海揺録

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。精節録というブログ名でした。

理解者とは探すものではなくて、自らがなるもの。

「自分のことを理解できる人などいるのだろうか」という問いは、なんとも惨めな問いであろうか。逆に、「自分は誰かを少しでも理解することができているだろうか」という問いは、どれほどの心の優しさを必要とするだろうか。

自らの理解者を欲するのであれば、それに先んじて自らが、誰かの理解者となるべく努めることのみが、その願いを叶えるための術であるように思う。

愛情や優しさは、自然な感情ではあるものの、あまりにもその感情は、繊細で色が透き通っているから、傲慢さや虚栄心といった色の濃い感情に、心の座を占領されてしまう。だから、我が強く色の濃い感情をなるべく心から取り除くことを忘れていると、思考が自己閉塞的になってしまうため、「理解者のいない世界」を自らでつくりあげてしまう。

「我」以外の視点をいくつか持っていれば、その惨めな世界に陥ることを少なからず避けていけるように思う。それは、「自らが誰かの理解者となる世界」を自らでつくりあげることであって、その世界では、奇妙な力が湧いてくることに気がつく。

心の中で孤独に生きていると、自分以外に力の拠り所はない。しかし、誰かの視点を心の中に持って生きていくならば、自分以外の力が、自分の中に存在していることに気がつくのだ。

たとえば、「なんてことのない誰か」を愛すると同時に、「なんてことのない自ら」も愛されてよいのだと、自分の心の中に、大地のような温もりを見つけることができる。何かを大切に見ることができれば、その何かの中に、光る部分があることを発見していく。光る部分をもっと輝かせようとして、それを磨き続ける。この研磨の日々にあっては、我が強く色の濃い感情は出てくる場面がない。その必要がないからだ。心を誤摩化して、何かを頑張る必要はないのだ。疲れたら、自然に休む。無理をしたければ、無理をして、時には身体を壊したりもするかもしれない。しかし、その無理には欺瞞がない。だから、落ち着いていて楽しい。

もしも、世界に惨めさをみつけたら、そのときは、今まさに自らが惨めなのであるという事実に早く気がついた方が良い。もしも、何かや誰かを下に見るときがあるなら、そのときの自分の視野は酷く狭い。なぜなら、存在を構成する最小単位同士の優劣の比較が無意味なように、その寄せ集めであるに過ぎない存在同士の優劣の比較もまた無意味であるからだ。こうした無意味を、皆で楽しめるうちはいいけれども、無意味なことによって、人格などを貶め合うことほど悲しい行為もない。

主観的な考え方に偏り過ぎているから、自らの中だけに、上下が生じる。そして、勝手に世界を惨めなものと解釈して、その世界に生きる自分自身を無益に惨めな存在に貶めていく。

さて、目の前の景色の色合いは、自分で色付けていくことができるのだ。それは、心の状態と創造力によって。ならば、なるべく好きな色をそこに描き上げたい。だから「理解者は探すものではなくて、自らがなるもの」だということを、僕はなるべく忘れないようにしたい。

 

 

 

 

 

 

 

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自律力

生きる意味や価値は、自らで創ることができるのだと気がつけば、その次は、生きる力を手に入れることに意味を見出せるようになるのかもしれない。生きる力と一言にいっても、人間関係、お金、権力、資格、能力、才能、知性、優しさ、愛情と様々にある。
価値を実現するには、その価値の実現を妨げようとする要因に打ち克っていかなければならない。要因は、物理的な障害のみならず、心理的な障害こそ、その大きな割合を占めているように思う。
素晴らしい価値を想像しようとも、それを実現していく力がないとすれば、絵に描いた餅に過ぎない。たとえば、豚が空を飛ぼうと考えたとしても、彼の毎日が与えられた餌を貪り続けるだけでは、彼の夢は夢のままで終わる。もしも、断固とした決意と行動力によって、その餌場から抜け出し、空を目指そうとするならば、飛行機の貨物に紛れ込んでその願いを叶える可能性はあるだろう。
そう考えてみると、創造力の次に重要となるのは、リスクを背負う覚悟のような気がする。それは、自律力と言い換えることができるように思う。
自分が信じる価値において、自分で考えたことを実現する際に、すべての責任を自らに負わせて生きる覚悟を意味する。
自らの人生の中に、他者や周囲の環境といった、自分以外の責任を見出して言い訳をひねり出す様な無様な真似は控えたい。
しかし、とはいっても理不尽なことは少なくない。明らかな外的な悪に対して憤りを感じる場合もある。ただ、そんな時でも、「改善せよ」という意識の矛先は常に自分に向けていなければ、現状を変えていく力を自らの手から手放してしまうことになる。
他者を責めず、自責を徹底する意味は、必ずしも自らが悪いからではなく、「改善の実現」を他人任せにすることなく、自らを起点として自らの手で行い続けるのだという意志を絶やさないためにある。
すると、外的な比較や競争は無意味さを増し、自分が創造する価値の実現に近づいたかどうかに、日々がフォーカスされていく。本質とは無縁の欲望の数々は薄れ、それによって集中力は研ぎ澄まされずにはいられなくなる。
「薄紙を一枚一枚重ねる様な日々」であっても、その一枚一枚は、それ自体が一つの達成と完成であり、故に日々に喜びがもたらされる。
薄紙一枚は、確かに薄いが侮るなかれ。毎日、前日までに積み重なった枚数の二倍の枚数を重ねていくならば、計算上、約40日後には月まで届く高さになる。月までの距離は、約38万kmという。1kmは1000m、1mは100cm、1cmは10mmなので、380000000000mm(3800億mm)である。薄紙を0.1mmとして、2倍にする計算を繰り返すと、10回目で500mmを超え、20回目で500000mmを越え、30回目で5億mmを越え、40回目で6000億mmほどに到達する。(計算が間違っていたら申し訳ない。)
直感的に不可能に捉えてしまうことであっても、日々という積み重ねは、事実としてその直感を覆していくことがあるのかもしれない。奇跡と呼ばれる様なことも、直感と事実の差が生み出した錯覚である場合も少なくない。
自らによって計算し、精査された可能性を信じて進んでいきたい。そうであってこそ、リスクを受け入れることもできるし、日々の一枚一枚を本当に喜べるからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

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自我を切り離す

取り組んでいることに対して、それに愛着を持つほどに、それらがまるで自分の一部かのように錯覚し始めることがある。愛着自体は、非常にいい響きであるし、それがあるからこそ何かを好きになったりできるものだと思う。しかし、自分と同一視してしまう錯覚は、時として悲劇を生む。

順調なときはよいのだ。感情は高揚し、幸福感は増大する。しかし、問題は、順調でないときにある。それらを自我と同一視しているから、まるで自分までも順調ではなくなったかのように思い込んでしまい、本当にそうなっていく。

僕は、オナ禁をしている同士の方々に向けて、この文章を書いているのみならず、他の分野に関しても、こうした自我の錯覚は同じことをもたらしていると思っている。

上手く行かないときは、対象としている物事と自分は同一のものではないことを思い出したい。上手く行っている時に関しては、正直どちらでも構わないだろう。しかし、一貫性を持たなければならないことや、感情の影響が強い事柄に関しては、やはり、取り組んでいることと自我とを切り離してとらえる視点が、非常に重要になるはずだ。

また、そうした視点は、自分の考え方を矯正するというよりかは、むしろ技術的に習慣化してしまうほうが手っ取り早いように思う。たとえば、システムを作って、例外なくそれに則るようにするとかであれば、いつからでも可能だ。考え方を変えていくという方向をとると、毎日の変化の計測は困難だが、システムに従ったか、それとも従わなかったであれば、毎日が改善を果たしているのか、そうでないのか、明瞭化する。

すると、本当に自分が順調なのかどうかが、自分によって客観的に判定できる。そうした客観視が、繰り返されているうちに、「当たり前の事実」を無意識は覚え込んでいく。取り組んでいる物事と、自らの改善度合いは、同一ではないという事実だ。確かに、比例関係にあるときもあれば、反比例関係にあるときもあるだろう。しかし、自分自身ではないことが分かるのだ。

そうなれば、同一性の呪いに縛られていた愛着の姿勢は奇妙な変化をとげる。深く取り組むことに対して、それを、まるで恋人のように愛し始めるのだ。その仲が上手く行かないような日も、とても楽しめた日も、同じくそこには愛情が注がれる。

何かに優しくなり始めると、それは他の方向への拡大し連鎖していく。そうなれば、自我に縛られていた「苦しみの生き方」から、率直で「優しい生き方」に変わっていく。そんな気がしている。

 

 

 

 

 

 

 

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脳の貪欲さ

たとえば、何かしらの問題の解決策を練る。問題が複雑であればあるほど、細分化して、段階を追って、解決の手順を整理していくのが大変になる。あるときは何時間もかかる。当然一日では終わらない。けれど、頭を休めることなくひたすら考え続ける。すると、そのうちに頭が働かなくなってくる。「ああ、そろそろ寝なければいけないのか。」そうして、床に就く。寝る間際まで、頭の中は問題のことで一杯になっているようだが、しかし、同時に意識が遠のいていく。

朝、目が覚める。よくわからないが、問題の解決ができそうな感覚が訪れる。脳が何かを囁いてくる。よく耳を傾けると「お前、簡単な話だ。あれをそうすればいい。」そんな風に、教えてくれる。ひと呼吸おいて考える。ひらめきと似た感覚が到来して、寝起きであったことも忘れて、再び問題と向き合い始める。すると、するすると絡まっていた糸が解け始める。とても面白い。

さて、たとえばプログラミングであれば、問題自体を自らで設定して、その計算の段取りをまた自らで組み立てていく必要があって、そこに変数なり調べたいものを入力して、コンピューターに計算してもらう。しかし、脳は違う。寝る前に、問題を頭の中に放り込んでしまえば、寝ているあいだに、計算の段取りや問題の再定義、そして、最終的な解法と解答まで導き出している。そんなことがあるたびに、まるで神様が身体の中にいるかのようで、不思議な気持ちになる。

一方、起きている間、脳や身体は、快楽を求める。だから、もしかすると、問題の解ける喜びのために、寝ているあいだも休むことなく働いているのかもしれない。そう考え直すと、なんとも貪欲なやつだなあ、と感心させられる。

この神なのか獣なのか分からないような存在と、仲良くやっていくためには、もっと快楽の本質について考える必要があるのだろう。

それは、彼にとって毎日の糧であり、おそらく存在意義そのものなのだろう。だから、できれば、なるべく美味しいものを食べてもらいたい。それは、味だけでなく、手間や、感謝といった総合的な意味での美味しさでありたい。

インスタントラーメンやジャンクフードは確かに手軽で美味しいけれど、心が満たされない。貪欲な彼には、そんな手抜きの食事は通用しない。日々の改善の中で、料理の腕をあげていきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

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不思議な愛おしさ。

ぼーっとしてみると分かりやすいが、焦りや苛立ちの感情が生じているときの心というものは、何かにとらわれていることに気がつく。

それは、実際、他人から見ればありがちなことであり、かつ、自分が感じているよりも本来はたいしたことのない悩みばかりであることが多い。

しかし、たとえば恋に落ちている者は言う。

「この身も心も悶えるような日々が続くようであれば、一体自分はどうなってしまうのだろうか。この状態は、はたして死ぬよりも辛いのではなかろうか。ああ、恋しい。」

それから、1ヶ月が経ち、1年が経ち、3年が経つ。

その者は言う。

「当時は、どうなってしまうのか悩んでいたが、あれから3年が経った今、特にどうにもなってなどいない。いや、恋の温度は変化するものだと頭ではわかっていたはずなのだが、どうやら、当時はそんなことが信じられなくなるほど、全身が焼けるような恋をしていたのだろう。ああ、熱狂の中では、知識や知性、論理や理性は、なんと無力になることであろうか。しかし、熱狂を後悔する気持ちは不思議なことに微塵もない。むしろ、あの辛かったはずの日々が懐かしく、恋しさすら感じるものだ。」

そして、この悲劇なのか喜劇なのか分からない日々は、何度でも繰り返されていく。

さて、死に際に、その者は再びこう呟く。

「ああ、情けない失敗ばかりであった。しかし、なぜだろうか、今も不思議なことにそれらを愛おしく感じている。思い出すと笑みがこぼれずにはいられない。できの悪い子ほど可愛いとは言うものだが、なるほど、自分自身のできの悪さも、今となっては全てがこんなにも大切に思えるとは知らなかった。恥をかいてくれた昔の自分に感謝せねばなるまい。ありがとう。」

 

 

 

 

 

 

 

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ちっぽけな生き物。

自分にとっての自分の存在は、いつだって実物以上に大きく感じてしまう。しかし、ふとした瞬間に、その小ささを実感しては、「ああ、こんなにもちっぽけな生き物。」と、いろんな認識が変わる。

悩んでいるようなことも、それと一緒にちっぽけなものなのだと実感することができる。それは、今かかえている悩みや苦労について、たいしたことなんてないのだと思い込もうとしたり、論理的にそれを片付けてみたり、実質的にはほとんど役に立たないようなこととは根本的に違っている。

成長欲求や向上心は、「上に上に」「大きく、もっと大きく」と、絶え間なく自分に働きかけているが、実際はこんなにも小さい。そうありたいという願いが、実物以上に自分の認識を錯覚させているのかもしれない。そうやって、自分がちっぽけな悪人だということから、目をそらしながら生きているような、そんな感じがする。

「大きなことを成したい」という自然な願いは、たいてい頭の中から出ることはない。たとえ、ちっぽけだとしても、この等身大の自分をめいいっぱいつかって、着実に叶えられる願いを、ひとつひとつ成し遂げていきたい。そして、その小さな誇りを、誰に誇るわけでもなく自分の中で大切に積み重ねていきたい。

たとえば、小さな部屋にいて、部屋から出れば広い世界があると想像してみる。そのとき、部屋というこの空間は、なんだかちっぽけに感じて、そこにいる自分が、とても情けなく感じるが、それは無茶苦茶な話だ。この小さな部屋をめいいっぱいつかえば、どれだけの可能性があるのか、見失っている。

情けなくとも、弱くとも、無能でも、それが現実だ。しかし、だからといって絶望することはない。どんなちっぽけな存在にも、希望はある。希望を叶えるチャンスは、常に与えられている。

どん底にいようとも、どん底にいるという事実を無視しないようにしたい。そこでまず、自分を活かすことを考えたい。

自分の小ささをどんなに強く感じても、だからこそ、毎日希望を持ちたい。そして、そのために、日々の改善を試みていきたい。

 

 

 

 

 

 

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「相手の気持ちを考えろ」という困難を越えていくために。

自分とは異なる視点を相手が持っているかもしれないということが頭で分かっていたとしても、その相手の視点がどのようなものであるかまで分かることはほとんどあり得ない。

だから、自分の主張を伝えるときに、自分にとっては正しいとしても、相手にとっては正しくないかもしれないということを、常に意識しておく必要があるが、それは意外と難しい。なぜなら、相手には正しくないかもしれないという意味において、自らが間違っているかもしれないということを認めるのは、自分の主張の客観性を疑うことであり、まず他者を責める気持ちに考えが向きやすくなる。さもなくば、自己矛盾に苛まれることを避けられないからだ。

そして、そうした自己懐疑心や自分が誤っている可能性について検証を絶やさない姿勢というものを、対峙しているお互いが同時に持っているということが理想ではあるものの、その状況というのは、誤りの可能性を認めるという困難さが単純に二倍に増えるわけだから、より難しいことが分かる。

相手の気持ちを考えた上で、自らの思いを伝えていくということにおける実践的な難しさは、こうしたところに起因しているように思う。

しかし、だからといって、難しいからという理由で、たとえば話し合いにおいて何も判断せずにいるということもできない。

だからそこでは、正しいからという理由で行為を実行するという意味ではなく、誤っているかもしれないが、何かあったときの責任は自らが負うという理由で行為を実行するための強烈な実行力、つまり胆力が求められる。

そうなると、もはや小賢しい論理はむしろ邪魔者となり、また、自分の能力やクオリティーなどはあまり価値を持たなくなる。必要となるのは、その胆力と行為を遂行するにあたって、応援してくれる人々の存在だ。それこそが、上手く進むための確率をあげる力になる。

なぜなら、複数での決定事項というのは、当然独りで行うことではなくて、皆で行うことだからだ。皆で行うことであれば、皆が価値を見出さなければならない。自らは、行為自体に価値があると考えている一方で、他の人が、それを理解してくれないとすれば、それを理解してもらうための最大限の努力が必要になるし、あるいは、行為自体ではなく、自分自身に価値を見出してもらう努力が必要になる。

きっとそれは、長い道のりだが、長い道のりだからこそ、その過程の中に信頼というものが自然とついてくるような気がしている。

 

 

 

 

 

 

 

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