精節録 —オナ禁で得た知見—

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。

まなびを得るために必要な性質

自主的であること。

まじめであること。

 

まなびを得るために必要な性質を、経験から思い返してみると、

このふたつが確かにそうであるなと感じる。

 

もし、何からもまなびを得ることがなければ、何も変わらずに日々を送ることになる。

もしかしたら、それでもいいのかもしれないが、日々の中で自らを少しでも反省する機会があるとしたら、どうしても変わりたい部分というのは見えてくる。

何かが上手くいかないとき、まじめにやり続けて、悔しさを思うこともある。

しかし、その悔しさこそが、感情的にはしりぞけたくなるものの、自分のためには、なによりもの宝であることは疑いが無い。「良薬は口に苦し」だろうか。

適当な者には、そうした強烈な感情はわき起こらないものだ。

ただし、適当とまじめの狭間の中に、自分の適正を認める。

それは、無理をしないということだ。交錯する善のトレードオフを、自然な心の作用の中で、自らに落とし込んでいく。

そこには、自ら以外の尺度で規定されるような何かは無い。あるように思えても、違和感だらけで、「思い込み」という麻酔によって感覚を麻痺させない限りは、自らで調整する他にないようなものなのだ。

自主性は、そこからはじまる。好悪といった主観的な善悪について、自らを起点として、その改善や撤廃の判断を自身の背中に乗せて歩いていかなければ、自主性は鍛えられない。まるで、足腰のように、使わずに衰えていけば、待っているのは、鍛錬を怠った自らへの後悔だろう。

足腰が強くなるから、歩いていける範囲が広がるのだ。世界が狭いと思っているとしたら、その原因は他でもなく、自分の踏破力の惰弱さにあることに気がつかなければいけない。

目に見えない力は、目に見えないゆえに、鍛えれば鍛えるほどに際限なく強化されうる。

目に見えるものや、目に見える成果に、つい足下をすくわれそうになるが、そうしたものは、地に深く宿る根があってはじめて意味をなすように思うのだ。

 

最も大切なものを、最も大切にしたい。

当たり前のことだけれども、なぜだかとても難しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
 
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