてくれて解決してくれることが多い。

考えてみれば、僕はほとんど何もしていない。身体になんらかの問題を取り込んだだけで、その解答の出力が出力されるままに外部に出しているだけのようだ。僕の身体を、僕ではない何か妖精のような得体の知れないものが通り抜けていくようなイメージ。そうした勝手に身体を使ってくるような存在を拒否したりせず、むしろ待ち遠しいとすら思っているのは、とても不思議な感じがする。

新しいことに挑戦するのが、昔よりも怖くなくなったのは、この妖精の存在を徐々に知るようになったからで、自分ひとりで全てを抱え込んで挑戦するわけではないことが分かったからでもあるのかもしれない。

「そんな存在はいない」と人は言うかもしれないけれど、僕は「そんな存在を信じた方が、人生はもっと楽しくなるし、可能性は広がるし、孤独の恐怖から解放されるし、信じない方がもったいない」とすら思う。信仰の意義は、科学性の問題ではなく、合理性の問題によって示される。

もっと自在に想像力や創造力をつかって、生きていきたい。確かなことだけが、人生を豊かにするわけではない。時には、不確かなことの方が、不確かであるが故に、非常に強い心の支えになったりするのだから。

 

 

 

 

問い合わせ・他の記事はこちらへ(『自律録 —依存と向き合う同志たちへ—』)