海揺録

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。精節録というブログ名でした。

思っていること。

やりたいことのために生きて、

やりたいことのために死にたい。

それを遂げるためならば、

どんな苦しみでも耐え忍ぼうと思える。

もしも、やりたいと思わないことのために生きるなら、

僅かな苦しみでさえ、どうしてあえて耐え忍ぼうとする力が湧いてくるだろうか。

意味のない苦しみを味わうほど、惨めな生き方はないように思う。

しかし、苦しみに意味があるのならば、

立ち塞がっている壁が、いかなる艱難辛苦であろうとも、

それを乗り越える力は、自分の内側から湧いて出てくるものだ。

だから、やりたいことを続けていく途中、

どんな過酷な壁が待っていようとも、

僕は意味のある生き方をしたい。

つまり、自分に正直でありたい。

 

ただ、それだけのことが、以外と難しい。

日々の少しずつの成長が、それを可能にしていく。

自らの意欲や不安とか、批判の声を受け容れる器が

大きくなればなるほどに成長は加速する。

 

それさえ分かっていれば、

焦ることなく器の焼き上がりを待つことができる気がする。

 

創造力は、正直な心の中に湧いてくる。

だから、自分の自然な状態を、変な風にねじ曲げて

心をゆがめてしまわないようにしたい。

 

創造力が、生きる意味をつくり、

苦しみに意味を与える。

 

日々の行動力は、

そうして出来上がっていく意味が

感情を揺さぶるほどに強くなっていく。

 

「もっともっと」と求めるべきは、

贅沢や栄華や単純な快楽ではなくて、

生きる意味の深さや強さなのではないかと、

僕は本心から思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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それでもオナ禁をする理由

前回の記事「オナニー肯定論」の続きを書こうと思ったけれど、そんなことよりも、それでもオナ禁を続ける理由について書く方が、大切なように思って、そうすることにした。

僕は、オナ禁に対して、してもしなくてもどちらだってよいのであろうという考えを持っている。この考え方はオナ禁のみならず、世の中で「したほうがいい」とされていることに対しても、興味が持てない場合は、そんなことまったく無視してしまうように、どうも成長してしまった。

むしろ、「そんなことして何の意味があるのか」と言われるようなことであっても、自らの興味や考えの中に内包できると思ったら、とりあえず手を出してみる。いろんなことに手を出しているから、身内であっても周りからは何をしているか分からないという認識をもたれることが多い。世界の認識が違えば、言葉は通じない場合もあって、理解してもらおうと弁舌を達者にすることは基本的に放棄した。話すことは苦手なのかもしれない。

オナ禁の話に戻る。僕が思うに、オナ禁の素晴らしさは、オナ禁から得られる効果そのものというよりかは、自分自身で自分自身がつくりあげた規則に基づいて自分自身を律していくという、「自由」の体現にあって、そうした「自律」の姿勢が、生活全般に波及していくという点に、いつも可能性を感じている。

あと、他のオナ禁の同志に怒られるかもしれないが、ネーミングが微妙にダサかったり、目標を決めて達成したからと言って公言することにあまり意味がないようなちょっとした恥ずかしさが潜んでいるのが、とても好きだ。

小さな子供が、親に隠れて、自分だけの小さな秘密基地をつくるような感覚と言ったら、この子供の純粋さをけがしてしまうようだけれど、まさに「内緒の喜び」という、誰とも比較し合うことのない、本質的な自分自身の喜びを享受することができて、しかも、これは、誰かを傷つけたり、誰から嫉妬されたりなど、おそらくされようもない楽しみなのだ。これほど素晴らしいこともない。

逆に言えば、オナニーもまったく同じ性質を持っている。しかし、それは自律的な自由ではなくて、どこか奔放な自由になる。僕は、それもまた好きなのだ。だから、ときにはそうした奔放さを実現できるように、規則を構築する。

自分自身で行動を規制しているならば、誰が何と言おうが、僕はそれをオナ禁と呼びたい。なぜなら、オナ禁の本質は、日数よりも、エロ禁よりも、自己における自制心の実現にこそ存していると、考えているからだ。

オナ禁の質問に、「エッヂングや汁遊びは、オナニーに含まれますか?エロ鑑賞は何分までならセーフですか?」などというものを見ることもあるが、僕はそれに対してはっきり言いたい。「自分で決めろ。それがオナ禁だ。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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オナニー肯定論

適切でないオナニーにおいては、確かに害悪が多いということは周知の事実であるように思う。

さらに言うと、僕が述べようと思っている考え方は、おそらく多くの点で間違っているものと思う。

しかし、ある一点においては、多様な生き方や善が共存する現代で、皆が共通に認識しておくとよいであろう問題について、オナ禁という個人的視点のみでは考えることが難しいところを、多少なりとも考察できているのではないかと思って、あえてこのタイトルで文章を書いてみることにする。

オナニーは、自分自身の問題として扱うには、目に付く害悪の部分が非常に多い。例えば、過激なポルノがパートナーとの性生活に支障をきたす可能性については、それがゼロとは言い切れない以上、もしも最悪の場合を想定するのであれば、パートナーのことを考えて避けるべき事柄であるように思う。しかし、こうした問題は、経験を積み、パートナーとのコミュニュケーションが適切に為されていくならば、乗り越えていける話でもある。

思い出すと、今でも可笑しいのだが、僕は、当時処女だった彼女とセックスをしたとき、彼女が気持ちよさで喘いでいるのか、痛くて喘いでいるのか分からなかった。もちろん後日談で、痛くて喘いでいたことが分かって、酷く反省した。それまでにAVは何百本、サンプルを含めれば何千本と見ていたから、そのくらいは当然分かるものと思っていた。けれど、自分が実際には、喘ぎ声と悲鳴の区別すらできないような男であることを思い知って、セックスは「見ている」のと「実際にする」のとは大違いであることを、彼女の苦痛と悲劇を代償に学ぶことになった。

ただ、馬鹿みたいな体位を試してみたりしたときに、相手が「それはいや」とか「いたい」とか「やだ」とか言ってくれたお陰で(相手の微妙な反応からは分からないことが多いということが分かったので言ってくれるように頼んだ)、徐々に「何が良いのか」という基本的な部分が改善されていくと、性生活においてAVも役に立つようになることがあるという可能性を知るようになった。

エロに触れていく中で、古今東西におけるアイデアのすごさ、ジャンルの広さ、その底のなさが、他の分野の事柄にまったく引けを取らないものがあることに気がつくし、更新のスピードも速い。それらを鑑賞するとき、僕ら男は、基本的に情を差し挟む余地なく、好みでないものを切り捨てていく。顔がタイプでなければ、30秒もたたないうちに別を探す。

そうしているうちに、自分が興奮するジャンルを見つけ出していくことになる。数年も立てば、自分がスク水に興奮するのかしないのか、二次元を受け入れるのか受け入れないのか、むしろ二次元しか受け入れないのか、胸の大きさの好みはどれか、ギャルは好きか嫌いか、など、無意識にも選別作業の中で自分を見つけていくことになる。

その興味の幅が、きっと後々のセックスのまんねり、ひいては、関係性全般のまんねりの打開策になったりもする。

いや、きっとそれは他の分野にも共通することだから、もしもパートナーと自分が似たような趣味をもっているならば、そこの幅や深みを増していくことで、いい結果がもたらされるに違いない。けれど、男なら理解してくれる人が多いが、女性のショッピングに6時間も付き合うようなことがあるとすれば、それは楽しみではなく、ほとんどが忍耐になる。きっと女の子も、男たちが血眼になって好みのAVを探索することに時間を費やすことに、ほとんど共感できないはずだし、嫌悪感を抱くこともあるだろう。

つまり、本当に理解し合える個人的感心を共有できるならば、それは非常に有難いことだが、希少性は高いように思う。その希少なものである、共有しうる個人的感心の中にセックスが含まれているならば、もしも2人で探求しないとすれば、それは非常にもったいないことであるように思うのだ。

例えば、ここにコスプレ好きの男がいて、彼女がコスプレをするのが好きだった場合、お互いに恥ずかしがって、打診し合わないとしたら、もっと2人で楽しめた可能性を、どれだけの夜あるいは朝に、見過ごしていることになるだろうか。

さらにいえば、男の側がもしも、自分がコスプレプレイが極度に好きであるということを知らないままでいたとすれば、それは自分自身の探求を怠ったことによる損失にすら見える。けれど、この辺りからは、個人的な自由の問題に関わっているのであまり他人が首を突っ込むものでもない。押し付けがましい意見は止めておく。

色々、話が脱線してしまって、本題に入る前に長文になってしまったので、序文だけれども、一旦この辺で区切ることにしたい。

続きを書く気になれば、また次回にでも書いていきたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

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理解者とは探すものではなくて、自らがなるもの。

「自分のことを理解できる人などいるのだろうか」という問いは、なんとも惨めな問いであろうか。逆に、「自分は誰かを少しでも理解することができているだろうか」という問いは、どれほどの心の優しさを必要とするだろうか。

自らの理解者を欲するのであれば、それに先んじて自らが、誰かの理解者となるべく努めることのみが、その願いを叶えるための術であるように思う。

愛情や優しさは、自然な感情ではあるものの、あまりにもその感情は、繊細で色が透き通っているから、傲慢さや虚栄心といった色の濃い感情に、心の座を占領されてしまう。だから、我が強く色の濃い感情をなるべく心から取り除くことを忘れていると、思考が自己閉塞的になってしまうため、「理解者のいない世界」を自らでつくりあげてしまう。

「我」以外の視点をいくつか持っていれば、その惨めな世界に陥ることを少なからず避けていけるように思う。それは、「自らが誰かの理解者となる世界」を自らでつくりあげることであって、その世界では、奇妙な力が湧いてくることに気がつく。

心の中で孤独に生きていると、自分以外に力の拠り所はない。しかし、誰かの視点を心の中に持って生きていくならば、自分以外の力が、自分の中に存在していることに気がつくのだ。

たとえば、「なんてことのない誰か」を愛すると同時に、「なんてことのない自ら」も愛されてよいのだと、自分の心の中に、大地のような温もりを見つけることができる。何かを大切に見ることができれば、その何かの中に、光る部分があることを発見していく。光る部分をもっと輝かせようとして、それを磨き続ける。この研磨の日々にあっては、我が強く色の濃い感情は出てくる場面がない。その必要がないからだ。心を誤摩化して、何かを頑張る必要はないのだ。疲れたら、自然に休む。無理をしたければ、無理をして、時には身体を壊したりもするかもしれない。しかし、その無理には欺瞞がない。だから、落ち着いていて楽しい。

もしも、世界に惨めさをみつけたら、そのときは、今まさに自らが惨めなのであるという事実に早く気がついた方が良い。もしも、何かや誰かを下に見るときがあるなら、そのときの自分の視野は酷く狭い。なぜなら、存在を構成する最小単位同士の優劣の比較が無意味なように、その寄せ集めであるに過ぎない存在同士の優劣の比較もまた無意味であるからだ。こうした無意味を、皆で楽しめるうちはいいけれども、無意味なことによって、人格などを貶め合うことほど悲しい行為もない。

主観的な考え方に偏り過ぎているから、自らの中だけに、上下が生じる。そして、勝手に世界を惨めなものと解釈して、その世界に生きる自分自身を無益に惨めな存在に貶めていく。

さて、目の前の景色の色合いは、自分で色付けていくことができるのだ。それは、心の状態と創造力によって。ならば、なるべく好きな色をそこに描き上げたい。だから「理解者は探すものではなくて、自らがなるもの」だということを、僕はなるべく忘れないようにしたい。

 

 

 

 

 

 

 

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自律力

生きる意味や価値は、自らで創ることができるのだと気がつけば、その次は、生きる力を手に入れることに意味を見出せるようになるのかもしれない。生きる力と一言にいっても、人間関係、お金、権力、資格、能力、才能、知性、優しさ、愛情と様々にある。
価値を実現するには、その価値の実現を妨げようとする要因に打ち克っていかなければならない。要因は、物理的な障害のみならず、心理的な障害こそ、その大きな割合を占めているように思う。
素晴らしい価値を想像しようとも、それを実現していく力がないとすれば、絵に描いた餅に過ぎない。たとえば、豚が空を飛ぼうと考えたとしても、彼の毎日が与えられた餌を貪り続けるだけでは、彼の夢は夢のままで終わる。もしも、断固とした決意と行動力によって、その餌場から抜け出し、空を目指そうとするならば、飛行機の貨物に紛れ込んでその願いを叶える可能性はあるだろう。
そう考えてみると、創造力の次に重要となるのは、リスクを背負う覚悟のような気がする。それは、自律力と言い換えることができるように思う。
自分が信じる価値において、自分で考えたことを実現する際に、すべての責任を自らに負わせて生きる覚悟を意味する。
自らの人生の中に、他者や周囲の環境といった、自分以外の責任を見出して言い訳をひねり出す様な無様な真似は控えたい。
しかし、とはいっても理不尽なことは少なくない。明らかな外的な悪に対して憤りを感じる場合もある。ただ、そんな時でも、「改善せよ」という意識の矛先は常に自分に向けていなければ、現状を変えていく力を自らの手から手放してしまうことになる。
他者を責めず、自責を徹底する意味は、必ずしも自らが悪いからではなく、「改善の実現」を他人任せにすることなく、自らを起点として自らの手で行い続けるのだという意志を絶やさないためにある。
すると、外的な比較や競争は無意味さを増し、自分が創造する価値の実現に近づいたかどうかに、日々がフォーカスされていく。本質とは無縁の欲望の数々は薄れ、それによって集中力は研ぎ澄まされずにはいられなくなる。
「薄紙を一枚一枚重ねる様な日々」であっても、その一枚一枚は、それ自体が一つの達成と完成であり、故に日々に喜びがもたらされる。
薄紙一枚は、確かに薄いが侮るなかれ。毎日、前日までに積み重なった枚数の二倍の枚数を重ねていくならば、計算上、約40日後には月まで届く高さになる。月までの距離は、約38万kmという。1kmは1000m、1mは100cm、1cmは10mmなので、380000000000mm(3800億mm)である。薄紙を0.1mmとして、2倍にする計算を繰り返すと、10回目で500mmを超え、20回目で500000mmを越え、30回目で5億mmを越え、40回目で6000億mmほどに到達する。(計算が間違っていたら申し訳ない。)
直感的に不可能に捉えてしまうことであっても、日々という積み重ねは、事実としてその直感を覆していくことがあるのかもしれない。奇跡と呼ばれる様なことも、直感と事実の差が生み出した錯覚である場合も少なくない。
自らによって計算し、精査された可能性を信じて進んでいきたい。そうであってこそ、リスクを受け入れることもできるし、日々の一枚一枚を本当に喜べるからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

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自我を切り離す

取り組んでいることに対して、それに愛着を持つほどに、それらがまるで自分の一部かのように錯覚し始めることがある。愛着自体は、非常にいい響きであるし、それがあるからこそ何かを好きになったりできるものだと思う。しかし、自分と同一視してしまう錯覚は、時として悲劇を生む。

順調なときはよいのだ。感情は高揚し、幸福感は増大する。しかし、問題は、順調でないときにある。それらを自我と同一視しているから、まるで自分までも順調ではなくなったかのように思い込んでしまい、本当にそうなっていく。

僕は、オナ禁をしている同士の方々に向けて、この文章を書いているのみならず、他の分野に関しても、こうした自我の錯覚は同じことをもたらしていると思っている。

上手く行かないときは、対象としている物事と自分は同一のものではないことを思い出したい。上手く行っている時に関しては、正直どちらでも構わないだろう。しかし、一貫性を持たなければならないことや、感情の影響が強い事柄に関しては、やはり、取り組んでいることと自我とを切り離してとらえる視点が、非常に重要になるはずだ。

また、そうした視点は、自分の考え方を矯正するというよりかは、むしろ技術的に習慣化してしまうほうが手っ取り早いように思う。たとえば、システムを作って、例外なくそれに則るようにするとかであれば、いつからでも可能だ。考え方を変えていくという方向をとると、毎日の変化の計測は困難だが、システムに従ったか、それとも従わなかったであれば、毎日が改善を果たしているのか、そうでないのか、明瞭化する。

すると、本当に自分が順調なのかどうかが、自分によって客観的に判定できる。そうした客観視が、繰り返されているうちに、「当たり前の事実」を無意識は覚え込んでいく。取り組んでいる物事と、自らの改善度合いは、同一ではないという事実だ。確かに、比例関係にあるときもあれば、反比例関係にあるときもあるだろう。しかし、自分自身ではないことが分かるのだ。

そうなれば、同一性の呪いに縛られていた愛着の姿勢は奇妙な変化をとげる。深く取り組むことに対して、それを、まるで恋人のように愛し始めるのだ。その仲が上手く行かないような日も、とても楽しめた日も、同じくそこには愛情が注がれる。

何かに優しくなり始めると、それは他の方向への拡大し連鎖していく。そうなれば、自我に縛られていた「苦しみの生き方」から、率直で「優しい生き方」に変わっていく。そんな気がしている。

 

 

 

 

 

 

 

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脳の貪欲さ

たとえば、何かしらの問題の解決策を練る。問題が複雑であればあるほど、細分化して、段階を追って、解決の手順を整理していくのが大変になる。あるときは何時間もかかる。当然一日では終わらない。けれど、頭を休めることなくひたすら考え続ける。すると、そのうちに頭が働かなくなってくる。「ああ、そろそろ寝なければいけないのか。」そうして、床に就く。寝る間際まで、頭の中は問題のことで一杯になっているようだが、しかし、同時に意識が遠のいていく。

朝、目が覚める。よくわからないが、問題の解決ができそうな感覚が訪れる。脳が何かを囁いてくる。よく耳を傾けると「お前、簡単な話だ。あれをそうすればいい。」そんな風に、教えてくれる。ひと呼吸おいて考える。ひらめきと似た感覚が到来して、寝起きであったことも忘れて、再び問題と向き合い始める。すると、するすると絡まっていた糸が解け始める。とても面白い。

さて、たとえばプログラミングであれば、問題自体を自らで設定して、その計算の段取りをまた自らで組み立てていく必要があって、そこに変数なり調べたいものを入力して、コンピューターに計算してもらう。しかし、脳は違う。寝る前に、問題を頭の中に放り込んでしまえば、寝ているあいだに、計算の段取りや問題の再定義、そして、最終的な解法と解答まで導き出している。そんなことがあるたびに、まるで神様が身体の中にいるかのようで、不思議な気持ちになる。

一方、起きている間、脳や身体は、快楽を求める。だから、もしかすると、問題の解ける喜びのために、寝ているあいだも休むことなく働いているのかもしれない。そう考え直すと、なんとも貪欲なやつだなあ、と感心させられる。

この神なのか獣なのか分からないような存在と、仲良くやっていくためには、もっと快楽の本質について考える必要があるのだろう。

それは、彼にとって毎日の糧であり、おそらく存在意義そのものなのだろう。だから、できれば、なるべく美味しいものを食べてもらいたい。それは、味だけでなく、手間や、感謝といった総合的な意味での美味しさでありたい。

インスタントラーメンやジャンクフードは確かに手軽で美味しいけれど、心が満たされない。貪欲な彼には、そんな手抜きの食事は通用しない。日々の改善の中で、料理の腕をあげていきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

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