精節録 —オナ禁で得た知見—

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。

批判のマナー。非難の不要さ。心の強さ。

自分自身にとって何かを「正しいとする感覚」は、自己の内部においては重要なインパクトを持っている。

しかし、その感覚が他者の内部においても、絶対に正しいなどと考えることは不毛な事態しか生まない。

他者が間違っているかもしれないという可能性と同様に、自らが間違っているかもしれないという可能性を常に把握しておかなければ、遂にはその前提を無視した批判が行われてしまいがちである。

批判とは対話の一種であり、対話とは、言葉と論理のみを用いて、それ以外の力によることなく、裸の言語によって、正誤の判断を模索し合う行為であろう。喧嘩のような殴り合いではなく、建築のような発展的な営みのはずだ。

それを行うには、知性よりも先に感情的な冷静さが必要になる。批判のふりをした非難は、相互的な視点や冷静さの欠如によってある程度判定できる。というよりも、何かを主張するにあたって、どちらか一方でも、論理よりも感情のウエイトが高まった時点で対話は不成立になる。であるならば、相手の感情を故意に刺激するような言動は、それだけで対話におけるマナー違反と言える。

対話は、そこに参加する人々の人間的な優位性を確認するようなお遊びではない。正義感覚を盾にして、誰かを無遠慮に責めるような行為は、当然対話でもないし、批判でもない。

主張された文字列が、いかにももっともらしい体裁を保っていようとも、主張者の態度が対話にそぐわないものであれば、正しさは意味を持たない。そうした態度を続ける限り、主張される正義感覚は、捨てられる生ゴミと変わりはない。

真理らしきものがあると想定したにせよ、誰かを不要に傷つけてまで主張する必要があるような真理などどうして存在するだろうか。自らの小さな満足のために誰かの心を大きく傷つけるような行為を正当化する根拠はどこにもない。自分が他人よりも優位性があると信じている者は、その信仰が自分の中だけでなく世界的に拡大したときにおこる悲惨さに目をつぶっているだけであろう。全ての存在が比較の中だけで自らの位置を決め込むような世界であるならば、人間は自らが有する「感情的な慣性」と「近所との小競り合い」によって、未来永劫、不満足のままで生きることになる。

こうした簡単な矛盾に気がつくならば、言葉の暴力をふるっている惨めさを思い知ることになる。その行為は、何を善くするわけでもなく、世界を不幸にしているだけであるから。

批判をするには技術がいる。誰にでもできることではないし、誰とでもできることではない。状況を間違えるならば、自分では優しさのつもりで発した言葉だとしても、相手の心臓を抉るような刃物に変わることもある。

その凶器は「偽善」と呼ばれている。

それを手に握っている者は、取っ手の棘によって、自らの手から血を流しながらも、自分自身の痛みに気がつかない。大抵、真面目な顔をしながら所構わず得物を振り回している。

しかし、多くの場合、悪意はないように思う。

ならば、必要以上に抵抗することもなかろう。

刺されても血が出るだけだ。

死にたくなるようなことがあっても、死ぬわけではない。

刺されても笑顔でいれるほど強い心を持ちたい。

笑っていれば、痛みは和らぐから。

 

 

 

 

 

 

 

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