精節録 —オナ禁で得た知見—

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。

「相手の気持ちを考えろ」という困難を越えていくために。

自分とは異なる視点を相手が持っているかもしれないということが頭で分かっていたとしても、その相手の視点がどのようなものであるかまで分かることはほとんどあり得ない。

だから、自分の主張を伝えるときに、自分にとっては正しいとしても、相手にとっては正しくないかもしれないということを、常に意識しておく必要があるが、それは意外と難しい。なぜなら、相手には正しくないかもしれないという意味において、自らが間違っているかもしれないということを認めるのは、自分の主張の客観性を疑うことであり、まず他者を責める気持ちに考えが向きやすくなる。さもなくば、自己矛盾に苛まれることを避けられないからだ。

そして、そうした自己懐疑心や自分が誤っている可能性について検証を絶やさない姿勢というものを、対峙しているお互いが同時に持っているということが理想ではあるものの、その状況というのは、誤りの可能性を認めるという困難さが単純に二倍に増えるわけだから、より難しいことが分かる。

相手の気持ちを考えた上で、自らの思いを伝えていくということにおける実践的な難しさは、こうしたところに起因しているように思う。

しかし、だからといって、難しいからという理由で、たとえば話し合いにおいて何も判断せずにいるということもできない。

だからそこでは、正しいからという理由で行為を実行するという意味ではなく、誤っているかもしれないが、何かあったときの責任は自らが負うという理由で行為を実行するための強烈な実行力、つまり胆力が求められる。

そうなると、もはや小賢しい論理はむしろ邪魔者となり、また、自分の能力やクオリティーなどはあまり価値を持たなくなる。必要となるのは、その胆力と行為を遂行するにあたって、応援してくれる人々の存在だ。それこそが、上手く進むための確率をあげる力になる。

なぜなら、複数での決定事項というのは、当然独りで行うことではなくて、皆で行うことだからだ。皆で行うことであれば、皆が価値を見出さなければならない。自らは、行為自体に価値があると考えている一方で、他の人が、それを理解してくれないとすれば、それを理解してもらうための最大限の努力が必要になるし、あるいは、行為自体ではなく、自分自身に価値を見出してもらう努力が必要になる。

きっとそれは、長い道のりだが、長い道のりだからこそ、その過程の中に信頼というものが自然とついてくるような気がしている。

 

 

 

 

 

 

 

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