海揺録

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。精節録というブログ名でした。

自由と勇気

自らの信念などが、社会や周囲の風潮と一致しないような時、自らの正しさを確信していたにせよ、妥協や遠慮を考えることがあるかもしれない。


そうした多くの場合、勇気という言葉によって、解決を見出すことができるだろう。


さて、君の人生はまず君のものであり、他の誰かと連携はしているにせよ、第一は君自身の信念によって前進をさせていくものであろう。


他者の思いに従うような場合は、必ず自らの意思となんらかの一致点がなければ、それは自由ではなく、強制の内に生きることである。


あえて不平等に甘んじることを、僕はまともな人間性だと考えることはできない。それは論理的に矛盾を孕んだ生き方であるし、心理的にも到底納得できるものではない。


全ての個々が、力を尽くして自らを全うする責務を持っている。それは文字通り、時には命を懸けて、自らを全うする覚悟を持つ必要を意味している。
そのことを根本的に意識しなければなるまい。


自身の信念と自由を遂行する覚悟を決めよう。
いかなる障害にも屈せず、時には命を懸けて前に進む勇気を振り絞らなければならないのだ。

 

さて、風潮如きがなんだというのだろうか。
鴻鵠や、焉んぞ大鳳の志を知らんや。

 

孤独と自由に、
最も必要な気質のひとつは、
勇気だ。

 

千万人と雖も吾往かん。

 

好きなことを仕事にしよう。何も諦める必要はどこにもない。

僕は、前に進むことも多いけれど、悩むことも多い。

そんな中で、確かな経験から確信していることがいくつかある。

でもきっと、これは理論の話ではないのだろう。

おそらく信念の話だ。

 

まず自分のために生きているか、それが一番最初に問いたいことだ。

自分の人生における自分にとっての幸福感は日々徐々に改善されているだろうか。

この問いに笑顔が出るならば、きっとその道は自分にとって正しいとしていいだろう。

 

次に、それが誰かのためになっているか、これが二番目の問いだ。

趣味と仕事の境界線をあえて引くとしたら、ここにあるだろう。

この問いに対して正直に頷けるならば、その行為は社会性を持っていると言える。

 

さて、一番目の問いと二番目の問いの両方をクリアできたならば、

どうしてその人は幸せでいられないことができようか。

 

きっと妬みはあるかもしれないが、

そんなものは、自らが夢中になって没頭していける行為の最中には、

なんの邪魔にもなりはしない。

 

邪魔ができない嫉妬心は、矛先を失った剣に等しい。

いたずらに刃物を振っていれば、

自らを切り裂いていくだけなのだから、

きっと彼らは次第に黙って剣をしまうだろう。

 

僕の信念としては、

自分のためにやっていることが誰かのためになるというのが、

理想的な生き方であると確信している。

この生き方においては、誰が不幸になるだろうか。

世の中の幸せは改善の方向にしか進みようがない。

 

好きなことを仕事にしよう。

なぜなら、それはまず自分のためであり、

その上で人のためになるから。

まず自分すら幸せにできないような人間が、

どうして他人を幸せにしようなどと思い上がることが許されるだろうか。

 

何も諦める必要などないのだ。

 

見えない恐怖心があって動けないならば、

大抵風邪をひいているか、睡眠不足が原因だから、生活を見直そう。

 

価値観は多様だということは百も承知だが、

その上で僕は、自分のこの信念を公言して、

人々にこの思いを共有して欲しいと願っている。

 

なぜなら、「みんなが幸せになれる」という

理想状態が実現することを想定するとすれば、

この信念を抜きにしてはどうしてもそれを語ることはできないからだ。

 

最後に奇妙な例え話をして、今回の記事をおわりにしようと思う。

 

君が、坂道を転がることを決めたならば、

君は、どんどん角が削れて丸くなっていく。

丸くなるほどに、進む速度は速くなっていく。

選ぶ坂道は一番急なものがいい。

 

ただし、坂道を登ろうとするならば、

君の進みは遅く、日々は苦しいものになるだろう。

君の角が、時に人を傷つけてしまうこともあるだろう。

 

坂道は下るものなのだろう。

なぜなら、その方が速く、

そして遠くに行けるから。

なぜなら、その方が君は丸くなるから。

 

たとえ、君の周りの人々が坂道を登ろうとしていたとしても、

君にはそれを圧倒的なスピードで下っていって欲しい。

そのスピードは、確かに最初は怖いかもしれないが、

次第に慣れていく。そうするとまだまだ速くなる。

自分でも自分を止めることなどできなくなる。

 

君は、ふと誰かにぶつかってみたくなるだろう。

まるでビリヤードの玉のように、

君の運動は誰かに伝わっていく。

 

僕には、こうした一連の流れは、

とても自然なもののように思えるのだ。

 

おわり。

 

粗探しする人々を

何かと粗を探してくるようなタイプの人というのは、いろんなタイミングで出会う。

 

一緒に何かをしていくには、こちらの熱量を減退させていくこともあるから、何となく距離を置きたくなるけれど、その人たちの力を借りると非常にベストマッチな事柄というのがあることに気がつく。

 

粗を探す力に関しては、本当にスペシャリストなのだから、その力を上手く活用させてもらえるならば、強力な味方を手に入れたことと同義だろう。

 

例えば、細かい見積書をチェックしてもらうことなどは、まさにうってつけだろう。

どこかに粗がないかどうか常に目を光らせているから、すぐに穴に気がついてくれる。

細か過ぎて、読む気にならないようなものでも、最初に分かりやすい穴をひとつ用意しておけば、そこから勢いをつけて、きっと素晴らしい力を発揮してくれるに違いない。

 

すると、こちら側は、相手を噓っぽく褒めておだてる必要もなく、勝手に彼らは有能感を得る。こちらも、欠点は欠点であるのだから、それに納得できる上に、むしろ見積もりの段階でそれが見つかったことに感謝を示せれば、お互いに気分を害すこともない。

 

発生した人間関係はなるべく有効に巻き込んで、

周囲をも含めた全体的な人生を豊かにしていきたい。

 

確かに困難も多いが、僕は難しいゲームの方がやっていて面白いのだからその方がいいのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

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牢屋のベットの上で。

牢屋で生まれた男は言った。
「この世界は甘くない。現実は厳しい」と。

新しく入ってきた囚人の一人はこの言葉を聞いて驚いた。

この監獄にはいくらでも抜け道があり、ここから出ようと思えば、少し穴を掘るだけでよかったからだ。
どうやら監視人は多忙で、誰かが脱獄しても気がつかないようだし、ちょっとした苦労で出られることはすぐに分かったのだ。

しかし、この新参者はふとした好奇心から、
少しの間、脱獄を後回しにして、
厳しいと言われている監獄というものを散策してみることに決めた。

まず、すぐに気がついたこととして、多くの囚人たちが同じ生活で、定められた起床時間に応じて起床し、それに合わせて睡眠をとっているようだった。

彼らには、好きな時に好きなように寝ることは許されていない。多くの囚人は、眠気に不満を漏らしながら、大抵いつも眠そうに日々の作業をこなしている。けれど、不思議なことに、そんな環境を本当に嫌って、脱獄を試みる人は少ないようだ。


仲間内で脱獄の話をしようものなら、人々はそこに妙な嫌悪感や恐怖感を示す様子が見て取れた。
時に、他の監獄から移動してきた人がいると、向こうの監獄はどんな様子だったとか、こちらと比較してどっちが住みやすいかなど、和気藹々と話している。
彼らには、監獄以外にも世界があるという認識がどうやら薄く、そんな世界の話をしようとすれば、まるでそれらはファンタジーのことだと思っているくらいだった。

次に分かったことは、この牢屋の中には社会階層があって、大別すると使用者と被使用者がいるということだ。細かく見ていくと、奴隷の下に奴隷がいて、その下にまた奴隷がいる、というような形で、生活の快適さの違いを無視すれば、みんな奴隷のようなものだった。

散策に飽きてきた頃、彼はそろそろここを出ようと思い立ち、脱獄計画を進めることにした。といっても、穴を掘りすすめるだけの単純なことだ。

監視人が目を離している隙に、穴を掘り進めていると
近くの囚人がそれに気がついて走って近づいてきた。
どうやらすごい剣幕だ。
「危ないから、そんなことするのはやめておけ。」
顔には恐怖と不安、そして一抹の羨望感が見えた。

穴を掘る手を止めることなく、彼は答えた。
「大丈夫ですよ。仮に中にいようとも、外にいようとも、いつかは死ぬだけの未来ですから。仮に内側に不満があるとすれば、僕は外に出て不満のない人生を自分で創ります。」

彼の脱獄が現実のものに近づくにつれて、周囲の眼差しは色々な意味で強くなっていった。拒絶感からなのか、邪魔する者もいて、時には穴を埋められたりしたが、彼は黙々と日々脱獄の達成に近づいていった。

ふと、彼は思い出した。
この監獄に入り立ての時に看守から聞いた言葉。
「決められたことの中で、決められた『自由』を満喫する。それがこの世界の人生の全てだ。」
周りの人々の多くはその言葉に頷き、なぜか納得していた。

決められた『自由』?
それはまさに不自由というのだ。
自由とは、自らの決定であり、自己規律そのものである。
規律の有無さえも自己の判断の元に置くからこそ自由なのだ。
それは、自分が納得できないものには従わないということだ。

ふと穴の先から光が差し込んできて気がついた。
「、、、監獄から出ようが出まいが、僕は自由じゃないか。」
問題は、環境にあるのではなく、自分自身の考え方にあることが、
そこで、はっきりと見えたのだ。

監獄にいようとも、脱出がいつでも可能な状況であるなら、
何も問題ではない。嫌だったら出ればいいからだ。


なるほど。

何人かの平和そうな囚人たちや魅力的だった人々の存在を思い出して、よくよく考えてみた。
「もしかすると、ここの世界にはもっと面白いことがあるかもしれない。」

その夜、彼は、自分の牢屋のベットの上で満足そうに眠っていた。

 

 

 

 

 

 

 

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夢はポケットの中に

さて、性欲と向き合うためにはどんな方法があるだろうか。

ひとつに、性的な欲望のレベルを下げていくということがある。
例えば、僕の場合、食事に対する欲望のレベルというものは、生活が他のことで満たされていくことでどんどん下がっていった。睡眠に対する欲望のレベルも同様で、何かに集中できているときは眠くなりはしない。つまり、「それ」以外の何かによって生活を満たしていくことで「それ」に対する欲望はその領域を狭めていく。欲望のレベルは相対的に下がるのだ。実際に胃袋に何も入っていなくとも、丸一日起きていようとも、何かに集中しているときは腹も減らないし眠くもならない。
話を飛躍させよう。

なぜ生きるのか、という問いに真剣に向き合うならば、なぜ食べるのか、なぜ寝るのか、ということの根本を求めることができる。この問いと向き合い、その解を求めたり、創り出していくことで生活が満たされていくならば、その他の欲望は静かにレベルを下げていくに違いない。おそらく、他者からの承認欲求などもそうなるだろう。世俗的な快楽の類は、生きる意味に満たされた生活の中においては、入り込む隙間などなくなっていかざるを得ない。
抽象的なイメージとして、心の中では常に領域の奪い合いが行われている。欲望はそれぞれ自我を持ち、それぞれが満たされようと他の領域を相対的に狭めていく。すると、生きていれば新しい欲望が次々にやってくるものだから、欲望の地図は、死ぬまでにどんどん大きくなっていく。そして、それに伴って残された時間はどんどん少なくなっていく。すると、人生は後半になるにつれて、短く感じていくのだろうということが予測できる。人生の焦燥感は、欲望の地図の大きさを残された時間で割ったものに等しいであろうから。
ならば、死ぬまでに向けて、どんどん自らの欲望の地図を小さくしてやっていくべきなのだ。それは欲望を諦めていくということではなく、相対的な領域の奪い合いをやめさせるということを意味する。本当に求めるべき欲望を絞り込んで生きていこうと決めれば、欲望たちは小さな地図の中に治まってくれるような気がする。すると、無益な領域の奪い合いは止まるだろう。それぞれが実現に向けて動き出したならば、その一歩一歩が達成感となり地図に印を刻んでいく。肥大していた欲望は、一歩の実現と同時に、主張をやめて現実的なサイズに縮小していく。

そうすれば、きっと人生はもっと豊かにできる。残された時間でも十分にその欲望のために進むことができるならば焦燥感を計算する必要もない。地図がポケットに入るサイズになったのなら、それは現実的な夢を手にしたことと同じだ。それは、空想的ではない自分の生きる意味を手に入れたことと同じだ。ならばこそ、一歩一歩を焦ることなく進み続けていくことができるのだ。

 

 

 

 

 

 

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自由なればこそ孤独。

虚構的な人生を振り切って、自由への道を一歩一歩と進んでいく覚悟を決めたとする。その道のりは大抵長く、そして何よりも孤独だ。

そこにある孤独というのは、精神的な孤独であり、誰にも理解されない旅が永遠と続くことを意味している。

もしも自由を幻想として、それを諦めて生きていくならば、そこには多くの仲間のような存在がいて、きっと共同体的な安心感を生む。その生活がどんなに矛盾したものであっても、その安心感はおそらく他にはない。

自由に踏み出していくことを決めた人間は、周囲から理解されないだろう。何故ならば、多くの人はそれを幻想としているのだから。彼らにはきっとそんな人間は、幽霊を探しに出かけた狂人にすら見えるのかもしれない。仮にどんなに親しい人間であっても、幽霊ハンターを真面目に応援するような人は少ないだろう。

それでも、君にはその「幽霊」が現実のものなのだと見えている。長い長い旅路の間、君はずっと幽霊ハンターとして周りから認識されているだろう。

理解されないだけならまだしも、見下されるのはプライドが許さないかもしれない。しかし、忍耐もこの旅の醍醐味なのだ。黙って進むしかない。幽霊の存在を証明するには、言葉では不可能だ。証明したいならば、君の旅の全てとそこにかけた命をもって示す以外に方法はない。そして、君の生きている間ではその願いはもしかすると叶わず、次世代へとその思いを繋いでいくことになるかもしれない。

「自由」に価値を感じ、それを実現したいと願うならば、孤独の辛さというものがその代償であるということをきちんと受け入れて、誰に理解してもらおうともせず、ただただ黙々と愚直に進んでいくのみだ。

確かに道中険しいが、生きる意味をそこに創り出したなら、歩む一歩一歩に確かな喜びが内在していることを感じるのだ。

 

もしかすると、どこかに同じ思いを抱えている方々がいるかもしれないと思って、こんな記事を書いていた。おわり。

 

 

 

 

 

 

 

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愚凡でもいいから。愚凡であるからこそ。

同じ歳月を過ごしているのに、同世代の人々の中でこうも能力や知性に差が生まれるのは非常に面白く、そしていつも現実の残酷さを表している。

どんなに人々が皆同じように生活を過ごしていようとも、諸々の条件における分布は広がる。異常値があり、平均があり、エリートが存在し、別の軸に生きる意味を見出す人もいる。

自らを測定する軸は、環境やタイミングによってその測定に用いる条件を変化させては、時には平均よりも上にいることに無駄に喜んだり、どうしたってエリートの範囲に入ることができないことを諦めては、その欲望と決着をつけようとしたりする。

「あの木の上の方についている果実は、全て酸っぱいブドウなのだから、この木にわざわざ登る意味はないのだ」と言うように自分の正当化を行なって生きていくこともあろう。

愚凡であることを諦められない時に、何か理由を探す。何が足りなかったのか、どうしたら遥か先に足を運んでいる人々に追いつけるのか考えてみようとする。客観的に考えれば、まるで、猿が魚を見て「どうしたらあんなに上手に泳げるようになるのだろうか」とでもいうようなことを考える。ヒレの存在を見つけて、無理やり自分の体にくっつけてみようとするが、それはとても不自然で、どうやったって魚のように泳げるようにはなれないことに薄々気がつき始める。

魚は猿に言う。

「何でそんな程度しか泳げねえんだ。俺は生まれからすぐに泳げるようになったし、呼吸するのと同じくらい泳ぐのなんて簡単なことなのに。君は何をそんなに必死になって溺れているんだい。君は木に登るのが得意なのだから、それをしていればいいじゃないか。悔しい思いもせずに済む。」

猿は答える。

「羨ましいんだ。泳ぐことに憧れている。君たちのように海の中で自在に動き回りたい。僕には泳ぐ才能は微塵もないけれど、こうして試行錯誤していれば、いつか君と同じくらいに海の中を自由に泳ぐことができるようになるかもしれない。それに何より、木に登ることよりも、こうやって考え詰めて、想像したことが実現していく過程がとても面白いんだ。」

それから、数千年が過ぎ去った。

あの猿は、その知恵を後世に引き継ぎ続けることにして、それはどうやら上手くいった。

今や、海の中には「潜水艦」と名付けられた大きな機体が深海をも自在に泳ぎまわっている。凶暴な鮫にも喰われることはない。そしてその技術は、誰にでも扱えるような類のものにまで発展し、ライセンスさえあれば誰であれ海を自在に泳ぐことができるようになった。猿の理想は、彼単独の憧れで終わることなく、あらゆる者たちの憧憬を満たすところまで、おそらく彼の予想を超えて実現した。

なぜだろうか。それは彼が泳ぐ才能に微塵も恵まれなかったからこそ、微塵も泳げないことを前提に技術が発展していったからだ。だから、あらゆる人々に応用可能となった。

何よりも、彼は「考えることが面白い」と言った。試行錯誤の中で上手くいかないことに悔しさを感じる以上に、それが面白く、そして好きなことだったのだ。似たような趣向を持つ者たちは、当然彼の意思を引き継いでいった。

愚凡であるからこそ、それを補うために応用度の高い技術を目指さざるを得なかった。そしてその結果として、呼吸をするように泳いでいた魚を驚かすほどの技術となった。

もはや、彼らは生きていないから、まさかここまでになっているとは思ってもいないだろう。それこそが時間というものなのだ。少しずつ積み重なったものが組み合わさると、複利によって資産が増大するように、技術の複合は驚くべき結果をもたらす。

こうなると競争原理は、必ずしも忌避するものではないことにも気がつく。それを無益な嫉妬感情に負けることなく、成長過程を楽しめるならば、自らに備わっている比較感情は、自らが愚凡であるからこそ、そこに大きな意味を持つことになる。

以上、作り話と、それについて考えたこと。おわり。

 

 

 

 

 

 

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