海揺録

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。精節録というブログ名でした。

やってみれば、できるのだと分かる。

料理。

毎日似たようなものばかり食べていると、どうも舌が飽きてくる。すると気分まで滅入ってしまう。

料理の種類など、人が想像すればした分だけ増えていくような、そんな際限のないものなのに、わざわざ同じような食事をしていることもない。

白米の次は、パン。パンの次は、パスタ。パスタの次はうどん。らーめん、そば、焼きそば、、、。さて、誰かが、選択肢があるのは贅沢だとでも言うだろうか。いやいや、粉をこねる手間を惜しまなければ、そんなにたいそうなものではないだろう。

ならば、飽きがくるのも、気分が倦怠するのも、選択肢を開拓しようとしない自らの責任に他ならない。

 

生活。

毎日似たような生活を送っていると、どうも寂寥とした感覚や、よくわからない焦りの中で追い立てられていく。あるいは、蟻地獄のように、飽きる感覚に慣れ親しんでいく。

人の生き方など、想像しうるだけ多様に広がるものなのに、なぜ妙なループに迷い込む必要があろう。これだけ可能性に満ち溢れた世の中で、わざわざ飽きるために生きる必要がどこにあるだろうか。

しかし、生活の糧のためには、、、と誰かが決まって呟くが、生活の糧を得る手段もまた、多様で無限の拡がりがあるのを忘れてはいないか。

ならば、倦怠や焦燥、諦めなど、そういった感覚は、どうやら、可能性への挑戦や開拓を怠った自らに責任があるに違いない。

 

やってみれば、どうとでも始まるのだ。始まれば、やめない限り終わらない。自らを信じるなら、たいていの困難は、ある日振り返ると、足跡の中に踏まれて消えている。

 

 

 

 

 

 

 
 問い合わせ・他の記事はこちらへ(『自律録 —依存と向き合う同志たちへ—』)