想起された特定の行動のイメージについて、
実際に身体や思考が駆動する段階に進みづらくなるように自動的に施される、
精神的な違和感の一種がある。
「レンガを積む」という文脈よりも、
「家を建てる」という文脈に対して発動しやすい。
より複雑なもの、
より段階的なもの、
より統合的なものに着手しようとする際に、生じやすい。
小さな行動が何らかの衝動で、
すでに活動がスタートしている場合、
その後、大きな行動にシフトしていくとしても、
それが生じにくい。
静止した物体を動かすのは重く、
方向的な慣性が効いている物体を順方向に動かすのは軽い。
この視点であれば、始動に鍵がある。
大きな薪に着火するのには時間が掛かるが、長く燃える。
小さな薪はすぐに着火するが、燃え尽きるのが早い。
この視点だと、コンビネーションとその順序に、燃焼の具合は依存している。
水路の傾斜に起伏の少ない水流は流れやすく、
起伏の激しい地形では、水は留まり、澱みやすい。
これは、整地の問題だ。
作業中に周囲が無秩序に騒がしいとき、集中は乱れ易く、
心地のよい音がBGMならば、そうはならない。
心の静かさと、フォーカスには関連がある。
質量の重い物体を、下り坂に向かって押し出す。
駆動に時間と労力を要するが、
一度、転がり始めれば、全てを薙ぎ倒して進む。
脳の機能性と、過集中には、こんな関係式がある?
個人の創造力に比例して、反作用している力がありそうだ。
大気圏を抜けるまでの抵抗力というのがある。
想像しうる魅力の高さが、推進力のように機能する。
これは、赤い炎。
無為に静かに流れる自然な波は、恒久的な浮力を生む。
これは、青い炎。
心の調べに耳を傾けて、青い炎で心身を温める。
浮かび上がった空で、進路を感じる。
星に手を伸ばし、赤い炎でさらに高く。
朝、静止から始まるのは、地表を足の裏で感じるためだ。
勢いに任せて進んだ空があっても、
今日また、地に足をつけて、
冷静になって選び直すことができるようになっている。
羽を休めた鳥が、
掴んでいた枝を飛び立つときに選ぶ言葉を思う。
「いい天気だ。あっちの枝のほうが日当たりがよさそうだ。」
「今日は風が強い。風向きに飛べば気持ちよさそうだ。」
「何か妙な感じがする。今日は身の回りを整えておこう。」
自分の全ての感覚を信頼するところから始まる。
それらを、
単に動物的な怠惰性の表れとして克己しようと捉えるのか、
神體に示される天の導きとして何らかの気づきとするのか、
私たちは、そのどちらでも選ぶことができる。
自分が好ましいと感じる世界を選択する自由が、
無条件に与えられている。
ある船団が大海を航行していた。
千年に一度の大嵐に遭遇した。
船の一つは「もうだめだ。こんな嵐じゃ、この構造の船は壊れてしまう。」と諦めてしまった。
他の船では「こんなの無理だろ。どんなに頑張っても帆の操作すらできない。」と無気力に陥った。
しかし、ある一つの船では「これは試練だ。必ずどこかに道があるはず。希望を探そう。」と前を向いていた。
嵐が過ぎ去ったあと、船団は崩壊していた。
さて、それから数年後「大嵐の乗り越え方」という航海術の本が出版された。
この千年に一度の大嵐がもたらした教訓は、
航海士の常識を覆し、嵐と船の沈没の統計の数値は大きく塗り変わり、
ほとんどの船に嵐に負けず帆を操作するための機械が設置されるようになった。
天啓的知見は、科学的知見を根底から揺さぶり、動物的知見に力を与える。
後者ふたつは、困難において統計的な諦めや、肉体的な無気力をもたらすが、
前者は、困難の大きさに比例して、大きな気づきをもたらす。