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精節録 —オナ禁で得た知見—

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。

不屈の意欲を。

いつから、ゼロからつくることを恐れるようになったのか。

つくることはしても、誰かの前にさらすことを恐れるようになったのか。

誰かの前にさらしたことで、批判や否定をされることを恐れるようになったのか。

この恐怖は、生まれつきではないように思う。何度も何度も植え付けられては、記憶に刻み付けられて来た恐怖である気がする。

新しいことを始めるたびに、それが誰かに知られると必ず批判や否定の声がする。それは気のせいではなくて、間違いなく肉声でやってくる。なぜか分からないが、詮索者がやってくるのだ。きっと、悪気がないだろうことも分かる。もしかしたら、彼らは臆病な挑戦者の恐怖など感じたこともないのだろうから、仕方のないことなのかもしれない。あるいは、それを知っているとしても、嫉妬感情によるのだろうか。羨ましいという気持ちは僕も知っている。理解はできるが、共感はしたくない。感情を表現するにおいても、不要や無駄という場面はあるのだから、そんなときは、とにかく黙っていてほしいと思うのだ。

生きているのだから、創造力だけは、絶対に失いたくない。恐怖につぶされて、自らの創造力を失うくらいなら、恐怖とともに死ぬことを選ぶ。自分の道やレールは自分で敷くのが当たり前になっていって欲しいと思う。

「どうやってつくるのだろう」その疑問は、つくってみたら分かるのだから、つくるしかない。説明書?それも自分で書き上げるのだ。紙とインク?そこになければ、自らで代替物を探してくるのだ。どこにあるか分からない?だったら、記憶力を鍛え上げて、脳みそに地図を描き刻めばいい。どうやって鍛えたらいいのか?・・・もしこれ以上こんな質問が続くとしたら、僕は、もう沈黙するしかない。聞くよりも前に、教えられるよりも前に、僕らには「つくりあげる力」がある。

 

とある講演者が言っていたことを思い出す。それは学校で絵を描いていた少女の話だった。先生は少女に尋ねる。「何の絵を描いてるの?」少女は言った。「神様の絵を描いているの。」先生は言う。「神様なんて誰も見たことないから姿なんて分からないじゃない。」少女は答える。「もうすぐ分かるわ。」

 

 

恐怖に潰されてはならない理由がここにある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
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