海揺録

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。精節録というブログ名でした。

心配するなら金をくれ

いつからか遠い先のこと見なくなっていった。

現状の改善にその日のすべてを費やしているうちに、日々それ自体が達成であり、その達成こそが、今日の全てであるとして認識するようになった。

だから未来には基本的に希望の方が多い。以前、心に住み着いていた鬱屈した不安の虫のような存在はどこかに忘れた。ときに、焦りの種が、嘘くさい不安を持ってくることがあるが、すっと寝てしまえば、そいつらは消えることを知った。

するとなぜだか、時として周囲の人々が、僕以上に僕の未来について心配をしてくるようなことになった。最初のうちは、ありがたいことの一つであるかのように思って、内心のうざったさを覆い隠していたが、徐々に、なぜ人のことに妙な心配をふっかけてくるものかと疑問に思うようになった。

最近では、「本当に心配するならその気持ちを金にしてくれよ」と心の中で考えるまでになって、それがいいのか悪いのかわからないが、「心配」という言葉に隠された他者の欺瞞に多少敏感になっているような気がする。

心の声。

「心配している?嘘をつけ。その薄汚れて錆びついた好奇心が、何かに取り組んでいる者の足を引っ張っているということを反省してみたらどうだ。」「その口から発される『心配』という言葉の中にあるいくつもの矛盾こそが、自己欺瞞を為していることの何よりもの証拠ではないか。しかし、そうやって君が自分に嘘をついているということを誰も責めはしない。その卑屈さを周囲に撒き散らすのだけは勘弁してくれ。」

こんな風に少し苛立ってみてから、落ち着いて考え直すとあることを思う。

「欺瞞的な心配」というものは誰かの邪魔をするか、何もしないかであって、この世において、何の意義もないことに気がつく。ならば、相手にする必要はない。それに何らかの形で応じることはない。愛情によってそれらを受け止めたり、感謝する心の余裕がないときは、無視をしたって全然構わないし、それが健全な精神を維持することになる。今まで通りに希望を持って、日々の達成を喜びとして生きていくだけだ。

 

 

 

 

 

 

 

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自分を自分で育てる

誰かから向けられた言葉に、もしも苛立ちを覚えることがあったならば、その時は自分で自分自身を評価することを怠ってはいないかどうか、日々を振り返ってみたい。

誰かからの評価について、全く自己への関与を許さないほどの自己評価を確立していこうという姿勢が、生活のどこかにないとすれば、まるで雲の上を歩いて行こうというのと同じであろう。仮に雲の上を進んでいけたとしても、地に足がついていなければ、常に下に落ちて行く恐怖がそこにはある。

そんな恐怖は、少なくとも僕には必要ない。必要ないものならば、それを自分から取り除くような対策を用意すれば良い。

簡単なところから始めていきたい。例えば、今日の睡眠は自分にとって十分摂れているか。今日の食事は自分にとって適切な量であるか。洗い物はきちんとやったか。掃除や洗濯をほったらかしにしてはいないか。今日の学びを得るために何か行ったか。学びを今日に活かせているか。何か運動はしたか。

それぞれに「○」でも「△」でも「×」でもいいから自分で自分を評価しておきたい。すると不思議なことに、他人と比較するような気持ちはどんどん薄れてくるものだ。人生が、社会との相対評価という正体の掴めないものから、自分自身との相対評価というはっきりとしたものによって、日々定義されていく。

誰かから馬鹿にされようとも、誰にも理解されなくとも、人を見下したり、人に嫉妬したり、そんなことに少しずつ感情を動かされないようになっていく。この恩恵はでかい。

自分で自分を、自律的な基準によって評価していく。そして、日々における改善や反省を明確に認識する。その中で、自らの基準を、自らにとっての重要性によって可変的に築き上げていく。その作業は「自分を自分で育てる」試みとでも言い換えることができよう。そうした育成に基づいて生きるならば、成長すればするほどに、どんどん自由が広がっていく。なぜなら、自らの基準を満たすということは「あるがままにあれる」とか「ありたいようにあれる」ということと同義であるから。

 

 

 

 

 

 

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植物への憧憬。

生物全体において、植物の賢さは比類がないもののように思う。

自らの栄養を全て循環の中で吸収し、そして全体へ貢献する。

人間がどれほど人工知能や機械化、自動化によって、その機能を拡張していったとしても、自然の大きさからすれば、なんとも小さな働きだろう。自然はもともと「自動」だ。

都市に住む人間が増え、畑を耕す人間は減った。生産の仕事から離れ、椅子に座り、誰かに指示を出し、誰かの働きを利用しながら、自らに富を集中させようとして、四苦八苦しているならば、植物をみならいたい。

そこに権力はない。自然な流れの中で、他の存在の力を利用する。利用される側に嫌々従う存在はいない。力の弱い植物たちは、何かを従えることができない。きっと力が強くなろうとも、そんなことはしないだろう。そんな無駄なことに労力を費やすことなく、目的を果たせることを知っているのだから。

彼らは遊ぶし、踊るし、寝る。合理性を持っているし、常に全体への貢献を果たしている。他の存在とつながり、からみあい、とけあう。成長の途中で、土壌の栄養を他の存在と奪い合うこともあるのかもしれない。その戦いは、とてもシンプルだ。生きようとするもの同士が、自らが生きるために戦う。もしかすると、なんらかの複雑さの上にそのシンプルさが見えるだけかもしれないが、僕は、植物たちの「ただ生きるために戦う」というその姿勢に憧憬する。なぜなら、目的観がフェアだからだ。

自分が死ぬ可能性を前提として、他者の命と戦い、自分が生きる可能性を見出そうとしている。安全地帯で自らの命を危険に晒すことなく他者の命を奪うようなことはしない。

人間は、リスクの多くを避けると同時に、本質的平等への公正さを失って行くように見える。リスクは避けるものではなくて、それを了承することで、別の道を見出せるように思う。「ただ生きる」ということが、とても難しく感じるのは、きっとリスクを避けてきた代償に他ならないのかもしれない。

 

 

 

 

 

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「可能」と「簡単」が増える。

やりたいことを突き進んでいると、やりたいけれども技術的にできないことに突き当たることがある。しかし、毎日の積み重ねの中で、勝手に必要な技術が習得できていたりすることがあって、そうすると、しばらく放置しておいた事柄が、後々するすると解決していくようになる。

そんな体験が何度も何度も繰り返されると、最初はできないように思えることにぶちあたっても、「まあ、しばらくすれば、自然と解決するだろう」という心理状態になっていった。その心理状態に応えるように、大抵の困難なことは、寝ている間とか、何をするでもなくぼーっとしているときとか、そんなときに脳がひとりでに勝手にひらめいてくれて解決してくれることが多い。

考えてみれば、僕はほとんど何もしていない。身体になんらかの問題を取り込んだだけで、その解答の出力が出力されるままに外部に出しているだけのようだ。僕の身体を、僕ではない何か妖精のような得体の知れないものが通り抜けていくようなイメージ。そうした勝手に身体を使ってくるような存在を拒否したりせず、むしろ待ち遠しいとすら思っているのは、とても不思議な感じがする。

新しいことに挑戦するのが、昔よりも怖くなくなったのは、この妖精の存在を徐々に知るようになったからで、自分ひとりで全てを抱え込んで挑戦するわけではないことが分かったからでもあるのかもしれない。

「そんな存在はいない」と人は言うかもしれないけれど、僕は「そんな存在を信じた方が、人生はもっと楽しくなるし、可能性は広がるし、孤独の恐怖から解放されるし、信じない方がもったいない」とすら思う。信仰の意義は、科学性の問題ではなく、合理性の問題によって示される。

もっと自在に想像力や創造力をつかって、生きていきたい。確かなことだけが、人生を豊かにするわけではない。時には、不確かなことの方が、不確かであるが故に、非常に強い心の支えになったりするのだから。

 

 

 

 

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批判のマナー。非難の不要さ。心の強さ。

自分自身にとって何かを「正しいとする感覚」は、自己の内部においては重要なインパクトを持っている。

しかし、その感覚が他者の内部においても、絶対に正しいなどと考えることは不毛な事態しか生まない。

他者が間違っているかもしれないという可能性と同様に、自らが間違っているかもしれないという可能性を常に把握しておかなければ、遂にはその前提を無視した批判が行われてしまいがちである。

批判とは対話の一種であり、対話とは、言葉と論理のみを用いて、それ以外の力によることなく、裸の言語によって、正誤の判断を模索し合う行為であろう。喧嘩のような殴り合いではなく、建築のような発展的な営みのはずだ。

それを行うには、知性よりも先に感情的な冷静さが必要になる。批判のふりをした非難は、相互的な視点や冷静さの欠如によってある程度判定できる。というよりも、何かを主張するにあたって、どちらか一方でも、論理よりも感情のウエイトが高まった時点で対話は不成立になる。であるならば、相手の感情を故意に刺激するような言動は、それだけで対話におけるマナー違反と言える。

対話は、そこに参加する人々の人間的な優位性を確認するようなお遊びではない。正義感覚を盾にして、誰かを無遠慮に責めるような行為は、当然対話でもないし、批判でもない。

主張された文字列が、いかにももっともらしい体裁を保っていようとも、主張者の態度が対話にそぐわないものであれば、正しさは意味を持たない。そうした態度を続ける限り、主張される正義感覚は、捨てられる生ゴミと変わりはない。

真理らしきものがあると想定したにせよ、誰かを不要に傷つけてまで主張する必要があるような真理などどうして存在するだろうか。自らの小さな満足のために誰かの心を大きく傷つけるような行為を正当化する根拠はどこにもない。自分が他人よりも優位性があると信じている者は、その信仰が自分の中だけでなく世界的に拡大したときにおこる悲惨さに目をつぶっているだけであろう。全ての存在が比較の中だけで自らの位置を決め込むような世界であるならば、人間は自らが有する「感情的な慣性」と「近所との小競り合い」によって、未来永劫、不満足のままで生きることになる。

こうした簡単な矛盾に気がつくならば、言葉の暴力をふるっている惨めさを思い知ることになる。その行為は、何を善くするわけでもなく、世界を不幸にしているだけであるから。

批判をするには技術がいる。誰にでもできることではないし、誰とでもできることではない。状況を間違えるならば、自分では優しさのつもりで発した言葉だとしても、相手の心臓を抉るような刃物に変わることもある。

その凶器は「偽善」と呼ばれている。

それを手に握っている者は、取っ手の棘によって、自らの手から血を流しながらも、自分自身の痛みに気がつかない。大抵、真面目な顔をしながら所構わず得物を振り回している。

しかし、多くの場合、悪意はないように思う。

ならば、必要以上に抵抗することもなかろう。

刺されても血が出るだけだ。

死にたくなるようなことがあっても、死ぬわけではない。

刺されても笑顔でいれるほど強い心を持ちたい。

笑っていれば、痛みは和らぐから。

 

 

 

 

 

 

 

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確率信仰

僕は確率を信仰している。

確率に従ったゲームが好きだし、そうしたゲームでは、個別的な勝ち負けは問題ではなく、全体として確率が示す方向に勝率が決定されていく。すると結果的には、勝つことがすでに想定されている前提でゲームが進む。そんな状況では、負けが続くことが快感に変わっていくということが起こりうる。

もともと数字は好きだったけれど、数字は机上の空論ではなくて、目に見える自然現象なのだと、こうしたゲームや体験を通じて、確率を信仰するにいたった。

簡単にコイントスひとつをとってみても、1/2という力がそこに明瞭に存在していることを思い知らされることになる。1/2という力に従ったコイントスでは、子供と大人の喧嘩のように不均衡な結果が現れることはない。試行を無限に繰り返して行くならば、必ずその力は形として姿を現してくる。安定分布に代表されるようなあらゆるグラフは、そうした力の形であるといってもいいのかもしれない。

現実は確率的なゲームではないとする意見も多いけれど、そうした意見は、僕にはとても受動的に感じる。過去のデータを単純化して分析すれば、そこに確率の存在をつくり出すことができる。それが真実であるかどうかは、無限の試行という証明が必要になるから、実質的に真実かどうかは分からない。

しかし、そんなことは問題ではない。確率の力は「分からない」という時にこそ強烈な威力を発揮する。少し細工したコインを用いてコイントスを行うとしよう。相当数のデータを集積して、表が出る確率が6割だと計測できたとしよう。あくまでも計測結果であり、このコインがその確率に従っているのかどうかは誰も証明できない。けれど、その確率が真実でなかった場合でも、コイントスは表と裏しかなく、選択肢はふたつしかない。つまり、表の出る確率が1/2以下になりうる可能性自体が極めて低いということが事前に分かっているということになる。ならば、賭けを無限に行うことができるのであれば、やらない手はない。なぜならば、繰り返し行えば勝ち負けはちょうど半々程度に落ち着くか、それとも確率の優位性が真実であった場合、勝つ回数のほうが多くなることが想定できるからだ。

この考え方が、僕はとても好きで、実際にも使っている。面白いことに、試行回数が増えるごとに、その事前に想像された形状は、現実的に形作られていくことになる。まるで、パズルを埋めるように勝ちと負けが分布図を形成していく。そんなとき、負けるという事象も全体のうちのまぎれもない大切な部分であることに気がつかされる。

失敗や負けをとらえる視点が、こんなふうに作品の一部であることを了解するようになるなら、それ自体が快感になってくることが分かってもらえるように思う。

なぜなら、つくるということは喜びだから。

 

 

 

 

 

 

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