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精節録 —オナ禁で得た知見—

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。

エロとの付き合い方(3)

過去、体型を改善するために、自身の本能を精神力が上回り、餓死をした人がいるという。彼の理想は、死にあったのだろうか。

(真偽の話は置いておこう。)

 

さて、本題。

エロを求める本能を、仮に精神力によって克服したとしたら、僕らに何が起こるのだろうか。

 

たいてい、本能と理想が対立した時、自分の理想の方が優位であると、思い込んでしまう節があるが、それは本当のことだろうか。本能と理想が和解できる術はないのだろうか。

 

つまり、本能との付き合い方は、それを抑え込むことによってではなく、向き合うことによって自己内部で和解し、自らの味方とすることができたら、どれだけ生きやすくなるだろうかと思うのだ。

 

さて、敬語の話にヒントがあるように思う。もともと礼や作法によって、敬意を身体で覚えることを旨としたはずだが、今やどうだろうか。

 

形式にとらわれすぎるあまり、礼や作法を知らない者は、見下され、あるいは恥を感じる。そしてそれを当然と思い込んでいる。言葉遣いそのものは、人格の優劣には無関係だ。やはり、メリットの裏側にはデメリットがある。

 

本題と関連づけよう。

エロを避ける一番の方法は、目玉を潰し、耳を塞ぎ、性器を無くすことだ。見える喜びや、聞く喜び、性的な喜びを享受するならば、それ相応の辛さや悲しみを覚悟せねばなるまい。生きることに死が必要であることと同様に。

 

僕は、そこまでしてエロを禁じようとは思わない。なぜなら、喜びを享受したいからだ。しかし、この喜びはどうやら単純な自慰で得られるそれとは全く違う。しばらくの間、エロについて考えてみて、本当に欲しているものが何か、うっすらと分かってきた。

 

エロを細分化して見よう。

そこには、セックス、性癖、パートナー、快楽、キス、抱擁、様々な要素が含まれている。ここからイメージできるのだが、オナ禁とは、どうやらパートナーとの接触がないときにおけるエロに関わる行為を禁ずるものなのだ。

 

実のところ、性的な快楽やセックスは、1人でも得られる。それに関して現代は、とんでもなく技術を進歩させてきた。

しかしだ。どれだけその技術が進もうとも、仮想的な相手との関わり方は、当然、血の通ったコミュニケーションではない。そこには基本的にリスクがない。少なくとも生身の人間同士が関わり合うことにおいて、ノーリスクはありえないのだ。なにが起こるかは分からないから。

 

本当に欲しているエロは、擬似的なそれによっては、今のところどうやら代替できない。どこまでいっても孤独な満足に過ぎないの。

 

もちろん、孤独な満足そのものを欲する時だって当然ながらある。しかし、大抵の性的欲求は、パートナーを欲するそれであることが多いから、注意が必要なのだ。

 

今求めているエロが何なのか、常に問い続けなければなるまい。技術は、孤独な満足を孤独ではないかのように擬似化してくることは間違いない。それが、完全に一致するような時が来るのかどうかは知らない。

 

その境界線と向き合いながら、自問自答するときに、重要な考え方を見つけた。

「セックスは1人でもできる。しかし、キスや抱擁によって愛し合うことは、1人ではできない。」

 

 

 
 

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