精節録 —オナ禁で得た知見—

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。

シンプルな話

オナ禁は、オナニーをしたかどうか、それが問題になる。しかし、その境界線は多岐にわたることに気がつく。

欲望の狭間で自らと自問自答する。

「いや、ここまでならオナニーではない。」

「画像を見ただけでオナニーとは言えない。」

「これは、限りなくオナニーに近い何かであって、オナ禁を破ったことにはならないのだ。」

うんぬん。

さて、限りなくオナニーに近づいていった結果、結局オナニーをすることになるのは、オナ禁者の多くが経験するところだろうと思う。

僕は、ある段階で、この境界線のあいまいさにうんざりして、「射精したかどうか」それだけを問題とするようになった。ゆえに、このブログのタイトルは精節録として題してある。

この境界線をはっきりさせてから、しばらくすると、オナニーに至る要因が明瞭になってきた。

要因は、ひとつではない。生活の中にある様々なことが絡み合って要因が出来上がるし、単純に「依存」だけの問題でもないことが分かった。

性を刺激するもので世界は溢れていると言うが、果たして、同じように世界に生きている5歳児や例えばそのくらいの年の少年達は、毎日のように性的な刺激にさらされているだろうか。潜在的にはそうかもしれないが、実際は、その多くが無知によって守られているし、つまり、刺激自体が存在しないことと同義の状態が彼らにはある。

大人は、どうだろうか。快楽を得ることと引き換えに、無知を失っていくのかもしれない。そして、後戻りはできない。さらに成長することによって、その先に行かなければ克服はないのだろうと思う。

成長を阻害するものを克服するために成長する必要がある。失ったものを埋め合わせるために、さらに多くを得なければならない。まるで、毎日厚化粧をしている女性が、その肌へのダメージを少しでも軽減するために毎日美肌対策として多額のお金を注ぎ込むようなことにも似ているかもしれない。誰かが滑稽だと笑うかもしれないが、僕はそんなことはないと思う。得ることは素晴らしい。ただ、失う何かがあるだけだ。得ることによって失うことがあるからといって、何も挑戦せずに、人の批判に勤しんでいる残念な自慰行為よりは、よっぽど有意義だ。

だから、僕らの問題は克服にある。決して後戻りではないのだ。快楽に対する知識や体験とともに、それと向き合いつつ生きていく道を選ぶしかないのだから。

まず、オナニーに関して、二つに大別できよう。

現実逃避のためのオナニーと、そうではないものがある。

後者については、僕は個人的に、それほど危険視する必要はないと考えている。一番怖く、そして人生を破滅に導きかねないのは前者であるからだ。

これは、オナニーだけに限らないだろう。現実逃避とは、目の前の重要なことから逃げるということだ。重要なことをこなすための時間を、まったく重要ではないはずの快楽のために費やしてしまう状況、これはどうにかしなければならない。

この状況を依存のせいにしているうちは、いつまでたっても、現実逃避をやめることはできないはずだ。なぜなら、原因は依存ではなく、自分自身が逃げているその姿勢自体にあるのだから。

さて、「弱さ」の問題に向き合うことになる。

弱さを改善しようと思うのであれば、強くなる必要がある。いきなり弱さを克服できるような強さを身につけることは、どうやら難しい。しかし、今の自分と比較して、より強くなることならば、今すぐにでもできる。

畢竟、地道に改善を積み重ねていくことが、もっともシンプルで、その着実さが自信をつくっていくようにも思う。

問題の解決は、「驚くべき発見」や「まだ見たこともない方法論」などなど、そんなところを探すよりも、今この瞬間に存在している自らが弱さと向き合い、段階的に成長していく過程を喜びに変えていくような、そんな姿勢の中にこそ見出せるのではないかと、自明なことかもしれないが、そう思う。

誰かの方法論は、その必要時点を過ぎれば、ほとんど効果をもたないことが多いが、自らの段階的成長によって困難を乗り越えた自信は、一つの問題に限られることなく、経験とともに広がっては改善され、自らを形造っていくほどの力を持つ。

何かと向き合うときは、どうか自分の意識に騙されることなく、最も本質的なところから、着実に改善していきたい。そのためには、重要でない部分をいかに削ぎ落としていくか、それがまた課題になる。

 

シンプルに、そして着実に。

 

 

 

 

 

 

 

 
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