分からないことがあろうとも、時は進む。
時が進めば、ことは流れていく。
時の流れに従って記憶は風化され、美化され、それぞれに変わる。
時には無為が、あらゆる有為よりも素晴らしいことがある。
しかし、それがいつなのか、分からない。
ふと、何としても行動せよ、という考えが浮かぶ。
時には、そうした考えが、何もしないことよりもいいときがある。
されど、先に述べたように逆もまた然りなのだ。
悩みは続き、その悩みに終わりがあるかどうか、分からない。
どちらを選ぶにせよ、後悔の可能性は避けられない。
判断は迅速に?なぜ急ぐ必要があるのか。
行動は迅速に?なぜゆっくり歩んではいけないのか。
人生は一度きり?もし二度目があったら、一度目は適当にするのか。
命には価値がある?ならば、無為であっても誇りをもてるではないか。
悩んでる暇があったら?形に見えることでなければなぜ安心できないのか。
成長せよ?伸びる方向はどちらが善いのか知っているのか。
可能性を活かせ?別の可能性を増やす前に、今ある可能性を活かせているのか。
果敢に挑戦せよ?それはいいが、自らの臆病さを無下にすることはない。
存在する性質を無下にすること無く、あらゆる言葉に融通無碍でありたい。
急かす言葉を左の手のひらにおいて、右の手をその上にかぶせてしまう。
心は、言葉よりも心によって、その働きを全うしたい。
言葉を処理するのは、言葉を処理するところだけで十分だ。
仮に耳が聞こえなくとも、目が見えなくとも、心は生きていて、働くのだ。
形にとらわれれば、交換に支配されていく。
自らで、自らの欲を創り出すことを忘れたとき、誰かの欲の奴隷に成り下がる。
言葉によっては、何一つ分からなくとも、それでいい。
自己決定の範囲の話であれば、邪心さえなければ、何事もどちらでもいいのだ。