海揺録

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。精節録というブログ名でした。

「可能」と「簡単」が増える。

やりたいことを突き進んでいると、やりたいけれども技術的にできないことに突き当たることがある。しかし、毎日の積み重ねの中で、勝手に必要な技術が習得できていたりすることがあって、そうすると、しばらく放置しておいた事柄が、後々するすると解決していくようになる。

そんな体験が何度も何度も繰り返されると、最初はできないように思えることにぶちあたっても、「まあ、しばらくすれば、自然と解決するだろう」という心理状態になっていった。その心理状態に応えるように、大抵の困難なことは、寝ている間とか、何をするでもなくぼーっとしているときとか、そんなときに脳がひとりでに勝手にひらめいてくれて解決してくれることが多い。

考えてみれば、僕はほとんど何もしていない。身体になんらかの問題を取り込んだだけで、その解答の出力が出力されるままに外部に出しているだけのようだ。僕の身体を、僕ではない何か妖精のような得体の知れないものが通り抜けていくようなイメージ。そうした勝手に身体を使ってくるような存在を拒否したりせず、むしろ待ち遠しいとすら思っているのは、とても不思議な感じがする。

新しいことに挑戦するのが、昔よりも怖くなくなったのは、この妖精の存在を徐々に知るようになったからで、自分ひとりで全てを抱え込んで挑戦するわけではないことが分かったからでもあるのかもしれない。

「そんな存在はいない」と人は言うかもしれないけれど、僕は「そんな存在を信じた方が、人生はもっと楽しくなるし、可能性は広がるし、孤独の恐怖から解放されるし、信じない方がもったいない」とすら思う。信仰の意義は、科学性の問題ではなく、合理性の問題によって示される。

もっと自在に想像力や創造力をつかって、生きていきたい。確かなことだけが、人生を豊かにするわけではない。時には、不確かなことの方が、不確かであるが故に、非常に強い心の支えになったりするのだから。

 

 

 

 

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批判のマナー。非難の不要さ。心の強さ。

自分自身にとって何かを「正しいとする感覚」は、自己の内部においては重要なインパクトを持っている。

しかし、その感覚が他者の内部においても、絶対に正しいなどと考えることは不毛な事態しか生まない。

他者が間違っているかもしれないという可能性と同様に、自らが間違っているかもしれないという可能性を常に把握しておかなければ、遂にはその前提を無視した批判が行われてしまいがちである。

批判とは対話の一種であり、対話とは、言葉と論理のみを用いて、それ以外の力によることなく、裸の言語によって、正誤の判断を模索し合う行為であろう。喧嘩のような殴り合いではなく、建築のような発展的な営みのはずだ。

それを行うには、知性よりも先に感情的な冷静さが必要になる。批判のふりをした非難は、相互的な視点や冷静さの欠如によってある程度判定できる。というよりも、何かを主張するにあたって、どちらか一方でも、論理よりも感情のウエイトが高まった時点で対話は不成立になる。であるならば、相手の感情を故意に刺激するような言動は、それだけで対話におけるマナー違反と言える。

対話は、そこに参加する人々の人間的な優位性を確認するようなお遊びではない。正義感覚を盾にして、誰かを無遠慮に責めるような行為は、当然対話でもないし、批判でもない。

主張された文字列が、いかにももっともらしい体裁を保っていようとも、主張者の態度が対話にそぐわないものであれば、正しさは意味を持たない。そうした態度を続ける限り、主張される正義感覚は、捨てられる生ゴミと変わりはない。

真理らしきものがあると想定したにせよ、誰かを不要に傷つけてまで主張する必要があるような真理などどうして存在するだろうか。自らの小さな満足のために誰かの心を大きく傷つけるような行為を正当化する根拠はどこにもない。自分が他人よりも優位性があると信じている者は、その信仰が自分の中だけでなく世界的に拡大したときにおこる悲惨さに目をつぶっているだけであろう。全ての存在が比較の中だけで自らの位置を決め込むような世界であるならば、人間は自らが有する「感情的な慣性」と「近所との小競り合い」によって、未来永劫、不満足のままで生きることになる。

こうした簡単な矛盾に気がつくならば、言葉の暴力をふるっている惨めさを思い知ることになる。その行為は、何を善くするわけでもなく、世界を不幸にしているだけであるから。

批判をするには技術がいる。誰にでもできることではないし、誰とでもできることではない。状況を間違えるならば、自分では優しさのつもりで発した言葉だとしても、相手の心臓を抉るような刃物に変わることもある。

その凶器は「偽善」と呼ばれている。

それを手に握っている者は、取っ手の棘によって、自らの手から血を流しながらも、自分自身の痛みに気がつかない。大抵、真面目な顔をしながら所構わず得物を振り回している。

しかし、多くの場合、悪意はないように思う。

ならば、必要以上に抵抗することもなかろう。

刺されても血が出るだけだ。

死にたくなるようなことがあっても、死ぬわけではない。

刺されても笑顔でいれるほど強い心を持ちたい。

笑っていれば、痛みは和らぐから。

 

 

 

 

 

 

 

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確率信仰

僕は確率を信仰している。

確率に従ったゲームが好きだし、そうしたゲームでは、個別的な勝ち負けは問題ではなく、全体として確率が示す方向に勝率が決定されていく。すると結果的には、勝つことがすでに想定されている前提でゲームが進む。そんな状況では、負けが続くことが快感に変わっていくということが起こりうる。

もともと数字は好きだったけれど、数字は机上の空論ではなくて、目に見える自然現象なのだと、こうしたゲームや体験を通じて、確率を信仰するにいたった。

簡単にコイントスひとつをとってみても、1/2という力がそこに明瞭に存在していることを思い知らされることになる。1/2という力に従ったコイントスでは、子供と大人の喧嘩のように不均衡な結果が現れることはない。試行を無限に繰り返して行くならば、必ずその力は形として姿を現してくる。安定分布に代表されるようなあらゆるグラフは、そうした力の形であるといってもいいのかもしれない。

現実は確率的なゲームではないとする意見も多いけれど、そうした意見は、僕にはとても受動的に感じる。過去のデータを単純化して分析すれば、そこに確率の存在をつくり出すことができる。それが真実であるかどうかは、無限の試行という証明が必要になるから、実質的に真実かどうかは分からない。

しかし、そんなことは問題ではない。確率の力は「分からない」という時にこそ強烈な威力を発揮する。少し細工したコインを用いてコイントスを行うとしよう。相当数のデータを集積して、表が出る確率が6割だと計測できたとしよう。あくまでも計測結果であり、このコインがその確率に従っているのかどうかは誰も証明できない。けれど、その確率が真実でなかった場合でも、コイントスは表と裏しかなく、選択肢はふたつしかない。つまり、表の出る確率が1/2以下になりうる可能性自体が極めて低いということが事前に分かっているということになる。ならば、賭けを無限に行うことができるのであれば、やらない手はない。なぜならば、繰り返し行えば勝ち負けはちょうど半々程度に落ち着くか、それとも確率の優位性が真実であった場合、勝つ回数のほうが多くなることが想定できるからだ。

この考え方が、僕はとても好きで、実際にも使っている。面白いことに、試行回数が増えるごとに、その事前に想像された形状は、現実的に形作られていくことになる。まるで、パズルを埋めるように勝ちと負けが分布図を形成していく。そんなとき、負けるという事象も全体のうちのまぎれもない大切な部分であることに気がつかされる。

失敗や負けをとらえる視点が、こんなふうに作品の一部であることを了解するようになるなら、それ自体が快感になってくることが分かってもらえるように思う。

なぜなら、つくるということは喜びだから。

 

 

 

 

 

 

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何をしても批判がやってくる。何をしなくとも批判がやってくる。

ほとんど笑えてくるような話である。

何をしても必ず批判が待ち構えている。

特に表現活動を行うならば、どこからともなく批判がやってくる。

で、それにうんざりした結果、例えば、何もしないことを選択したとしよう。

恐ろしいことに、何もしないことに対しても批判を加えてくる者がどこからともなくやってくる。

なるほど、生きるということは、同時に批判されるということなのだろう。

いや、死んでからも批判され続ける者もいることを考えると、生きるということのみにこの話は留まらない。

では、いかにしても避けることのできないものであるならば、対処を考えればよい。

対処法はふたつ。無視するか、向き合うか。

感情的にも無視できるのであれば、無視することは非常に精神衛生上好ましいのかもしれない。しかし、感情的に無視できないことが多いから困ることになる。

では、無視できないならば、向き合うしかない。鋼のような心を持っているような人で、表現活動を行う人はおそらく少ないはずだ。好きでやっている一面、嫌になるほど繊細な部分があるから、何かを表現することでそれを吐き出して、心のバランスをとるようなことをしているようにも思う。

繊細な心で、感情に土足で踏み込んでくるような批判と向き合うことは、たいてい辛いものだろう。自分では無視しているつもりでも、目や耳に入ってくるそれらは、心を蝕んでいくこともある。

ただ、それは理不尽かもしれないが、存在の条件なのだ。

批判からの逃げ道はない。

ならばそれらを楽しもうとする方へ思考をシフトしていきたい。

そのためには、自我を自分から切り離しておきたい。

本来楽しくないことを楽しむにはどうすればよいか。

しかし、そんな術はどこにもないのだろうか。

もしも楽しむことができないとすれば、どうしたらようのであろうか。

批判による感情の落ち込みを避けること自体を諦めるしかない。

もはやそれを生きることに伴う当然のこととして受け容れることになる。

怖くて当たり前。嫌で当たり前。むかついて当たり前。

そうして経験が耐性をつくってくれる気がする。気のせいかもしれないが。

結局何一つ分からないが、この理不尽さを、自分からは発しないように心掛けるしか、自分にできることはないのかもしれない。

意欲を削いでくるような何かがやってくることを前提にして、意欲を高めておきたい。どんなに削がれようとも溢れ出てくるような意欲をつくっていきたい。意欲が無限大化できるならば、批判にまつわるほとんどの問題は解決するようにも思う。睡眠は、いつも意欲の大いなる源となっている。だから、一日の意欲に全ての問題を押し付けるような愚行は避けるように心掛けたい。もっとロングスパンで、物事を考えたい。きっとそれが大切なのだろう。

 

 

 

 

 

 

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「まじめ」を諦める。

最近、自分の取り組みにおける試行錯誤に没頭するあまり、その他のことがどんどん疎かになっている。

ただ、それはもう諦めることにした。

やりたいことをやるのならば、それ以外のことは二の次にならざるを得ない。

結果として、自分の成したいと思い描いていたあらゆる事柄は、どんどん形になってきていて、それが非常に心強い自分の支えになっている。

有形の功徳とでもいうのだろうか。

たとえば、何も積み重ねることの無い毎日を過ごしていたこともあった。

そんなときは、「まじめ」に生きてはいるものの、なぜか退屈で、その退屈さを誤摩化すためにオナニーに興じていたこともある。そんなときのオナニーは、そんな背景もあってか、実のところすごく虚しいものだった。

虚しさにおそわれると、自分は一体何をしているんだろうかと、自己嫌悪に苛まれて、その鬱屈した感情が、一歩前に踏み出そうとする行動力を削いでいたということに、今になって気がつく。

「まじめ」に生きていると思っていたことは、実は全然中身なんてなくて、とても受け身で、言われたことを忠実にこなすという意味で「まじめ」だと思い込んでいただけだった。

そんな中身のない「まじめ」を失うことは、それしか取り柄のない生き方をしていたものだから、とても怖いものだった。いや、単純に怖いのではないかと思い込んでいて、実際に手放そうとしなかっただけかもしれない。

今考えれば、奇妙な罠の中に嵌っていたとしか思えない。

生きるということは、何かの奴隷であることとは真逆であろう。

奴隷であることに誇りを持つなど、どうしてできよう。

しかし以前の僕は、よりよい奴隷であることを目指していたのだ。

「真面目」という漢字は、真の面目と読める。

誰かから与えられた仮面をかぶったままの人間が、「真面目」であるはずがない。

自分の裸の姿をもって、恥をさらしながらも「真面目」に生き抜いていきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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遊ぶように生きる。趣味が世界をつくる。

色々あるけれど、とにかく、遊ぶように生きられたらいいと思っている。

だって、本気で遊んでいるときの集中力に勝るような力は、ほとんどない。寝食を忘れるほど生きることを楽しめているような時間は、大抵そうした集中の中にある。自分の可能性を最大化したいと思うなら、これ以外に選択肢はないように思う。

それでも「言い訳」や「逃げ口上」に苛まれそうになってしまうが、「遊ぶように生きる」以上に自分に正直な生き方があるわけでもなく、妙な縛りを振りほどいては、集中のその中に没頭していく。

誰に何を言われようとも、誰かを故意に傷つけるようなことをしていないのならば、ただただ自分と自分の人生とを楽しんで笑って進み続けるだけだろう。

 

趣味が世界をつくっている。

それは、根本的には誰かとの比較に楽しみがあるわけではなくて、まさにそれ自体を楽しみとして、誰から何かを奪うわけでもなく、何の格差を生むわけでもない。

だから、競争や比較のために生きる人が減り、趣味のために生きる人が増えるほど、世界は善くなる。個人個人が、誰と比べるわけでもなく善くなるのならば、それだけで世界は改善される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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三種類の反応

自分は、計画や目的、あるいは目標、夢を持っている。

何かの拍子に、誰かとそれについて話すこともある。

たとえば、聞かれたり、話の流れであったり。

 

そんなとき、聞いてくれた後の反応が三種類あることに気がついた。

きっと、種類自体は、もっと沢山あるのだろうけど、僕が体験した中では、以下にあげる3つのパターンが顕著だった。

 

ひとつめ。

「理解できない」パターン。「理解できない」というところで話が終わればいいけれども、大抵は批判や非難に繋がる。最悪、人格否定まで進みかねないのが、このパターンの怖いところだ。基本的に、その相手が非常にリスク回避型だったり、あるいは、自信が過小だったりして、僕を責めることを通して、彼や彼女は彼や彼女自身を責めているんじゃないかというように感じる時があった。このパターンは、匿名性の高いインターネットにおいて最もポピュラーな気がする。

ふたつめ。

「面白そう」パターン。これは単純な会話になる。相手自身も何かしら自分の軸を持っていると、面白そうと思ってくれれば、興味を示してくれる。お互いにお互いを尊重し合えるので、変な風に歪んだ解釈が生じにくいのかもしれない。基本姿勢として、距離感をある程度保ち合うことで、お互いにお互いの短所を曇らせることができて、長所に目が向くようになるので、理想的な人間関係のひとつなのかもしれないと思う。

みっつめ。

「協力」パターン。興味を示した上で、自分の活動範囲との接点を見つけてくれて、そこに協力の可能性、あるいは相互に助け合える部分を模索して、提案をしてくれることがある。これは、ふたつめの「面白そう」パターンの延長なのかもしれないが、非常に有難いパターンなので、特筆したいと思った。なぜなら、チャレンジには、常にリスクがあって、リスクへの対応策として、その対処や処理の方法における多様性は無論多い方がいい。多様なリスク対応策があれば、多様な状況変化に対して、より堅固なチャレンジが継続できる可能性が高まる。そういう意味においても、もちろん心理的な心強さ的な意味においても、「協力者」の存在は本当に有難い。それもきっとお互いに助け合うことになるわけだから、その有難さは一方向的なものではなくて、双方向的になっていることが大半で、変な押し付けがましさや、妙な権力とか利権が絡み合うことも少ない。

 

以上。

正当な批判であれば、心の許容量を成長させていけば、受け容れられるようになって、自分自身の改善にしっかりと役立ってくれるので、これは有難いのだけれど、ただの非難(区別はいつも難しいけれど)は、正直、数日の間、心に引っかかりをつくってくる場合もあって、やっかいなことがある。

ただ、そんなときも、視点を変えてみて、「このくらいの心のダメージを悠々とやり過ごしていけるようになったらこの先もっと生きやすくなるな」と思い直せば、心の耐性がついていく自分の様子を喜ばしく思えるようになる。いつもそんな冷静になれるとは限らないけれど。

誰かからどんなに非難や否定をされたとしても(そこまでの否定を受けたことはないような気がするが)、自分の存在と願望について、自分自身がそれを否定することはできない。それは実際と矛盾してしまうのだから。

否定することができないのであれば、肯定するしかない。どんな困難な心理的状況に追い込まれたとしても、それを肯定し続けなければならない。つまり「そうしたらよい」という類いの話ではなくて、「そうせねばならない」という不可避な状態なのだ。

避けることができないのならば、進むしかあるまい。もし、避けきれなかった時は、つまり死ぬだけだ。自己を全うして死ねるならば、死は自己実現の副産物のようなものであると分かる。

やりたいことをやろうが、やりたいことをやらないでいようが、死は平等に訪れる。その選択について、自らで選び取る力が与えられているのだから、自分が望む方を常に選択していたい。すると、自分に軸ができる。軸があれば、誰かと協力し合うことができる。「共感」は生きている意味のひとつであるのだから、あえてそれを味わわないで生きている理由はどこにもない。

もっと、自分という存在が周囲ととけあいながら、いつか、境目を感じなくなるほどに、世界に自分を見出せたら、それはとても望ましい状態なんだろうと、思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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