濃い味は、濃くて美味い。しかし、飽きるのが早い。
だから、少ない欲望ならば、味付けを濃くすると良いが、多い欲望ならば、味付けを薄くすると良い。
味付けの薄さは、素材のうまみを活かす。
さて、物足りなさは十分の証であることが多い。
ならば、寂しさを受け止めよう。人生は本質的に虚無でもあり、常に寂しさは隣にいるのだから。
それを脳内麻薬による充足感で、なんとかしようとすれば、依存までくっついてきてしまう。そんな充足感はどうやら行き過ぎたものになるらしく、すると感情の平均回帰によって以前より不足感は増してしまうだろう。
過ぎたるは及ばざるが如くの通りである。
物足りなさを感じて、何かをしようと心が動いているとき、だから気をつけなければならない。今から行うことが果たして、何を求め、何を得て、何を失うのか、一度立ち止まって考えなければならない。
実は、ちょっとつまらないくらいが、成長を刺激するスパイスになっていたりして、成長は人生をより有り難いものに変えてくれるときもあるのだろう。なぜなら、つまらないと感じたものの中から、そこにある面白いものに気がつくためには、創造的でなくてはならないから。
生きていることが有り難いなら、寂しさは生きている何よりもの証のはずだ。つまり、感謝と寂寥感は表裏一体のものである。感情を刺激しやすい表だけにとらわれているうちは、実際今がどんなに満足な状態であるか、まだまだ知ることはできないのだろう。
ドーパミンが過剰分泌されると、その受容体は減少する。つまり、過剰を繰り返していると、日常の喜びがどんどんすり減っていくということだ。
逆ならばどうだろうか。ドーパミンの分泌が適量あるいは、腹八分目くらいであるなら
受容体は維持あるいは増加するのでは?
どうもダウンレギュレーションとアップレギュレーションという言葉があるようだ。
そうだとすれば、いずれにせよ全体を俯瞰するならば、幸福感がその人の適正値に対して、平均回帰をするために、体が様々な作用を起こしていることが分かる。
あとは選択の問題だろう。自分がどのような生き方を望むのか次第だ。それはもう、体で味わいながら考えていけばいい。
どうも、生き方というものも、自分の心、その中心に対して離れたり近づいたりしながら、探求していくようなものに思える。