精節録 —オナ禁で得た知見—

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。

三種類の反応

自分は、計画や目的、あるいは目標、夢を持っている。

何かの拍子に、誰かとそれについて話すこともある。

たとえば、聞かれたり、話の流れであったり。

 

そんなとき、聞いてくれた後の反応が三種類あることに気がついた。

きっと、種類自体は、もっと沢山あるのだろうけど、僕が体験した中では、以下にあげる3つのパターンが顕著だった。

 

ひとつめ。

「理解できない」パターン。「理解できない」というところで話が終わればいいけれども、大抵は批判や非難に繋がる。最悪、人格否定まで進みかねないのが、このパターンの怖いところだ。基本的に、その相手が非常にリスク回避型だったり、あるいは、自信が過小だったりして、僕を責めることを通して、彼や彼女は彼や彼女自身を責めているんじゃないかというように感じる時があった。このパターンは、匿名性の高いインターネットにおいて最もポピュラーな気がする。

ふたつめ。

「面白そう」パターン。これは単純な会話になる。相手自身も何かしら自分の軸を持っていると、面白そうと思ってくれれば、興味を示してくれる。お互いにお互いを尊重し合えるので、変な風に歪んだ解釈が生じにくいのかもしれない。基本姿勢として、距離感をある程度保ち合うことで、お互いにお互いの短所を曇らせることができて、長所に目が向くようになるので、理想的な人間関係のひとつなのかもしれないと思う。

みっつめ。

「協力」パターン。興味を示した上で、自分の活動範囲との接点を見つけてくれて、そこに協力の可能性、あるいは相互に助け合える部分を模索して、提案をしてくれることがある。これは、ふたつめの「面白そう」パターンの延長なのかもしれないが、非常に有難いパターンなので、特筆したいと思った。なぜなら、チャレンジには、常にリスクがあって、リスクへの対応策として、その対処や処理の方法における多様性は無論多い方がいい。多様なリスク対応策があれば、多様な状況変化に対して、より堅固なチャレンジが継続できる可能性が高まる。そういう意味においても、もちろん心理的な心強さ的な意味においても、「協力者」の存在は本当に有難い。それもきっとお互いに助け合うことになるわけだから、その有難さは一方向的なものではなくて、双方向的になっていることが大半で、変な押し付けがましさや、妙な権力とか利権が絡み合うことも少ない。

 

以上。

正当な批判であれば、心の許容量を成長させていけば、受け容れられるようになって、自分自身の改善にしっかりと役立ってくれるので、これは有難いのだけれど、ただの非難(区別はいつも難しいけれど)は、正直、数日の間、心に引っかかりをつくってくる場合もあって、やっかいなことがある。

ただ、そんなときも、視点を変えてみて、「このくらいの心のダメージを悠々とやり過ごしていけるようになったらこの先もっと生きやすくなるな」と思い直せば、心の耐性がついていく自分の様子を喜ばしく思えるようになる。いつもそんな冷静になれるとは限らないけれど。

誰かからどんなに非難や否定をされたとしても(そこまでの否定を受けたことはないような気がするが)、自分の存在と願望について、自分自身がそれを否定することはできない。それは実際と矛盾してしまうのだから。

否定することができないのであれば、肯定するしかない。どんな困難な心理的状況に追い込まれたとしても、それを肯定し続けなければならない。つまり「そうしたらよい」という類いの話ではなくて、「そうせねばならない」という不可避な状態なのだ。

避けることができないのならば、進むしかあるまい。もし、避けきれなかった時は、つまり死ぬだけだ。自己を全うして死ねるならば、死は自己実現の副産物のようなものであると分かる。

やりたいことをやろうが、やりたいことをやらないでいようが、死は平等に訪れる。その選択について、自らで選び取る力が与えられているのだから、自分が望む方を常に選択していたい。すると、自分に軸ができる。軸があれば、誰かと協力し合うことができる。「共感」は生きている意味のひとつであるのだから、あえてそれを味わわないで生きている理由はどこにもない。

もっと、自分という存在が周囲ととけあいながら、いつか、境目を感じなくなるほどに、世界に自分を見出せたら、それはとても望ましい状態なんだろうと、思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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