精節録 —オナ禁で得た知見—

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。

確率信仰

僕は確率を信仰している。

確率に従ったゲームが好きだし、そうしたゲームでは、個別的な勝ち負けは問題ではなく、全体として確率が示す方向に勝率が決定されていく。すると結果的には、勝つことがすでに想定されている前提でゲームが進む。そんな状況では、負けが続くことが快感に変わっていくということが起こりうる。

もともと数字は好きだったけれど、数字は机上の空論ではなくて、目に見える自然現象なのだと、こうしたゲームや体験を通じて、確率を信仰するにいたった。

簡単にコイントスひとつをとってみても、1/2という力がそこに明瞭に存在していることを思い知らされることになる。1/2という力に従ったコイントスでは、子供と大人の喧嘩のように不均衡な結果が現れることはない。試行を無限に繰り返して行くならば、必ずその力は形として姿を現してくる。安定分布に代表されるようなあらゆるグラフは、そうした力の形であるといってもいいのかもしれない。

現実は確率的なゲームではないとする意見も多いけれど、そうした意見は、僕にはとても受動的に感じる。過去のデータを単純化して分析すれば、そこに確率の存在をつくり出すことができる。それが真実であるかどうかは、無限の試行という証明が必要になるから、実質的に真実かどうかは分からない。

しかし、そんなことは問題ではない。確率の力は「分からない」という時にこそ強烈な威力を発揮する。少し細工したコインを用いてコイントスを行うとしよう。相当数のデータを集積して、表が出る確率が6割だと計測できたとしよう。あくまでも計測結果であり、このコインがその確率に従っているのかどうかは誰も証明できない。けれど、その確率が真実でなかった場合でも、コイントスは表と裏しかなく、選択肢はふたつしかない。つまり、表の出る確率が1/2以下になりうる可能性自体が極めて低いということが事前に分かっているということになる。ならば、賭けを無限に行うことができるのであれば、やらない手はない。なぜならば、繰り返し行えば勝ち負けはちょうど半々程度に落ち着くか、それとも確率の優位性が真実であった場合、勝つ回数のほうが多くなることが想定できるからだ。

この考え方が、僕はとても好きで、実際にも使っている。面白いことに、試行回数が増えるごとに、その事前に想像された形状は、現実的に形作られていくことになる。まるで、パズルを埋めるように勝ちと負けが分布図を形成していく。そんなとき、負けるという事象も全体のうちのまぎれもない大切な部分であることに気がつかされる。

失敗や負けをとらえる視点が、こんなふうに作品の一部であることを了解するようになるなら、それ自体が快感になってくることが分かってもらえるように思う。

なぜなら、つくるということは喜びだから。

 

 

 

 

 

 

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